〇吉見俊哉『空爆論:メディアと戦争』(クリティーク社会学) 岩波書店 2022.8
本書は、第一次世界大戦期に始まり、今日まで続く空爆の歴史を、メディアの歴史として捉えたものである。副題「メディアと戦争」が意味するのは「メディア技術としての戦争」であり、その核心は「空爆する眼差し」という言葉で表される。この問題設定は、メディア論の門外漢には、なかなか分かりにくい。しかし分からなくても、とにかく飛び込んで読み進めてみる価値のある本だと思う。
歴史的には18世紀末、熱気球が「上空からの眼差し」を人々にもたらした。それは19世紀の博覧会ブームおよび「帝国の眼差し」と並行して増殖していく。1910年代にはバルカン半島と北アフリカで起きた植民地戦争で、歴史上最初の「空爆」が行われた。その背後には、西欧「文明」の、植民地「野蛮」に対する人種的偏見が介在していた。第一次大戦前後に刊行されたドゥーエの『空の支配』は、飛行機の登場によって戦争における前線と後方の区別が消失したことを主張し、市民の殺戮を含む無差別爆撃を正当化する。
ドゥーエの空爆論は、勃興期の空軍に広く浸透していった。もちろん、中国諸都市への空爆を行った日本軍も例外ではない。しかし、本書に詳述されている、米軍による日本空爆の巨大な規模、科学技術を総動員した精度と効率の徹底に比べれば、おそろしく未熟な模倣にすぎないと感じられる(だから日本軍の罪が軽いという意味でない)。
本書を読んで初めて知ったのは、米軍が日米戦争のなかで攻撃型ドローンの開発に取り組んでいたことだ。日本軍は「カミカゼ」特攻隊を生み出し、兵士に爆弾を誘導する「眼」となることを強いた。つまり、技術力で歯が立たない相手に対して、メディア技術を発達させるのでなく、人間そのものをメディア技術に代替していった。一方、米軍のドローンは、安全なコントロールセンターに身を置く兵士が、自在に相手を殺戮することを目指した。この圧倒的な非対称性には言葉もない。
米軍の日本空爆は、その後、朝鮮半島と北ベトナムで再現される。朝鮮戦争では、日本空爆を上回る空爆が集中的に行われた。しかも「アメリカは朝鮮戦争が休戦状態になってしばらくすると、自分たちが半島でしたことをさっさと忘れた」というのが酷い。しかしベトナムでは、対日戦で効果を発揮した航空写真や都市地図が、絶えず動きまわるゲリラには全く役に立たなかった。大量の爆弾は、ベトナム人の戦意を喪失させるどころか、反米意識を強固にする手助けをしただけだった。この失敗に学んだ米軍は、つねに上空から地上を監視し続けるドローンと、さらに上空からドローンを制御する人工衛星のネットワークの整備を本格化させる。そして訪れる湾岸戦争。
では、「上空からの眼差し」に狙われた側にできることは何か。ベトナムでも中東でも、多くの人々が地下に逃れ、カモフラージュを重ね、時には(比喩的な意味で)自爆攻撃を仕掛けてきた。3月10日の東京大空襲後の路上の風景を数多く撮影し、「地上の眼差し」を後世に残したカメラマン石川光陽もそのひとりである。あるいは、「ゴジラ」をはじめとする初期の怪獣映画、水木しげるから大友克洋までのマンガ・アニメにも、戦争末期の空爆や無意味な戦闘の記憶が反映している。「1945年の日本列島で生じた無差別大量殺戮が、アメリカによるきわめて意図的で計算し尽くされた作戦の実現であったことをあからさまに糾弾することを避けてきた戦後日本社会は、その屈折した記憶の政治を、数々の大衆文化作品に創造的に昇華させていったのだ」という。この屈折は、十分ではないが、なんとなく分かる。
私は、もし今の日本に「戦後レジームからの脱却」なるものが求められるとしたら、アメリカが人種的偏見に基づいておこなってきた大量殺戮を糾弾するところから始めるべきではないかと思う。それは過去だけの問題ではない。今も「上空からの眼差し」に命がけで抵抗している人たちがいるのだから。