○広田照幸、石川健治、橋本伸也、山口二郎『学問の自由と大学の危機』(岩波ブックレット) 岩波書店 2016.2
2015年6月、国立大学長会議で挨拶に立った下村博文文部科学大臣は、大学の入学式・卒業式での国旗・国歌の取り扱いについて「適切にご判断いただけるようお願いする」と述べた。私は、ずっと国立大学の周辺で仕事をしてきたので、またかとうんざりする一方、この問題に関して、大学の選択の自由がじりじりと狭められている印象を持った。
著者のひとり、広田照幸氏は、今回の事態が「今後の展開次第では、日本の大学が知的な自由を失ってしまう、その歴史的な転換点になりかねない危険性」をはらんでいると考え、「学問の自由を考える会」を立ち上げ、7月4日に東京大学でシンポジウム「学問の自由をめぐる危機--国旗国歌の政府「要請」について考える」を開催した。本書には、石川健治、橋本伸也、山口二郎の三氏による当日の報告と、当日の議論を踏まえた広田照幸氏によるまとめの考察が収録されている。
石川健治氏は、シンポジウムの会場となった法文一号館二五番教室が、美濃部達吉博士の告別追悼会が行われた場所であり、「ポポロ事件」の現場でもあることに触れながら、学問の自由と大学の自治の歴史を振り返る。美濃部の天皇機関説は一種の法学的国家論で、法人は定款というルールを持ち、定款には必ず意思決定の最高機関が定められている。大日本帝国は、憲法といういう定款を持ち、最高機関は天皇であると考えられた。ところが、1935年、貴族院議員の菊池武夫による美濃部弾劾演説(おそらく蓑田胸喜の入れ知恵)をきっかけに紛糾し、美濃部が右翼の暴漢に狙撃される事件も起きた。
嫌なのは、弾劾演説の尻馬に乗って民間右翼団体が騒ぎ出し、党利党略の観点から加担する政党(立憲政友会!)が現れると、当初は静観するつもりだった内閣も文部省も持ちこたえられなくなって、思想局という部署を通じて、各大学の憲法学者が槍玉にあがり、「教授の自由」への介入が激化していく、という経緯。結局、一部の過激派の行動によって、穏健な良識派は、ずるずる寄り切られていくのだ。菊池武夫の演説は、今回の国旗・国家をめぐる松沢成文議員(次世代の党)の質問に似ていて「気持ちの悪いデジャヴュ感」があるという著者の指摘も気になる。
戦後の憲法には「学問の自由はこれを保障する」(なるほど五七調である)という条文がある。これは立憲主義の憲法の「標準装備」ではなく、幾多の言論弾圧事件の経験を踏まえて、意識的に設けられたものと考えられる。日本の大学は「ドイツ型」で、基本的に公の営造物なので、設置者(政府)は「税金でつくられたのだから」と設置目的を押し付けてくる。これに対して、ドイツの大学人たちは、大学は学問共同体であり、自分たちは公務員である前に大学人であると主張し、設置者との闘争を勝ち抜いて、憲法に刻まれた「学問の自由」を獲得した。だから、今日、日本の政府が「納税者(設置者)の意思」を旗印に大学改革を迫る傾向は、ひとつの憲法問題である、という指摘は、目がさめるように思った。一方で、こうした「大学の特権」の危機が、今も昔も、大学の外からは冷ややかに見られていた(いる)ことも忘れてはならない。
橋本伸也氏は、中世~ルネサンス、宗教改革、17世紀科学革命等を経て20世紀に至るヨーロッパ大学史を概観し、大学と国家の関係は未完のアジェンダであると述べる。特に近年、高等教育の量的拡大によって大学の学校化が急速に進行していること、新自由主義的大学改革の中で、研究者の分断と敵対関係が生まれているという問題提起が印象に残った。
山口二郎氏は、最もストレートに日本の政治と大学の状況を論じている。新自由主義と官僚主義の悪弊が結合して、日本の大学を苦境に立たせている。学問の政治化には断固として反対していかなければならない。そのためには、学者はアカデミズムの中でだけ議論していては駄目で、ジャーナリズムにかかわらなければいけない。私は、基本的にはこの意見に賛成する立場。
最後に広田照幸氏は、いくつかの政治家の発言を、教育基本法に照らし合わせて批判する。たとえば安倍総理の「教育基本法の方針に則って」という発言。先の松沢委員と安倍総理の「税金で賄われているから」という文言。これらが、いかに乱暴で恣意的であるか、きっちり図面を引くような、論理的な批判が組み立てられていて、私は読んでいて気持ちよかった。しかし、こういう論理的で知性的な批判が全く有効でないのが、今の政府の困った点であろう。
