新春の京都で、また「源平ゆかりの地」を巡ってみた。例によって「平安京探偵団」のサイトと京都市歴史資料館の「いしぶみデータベース」のお世話になっている。
■積翠園(しゃくすいえん)
平重盛の邸宅「小松殿」の庭園と伝えられる「積翠園」。京都国立博物館に向かうバスを、少し手前(北)の馬町の停留所で降りる。かつては、東大路通りに面して東山武田病院(旧:京都専売病院)があり、病院の構内にある庭園を自由に見学することができたらしい(2011年夏頃の記事)。ところが、同院は2011年12月に閉院、2012年夏には解体工事が始まった。跡地にはフォーシーズンズホテル京都が2015年に開業予定だという。そんな超高級ホテルの私有地になってしまったら、客にならない限り、小松殿を偲んで立ち入れないのかしら…。現状はこんな状態↓
■蓮華王院(三十三間堂)
博物館に入ろうと思ったら、向かいの三十三間堂に、朝から晴れ着の女性たちの集団が吸い込まれていく。そうか、今日(1/13)は「通し矢」の日だ!と気づいて、物見高い私もふらふらと三十三間堂へ。「通し矢」の会場とは別に、境内には立ち食いの露店が立ち並ぶ。こんな世話にくだけた三十三間堂は初めて見た。無料公開のお堂の中は、思うように動けないほどの大混雑。壇上の千体仏より拝観者のほうが多い(笑)というのも、見たことのない光景だった。混雑の理由が分かったのは、ご本尊の前あたりに来たとき。お堂の正面に張り出すように特設スペースが設けられており、拝観者は順番に、高僧から柳の枝でお加持の浄水を振りかけてもらうという「楊枝(やなぎ)のお加持」を受けることができるのだ。ありがたや。
■法住寺
三十三間堂を出ると、すぐそばの法住寺で「本日、大根炊き」の立て看板が目に入ったもので、またふらふらと寄ってしまう。護摩木と大根炊き引換券がセットで700円。阿弥陀堂では後白河法皇の木像(江戸期の模造)が特別公開されていたので、お座敷にあがって年賀のご挨拶を申し上げる。大きなお碗に山盛りの大根炊きは、味の沁みた厚揚げがポイント。後白河さんから「食うて参れ」と勧められているようで、ありがたくいただく。
■平家一門邸宅跡
博物館を出たあと、バスで九条へ南下。「平安京探偵団」の「『平家物語』を読むための平安京図」によれば、九条河原口に平清盛が生涯を終えた盛国邸があったというので、そのあたりに行ってみて往時を偲ぶ。さらに、東寺の西側に平重衡邸があり、八条北側(JR線路のあたり)に重盛邸、頼盛邸、宗盛邸が並んでいたらしいが、見事に何も(後世の顕彰碑すら)ないんだなーと思いながら歩く。
ところが翌日(1/14)、早々に京都を離れて帰京したあとで、まさにこの日に「平清盛終焉推定地(高倉天皇誕生地)」碑の除幕式があったことを知って、びっくりした。
→歴史と地理な日々(新版):平清盛終焉地碑、除幕目前
→平安京閑話:平清盛終焉地の石碑、の巻
まあ、また次の機会に訪ねてみる楽しみが増えたと思おう。
■高松神明神社(高松殿遺址)など
京都駅→京都文化博物館に寄り、すぐそばの「三条東殿遺址」の碑を確かめたあと、烏丸通りを渡って西へ進み、高松神明神社を見つける。もと源高明の邸宅で、保元の乱の際は後白河天皇の本拠地となったところ。西隣りが信西(藤原通憲)邸宅跡でもある。
烏丸通りに戻って北上。このへんに頼盛、経盛邸があったらしい。清盛の兄弟世代の邸宅は二条~三条へんなのに、息子世代の邸宅は八条に集まっているのが面白いと思う。
丸太町通りに出ると、京都御苑の南端の九条池に、小さな厳島神社がある。平清盛が母の祇園女御のために祀ったのが始まりとされるが、この所伝はあやしい。
■白河北殿・白河南殿遺址など
