見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

神保町と新川でビャンビャン麺@「秦唐記」

2020-03-10 00:28:36 | 食べたもの(銘菓・名産)

 中国陝西省の名物料理だというビャンビャン麺。自宅から徒歩圏内の中央区新川(茅場町駅最寄り)の「西安麺荘秦唐記」というお店で食べられるという噂は聞いていたのだが、なんとなく道が不案内で行き渋っていた。

 そうしたら、勝手の分かった神保町に「秦唐記」の二号店ができたというので、買い物のついでに寄ってみた。調理法は「油泼面(ヨウポー麺)」を選んで、麺の種類に「ビャンビャン麺」を選ぶ。サイコロ状の豚肉、ゆで野菜、調味料をよく掻きまぜて、和えて食べる。追加の香菜(パクチー)もよく合う。味の濃さは関東人好み。麺のゆで汁がお椀でついてくるので、ときどき口の中を中和する。

 すごく気に入ったので、先週末は新川の一号店にも行ってみた。

 この難しい字がビャンビャン麺のビャン。

 同じメニューを注文。神保町の二号店より、いくぶん油多めだったが、現地の味らしくてよい。嫌いじゃない。

 これは蘭州ラーメンに続いて私の「好物」のカタログに加えたい。また食べに行こう。

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漱石の画家のその後/背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和(練馬区立美術館)

2020-03-09 00:19:11 | 行ったもの(美術館・見仏)

練馬区立美術館 生誕140年記念『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和』(2020年2月21日~4月12日)

 新型コロナウイルス感染症の影響で、都内の美術館・博物館が軒並み休館する中で、どうやら開けているらしいと分かったので行ってみた。津田青楓(1880-1978)は、京都の生け花の家元の家に生まれたが、奉公先を飛び出し、生活の糧として図案制作を始める。本格的な日本画も学び、次いで洋画を学んで、フランスへ留学する。帰国後、東京へ移住し、夏目漱石に出会う。

 私が津田青楓と聞いて最初に思い浮かべるのは、漱石の著書の装丁である。数では橋口五葉のほうが多いのだろうけれど、なんといっても『明暗』。ほかにも岩波書店版の『道草』(きれいだなあ!)や講演・小品集『金剛草』(至誠堂)など。『色鳥』(新潮社)の赤と黒の繋ぎ文様の装丁は、今も新潮文庫の漱石シリーズに使われているもので懐かしかった。

 1階の展示室は、これら装丁の仕事に近い図案作品が多数並べられていた。花鳥や和船や田園風景など日本の伝統的な風物が新しい感覚で切り取られていて楽しかった。漱石や門人たちとの交友を示す資料、それから青楓が描いた漱石の死に顔のスケッチもあった。青楓が日露戦争に従軍し、旅順包囲戦などの激戦を体験していたことは初めて知った。こんなに甘く儚く美しい図案を生み出した青楓が、ごろごろと死骸と負傷者のころがる戦地を見ていたということが、なんだか呑み込めないまま胸に残った。

 2階の展示室は、洋画家としての青楓を紹介する。図案の仕事とは打って変わった作風だ。明暗を単純化したマッシブな人物像、特に裸婦を描いた作品が多く、印象的だった。関東大震災後の混乱を避けて京都に戻った青楓は、経済学者川上肇を知る。着物姿でぶ厚い洋書を読む『研究室に於ける河上肇像』という肖像画を描いている。青楓は、河上の影響でマルクスを読むなど、社会思想への関心を深めていく。