![](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51dNe%2BHZ%2BDL._SL160_.jpg)
著者のひとり、広田照幸氏は、今回の事態が「今後の展開次第では、日本の大学が知的な自由を失ってしまう、その歴史的な転換点になりかねない危険性」をはらんでいると考え、「学問の自由を考える会」を立ち上げ、7月4日に東京大学でシンポジウム「学問の自由をめぐる危機--国旗国歌の政府「要請」について考える」を開催した。本書には、石川健治、橋本伸也、山口二郎の三氏による当日の報告と、当日の議論を踏まえた広田照幸氏によるまとめの考察が収録されている。
石川健治氏は、シンポジウムの会場となった法文一号館二五番教室が、美濃部達吉博士の告別追悼会が行われた場所であり、「ポポロ事件」の現場でもあることに触れながら、学問の自由と大学の自治の歴史を振り返る。美濃部の天皇機関説は一種の法学的国家論で、法人は定款というルールを持ち、定款には必ず意思決定の最高機関が定められている。大日本帝国は、憲法といういう定款を持ち、最高機関は天皇であると考えられた。ところが、1935年、貴族院議員の菊池武夫による美濃部弾劾演説(おそらく蓑田胸喜の入れ知恵)をきっかけに紛糾し、美濃部が右翼の暴漢に狙撃される事件も起きた。
嫌なのは、弾劾演説の尻馬に乗って民間右翼団体が騒ぎ出し、党利党略の観点から加担する政党(立憲政友会!)が現れると、当初は静観するつもりだった内閣も文部省も持ちこたえられなくなって、思想局という部署を通じて、各大学の憲法学者が槍玉にあがり、「教授の自由」への介入が激化していく、という経緯。結局、一部の過激派の行動によって、穏健な良識派は、ずるずる寄り切られていくのだ。菊池武夫の演説は、今回の国旗・国家をめぐる松沢成文議員(次世代の党)の質問に似ていて「気持ちの悪いデジャヴュ感」があるという著者の指摘も気になる。
戦後の憲法には「学問の自由はこれを保障する」(なるほど五七調である)という条文がある。これは立憲主義の憲法の「標準装備」ではなく、幾多の言論弾圧事件の経験を踏まえて、意識的に設けられたものと考えられる。日本の大学は「ドイツ型」で、基本的に公の営造物なので、設置者(政府)は「税金でつくられたのだから」と設置目的を押し付けてくる。これに対して、ドイツの大学人たちは、大学は学問共同体であり、自分たちは公務員である前に大学人であると主張し、設置者との闘争を勝ち抜いて、憲法に刻まれた「学問の自由」を獲得した。だから、今日、日本の政府が「納税者(設置者)の意思」を旗印に大学改革を迫る傾向は、ひとつの憲法問題である、という指摘は、目がさめるように思った。一方で、こうした「大学の特権」の危機が、今も昔も、大学の外からは冷ややかに見られていた(いる)ことも忘れてはならない。
橋本伸也氏は、中世~ルネサンス、宗教改革、17世紀科学革命等を経て20世紀に至るヨーロッパ大学史を概観し、大学と国家の関係は未完のアジェンダであると述べる。特に近年、高等教育の量的拡大によって大学の学校化が急速に進行していること、新自由主義的大学改革の中で、研究者の分断と敵対関係が生まれているという問題提起が印象に残った。
山口二郎氏は、最もストレートに日本の政治と大学の状況を論じている。新自由主義と官僚主義の悪弊が結合して、日本の大学を苦境に立たせている。学問の政治化には断固として反対していかなければならない。そのためには、学者はアカデミズムの中でだけ議論していては駄目で、ジャーナリズムにかかわらなければいけない。私は、基本的にはこの意見に賛成する立場。
最後に広田照幸氏は、いくつかの政治家の発言を、教育基本法に照らし合わせて批判する。たとえば安倍総理の「教育基本法の方針に則って」という発言。先の松沢委員と安倍総理の「税金で賄われているから」という文言。これらが、いかに乱暴で恣意的であるか、きっちり図面を引くような、論理的な批判が組み立てられていて、私は読んでいて気持ちよかった。しかし、こういう論理的で知性的な批判が全く有効でないのが、今の政府の困った点であろう。