丸太町通りを岡崎方面へ。鴨川を渡ったあたりが、保元の乱で崇徳上皇方の拠点となった白河北殿である。昨年5月にもこのへんをうろうろしたのだが、京都大学熊野寮の一角に「白河北殿址」の碑があることを知ったので、あらためて見にきた。いちおう寮の構内に入らなくても、丸太町通りから見えるように配慮してくれているのかも知れないが、明らかに放置状態。
「白河南殿跡」の碑は疎水の南岸にある。桜の季節はきれいだろうな。
疎水に沿って、東大路通りを渡ると「得長寿院跡」。平忠盛が鳥羽院の御願寺として造営したもの。現存する三十三間堂と同規模の建築であったといわれ、ドラマでは三十三間堂がロケに使われていた。
このあと、少し南下して、二条通りを東に進み、六勝寺のうち「尊勝寺跡」の碑が京都会館側に、「成勝寺跡」の碑が府立図書館側に、ひっそり立っているのを確認。そろそろ夕闇せまる中を、さらに東に進んで、白河院(藤原北家の別荘、藤原師実から白河天皇に献上された)の旧跡とされるあたりまで歩いた。
今回の散歩の参考にしたガイドブック『乗る&歩く京都編』には「白河院跡」の碑は載っていなかったので、和風旅館「白河院」の看板が見えてきたところで終了とし、法勝寺のバス停からバスに乗った。あとで調べたら旅館の庭園内に「此附近 白河院址」の碑があるらしい。うーん、見てみたいが、私には高級すぎる…。
→京都寺社案内「白河院跡・法勝寺跡・白河院庭園」
→和風旅館「京都 白河院」
■浄教寺
すっかり日も暮れてしまったが、最後に四条河原町のホテルから、寺町四条下ルの浄教寺に行ってみた。「平安京探偵団」によれば、平重盛が東山に建立した灯籠堂の後身であるという由緒を持つお寺である。残念ながら山門はもう閉じていた(非公開寺院)。
四条通りを少し外れるとはいえ、人も車もひっきりなしに行き交う繁華街の中心部。不夜城のような商業ビルのまぶしい照明の間におさまった小さな山門は、絵本「小さいおうち」を思わせ、過疎化の進む地方のお寺を維持していくのとはまた別のご苦労があるだろうな、と思った。
■積翠園(しゃくすいえん)
平重盛の邸宅「小松殿」の庭園と伝えられる「積翠園」。京都国立博物館に向かうバスを、少し手前(北)の馬町の停留所で降りる。かつては、東大路通りに面して東山武田病院(旧:京都専売病院)があり、病院の構内にある庭園を自由に見学することができたらしい(2011年夏頃の記事)。ところが、同院は2011年12月に閉院、2012年夏には解体工事が始まった。跡地にはフォーシーズンズホテル京都が2015年に開業予定だという。そんな超高級ホテルの私有地になってしまったら、客にならない限り、小松殿を偲んで立ち入れないのかしら…。現状はこんな状態↓
■蓮華王院(三十三間堂)
博物館に入ろうと思ったら、向かいの三十三間堂に、朝から晴れ着の女性たちの集団が吸い込まれていく。そうか、今日(1/13)は「通し矢」の日だ!と気づいて、物見高い私もふらふらと三十三間堂へ。「通し矢」の会場とは別に、境内には立ち食いの露店が立ち並ぶ。こんな世話にくだけた三十三間堂は初めて見た。無料公開のお堂の中は、思うように動けないほどの大混雑。壇上の千体仏より拝観者のほうが多い(笑)というのも、見たことのない光景だった。混雑の理由が分かったのは、ご本尊の前あたりに来たとき。お堂の正面に張り出すように特設スペースが設けられており、拝観者は順番に、高僧から柳の枝でお加持の浄水を振りかけてもらうという「楊枝(やなぎ)のお加持」を受けることができるのだ。ありがたや。
■法住寺
三十三間堂を出ると、すぐそばの法住寺で「本日、大根炊き」の立て看板が目に入ったもので、またふらふらと寄ってしまう。護摩木と大根炊き引換券がセットで700円。阿弥陀堂では後白河法皇の木像(江戸期の模造)が特別公開されていたので、お座敷にあがって年賀のご挨拶を申し上げる。大きなお碗に山盛りの大根炊きは、味の沁みた厚揚げがポイント。後白河さんから「食うて参れ」と勧められているようで、ありがたくいただく。