 そしていくつかの衝撃的な作品。この展示構成はとても苦心して設計されていたと思う。まず大画面の『疾風怒濤』が嫌でも目に入る。岩に当たって真っ白に砕け散る波濤。昭和7年(1932)の作品で、左翼思想に対する弾圧が強化され、息苦しい世相に対する不平不満を表明したものと見られているという。歩を進めて、視線を右手の奥まった空間に向けると、昭和8年(1933)作の『犠牲者』が掛かっていた。破られたぼろぼろの服、血を流しながら、両手を吊り下げられた男。小林多喜二の虐殺をテーマに、十字架のキリストを重ねて描いたものだという。画面の左下に鉄格子の嵌った四角い窓があり、木の枝に隠れるように国会議事堂が描かれている。一瞬信じがたいが、青楓の作品である。青楓は、官憲にアトリエに踏み込まれたが、この絵を隠して押収を免れた。公表されたのは戦後である。

 この絵を囲んで、小林多喜二のデスマスク、プロレタリア美術展覧会のポスター、そして、山本宣治の葬儀を描いた、大月源二の『告別』も展示されていた。昨年、小樽文学館の企画展『いまプロレタリア芸術が面白い! 』には、カラーコピーを貼り合わせた複製が展示されていたもの。まさか津田青楓展でこの作品に出会うとは、予想もしていなかったので動揺してしまった。山本宣治の母親は青楓の生家に生け花を習いに来ていたという。

 それから昭和6年(1931)の『ブルジョワ議会と民衆生活』(下絵のみ現存)も興味深い。青空を背景に、当時建設中だった国会議事堂の大建築を堂々と描き、その下に日陰に沈むような民衆のバラックを描く。実景なのかイメージなのか分からないが、当時の「議会」が全く民衆のものでなかったというメッセージは伝わってくる。そんな青楓であったが、昭和8年に検挙されたあと、「転向」を誓約することで起訴留保処分となる。会場には、当時の新聞記事のスクラップブックが展示されていた。

 青楓は、社会主義や社会運動への関心を断ち切ると同時に、洋画を捨てる。さらに展覧会や公的な仕事から退き、日本画(南画)だけを描き続ける。それは戦後も変わらなかった。やわらかな形とあざやかな色彩。90歳を超えて、どんどん自由に奔放になる筆遣い。1975年に画家・毛利武彦が描いた晩年の青楓の肖像、さらに死に顔のスケッチがある。

 本展が青楓に冠した「背く画家」というタイトルを、最初はほとんど気に留めていなかったのだが、長い生涯をたどってみると「因習に背く」「帝国に背く」「近代に背く」画家だったことが理解できた。70年代の豊かになりゆく日本の中で、自分の描きたい絵を描き続けた晩年は幸せだったのかなあ。どうだろうか。

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ヘイト本を考える/私は本屋が好きでした(永江朗)

2020-03-07 23:05:59 | 読んだもの(書籍)

〇永江朗『私は本屋が好きでした:あふれるヘイト本、つくって売るまでの舞台裏』 太郎次郎社エディタス 2019.11

 永江さんの名前は『ときどき、京都人』や『65歳からの京都歩き』などの引っ越しエッセイで覚えたつもりだったが、検索したら、2014年に『「本が売れない」というけれど』を読んでいた。著者は、1980年代から、書店員、ライター、編集者として、本と書店にかかわってきた経歴を持つ。本屋の経営者やマネージャー、売り場担当者に取材した仕事も多い。けれども数年前から本屋をのぞくのが苦痛になってきたという。その原因はヘイト本である。

 そこで本書は「本屋にとってヘイト本とはなにか」を考える目的で書かれている。ヘイト本の制作、出版、流通、販売という各段階の関係者、すなわち(読者に近い方から)書店経営者、出版取次、出版社、編集者、ライターへのインタビューを紹介したあと、各段階の問題点を指摘し、著者なりの提言を行う。なお、注記によれば、収録された座談会やインタビューは、2015年から2016年にかけて行われたもので、やや情報は古い感じがした。

 著者は「ヘイト本」という曖昧な表現にも疑問を呈している。何かを批判し攻撃する本が全てダメなのではない。しかし「差別を助長し、少数者への攻撃を扇動する、憎悪に満ちた本」は必要なのか、無責任に本屋に並べていいのか、というのが著者の問題意識である。一方、お行儀のよい本を並べただけの本屋がつまらないことは著者もよく分かっている。だから著者の悩みは深いわけだが、本書に登場する書店や出版関係者はおおむねもっと醒めていて、著者の真剣さとのズレが、申し訳ないが面白かった。