■平家一門邸宅跡
博物館を出たあと、バスで九条へ南下。「平安京探偵団」の「『平家物語』を読むための平安京図」によれば、九条河原口に平清盛が生涯を終えた盛国邸があったというので、そのあたりに行ってみて往時を偲ぶ。さらに、東寺の西側に平重衡邸があり、八条北側(JR線路のあたり)に重盛邸、頼盛邸、宗盛邸が並んでいたらしいが、見事に何も(後世の顕彰碑すら)ないんだなーと思いながら歩く。
ところが翌日(1/14)、早々に京都を離れて帰京したあとで、まさにこの日に「平清盛終焉推定地(高倉天皇誕生地)」碑の除幕式があったことを知って、びっくりした。
→歴史と地理な日々(新版):平清盛終焉地碑、除幕目前
→平安京閑話:平清盛終焉地の石碑、の巻
まあ、また次の機会に訪ねてみる楽しみが増えたと思おう。
■高松神明神社(高松殿遺址)など
京都駅→京都文化博物館に寄り、すぐそばの「三条東殿遺址」の碑を確かめたあと、烏丸通りを渡って西へ進み、高松神明神社を見つける。もと源高明の邸宅で、保元の乱の際は後白河天皇の本拠地となったところ。西隣りが信西(藤原通憲)邸宅跡でもある。
烏丸通りに戻って北上。このへんに頼盛、経盛邸があったらしい。清盛の兄弟世代の邸宅は二条~三条へんなのに、息子世代の邸宅は八条に集まっているのが面白いと思う。
丸太町通りに出ると、京都御苑の南端の九条池に、小さな厳島神社がある。平清盛が母の祇園女御のために祀ったのが始まりとされるが、この所伝はあやしい。
■白河北殿・白河南殿遺址など
丸太町通りを岡崎方面へ。鴨川を渡ったあたりが、保元の乱で崇徳上皇方の拠点となった白河北殿である。昨年5月にもこのへんをうろうろしたのだが、京都大学熊野寮の一角に「白河北殿址」の碑があることを知ったので、あらためて見にきた。いちおう寮の構内に入らなくても、丸太町通りから見えるように配慮してくれているのかも知れないが、明らかに放置状態。
「白河南殿跡」の碑は疎水の南岸にある。桜の季節はきれいだろうな。
疎水に沿って、東大路通りを渡ると「得長寿院跡」。平忠盛が鳥羽院の御願寺として造営したもの。現存する三十三間堂と同規模の建築であったといわれ、ドラマでは三十三間堂がロケに使われていた。
このあと、少し南下して、二条通りを東に進み、六勝寺のうち「尊勝寺跡」の碑が京都会館側に、「成勝寺跡」の碑が府立図書館側に、ひっそり立っているのを確認。そろそろ夕闇せまる中を、さらに東に進んで、白河院(藤原北家の別荘、藤原師実から白河天皇に献上された)の旧跡とされるあたりまで歩いた。
今回の散歩の参考にしたガイドブック『乗る&歩く京都編』には「白河院跡」の碑は載っていなかったので、和風旅館「白河院」の看板が見えてきたところで終了とし、法勝寺のバス停からバスに乗った。あとで調べたら旅館の庭園内に「此附近 白河院址」の碑があるらしい。うーん、見てみたいが、私には高級すぎる…。
→京都寺社案内「白河院跡・法勝寺跡・白河院庭園」
→和風旅館「京都 白河院」
■浄教寺
すっかり日も暮れてしまったが、最後に四条河原町のホテルから、寺町四条下ルの浄教寺に行ってみた。「平安京探偵団」によれば、平重盛が東山に建立した灯籠堂の後身であるという由緒を持つお寺である。残念ながら山門はもう閉じていた(非公開寺院)。
四条通りを少し外れるとはいえ、人も車もひっきりなしに行き交う繁華街の中心部。不夜城のような商業ビルのまぶしい照明の間におさまった小さな山門は、絵本「小さいおうち」を思わせ、過疎化の進む地方のお寺を維持していくのとはまた別のご苦労があるだろうな、と思った。
噂に聞いていましたが、その量に驚きました。