 ライターの古谷経衡さんは、ヘイト本の読者はネット右翼ではないという。嫌韓反中本を買うのは七十代前後。ネット右翼は四十代で、彼らは動画に依拠している。しかしヘイト本のつくり手はそういう構造を知らないので四十代が買っていると思っている、と指摘する。これは書店経営者の証言、買い手は「圧倒的に中高年の男性が多い」「六十代、七十代の男性」と符合している。ある書店経営者による「おじいちゃんにとっては、ファンタジーみたいなものなんだと思う」「そう、癒し」という発言には苦笑してしまった。ビジネスマンが自己啓発本や財テク成功本を求め、女性が美容コスメ本を求めるようなものだろうか。

 ある取次関係者は「そもそも、ヘイト本のブームなんてありましたっけ?」と聞き返す。ヘイト本がブームというなら、片づけ本やダイエット本はその何十倍も売れているというのだ。また、嫌韓反中本を多く出している青林堂の元社員によれば、ヘイト本の初版は3000部から5000部だそうで、著者は「人文系の中堅出版社と同じくらいだろうか」と冷静に比較している。そんなわけで、確かにヘイト本の存在は悩ましいけれど、あまり過大評価する必要もないことが理解できた。

 むしろ日本の出版業界にとっての宿痾は、独特の流通システムだと思う。日本の出版業界には「仕入れて売る」という他の小売業では当たり前の概念が存在しない。配本を決めるのは取次である。取次は、出版社の発行部数に応じて仕入れ部数を決め、書店の販売実績に応じて配本する。このことは、いくつかのルポルタージュで読んで知っていたつもりだが、あらためて「そうだった」と思い当たった。

  しかし、POSデータに基づくランキングを過度に信用することは、さまざまな危険性を伴う。その関連で言及されている「本屋大賞」の問題点も興味深かった。「書店員は本のことをよく知っている」も「本屋大賞は全国の書店員が選んだ良書」というのも幻想に過ぎないのだ。

 本屋は見計らい配本を止め、本を選んで仕入れる/取次は仕入れに役立つ情報を本屋に提供する/出版社は、その本をつくった者の氏名を明らかにし、責任の所在を明らかにするという、著者の「ヘイト本対策」に異論はない。というか、これが実践されれば、ヘイト本うんぬんよりも、魅力的な本屋が街に増えることは確実だと思う。

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もうひとつの歌川派(弥生美術館)+はいからモダン袴スタイル展(竹久夢二美術館)

2020-03-06 22:28:11 | 行ったもの(美術館・見仏)

弥生美術館 『もうひとつの歌川派?!国芳・芳年・年英・英朋・朋世~浮世絵から挿絵へ 歌川派を継承した誇り高き絵師たち』+竹下夢二美術館 『はいからモダン袴スタイル展-「女袴」の近代、そして現代 -』(2020年1月7日~3月29日)

 新型コロナウイルス感染症の影響の中、都内で開館を続けている数少ない美術館に行ってきた。弥生美術館の『もうひとつの歌川派?』は、歌川豊春から始まる浮世絵界最大の派閥「歌川派」のうち、注目されることの少ない絵師たちを取り上げる。「もうひとつの」と言われても、主流派のほうを知らなかったのだが、豊春→豊国→国芳→月岡芳年→水野年方→鏑木清方→伊東深水というのが、最も知られた系譜らしい。

 本展では、まず国芳と芳年をたっぷり。大好きなので嬉しい。芳年の『素戔嗚尊出雲の簸川上に八頭蛇を退治し給う図』を久しぶりに見た。縦長の画面を活かした『魯智深爛酔打壊五台山金剛神之図』もよい。芳年の兄弟弟子である落合芳幾も。

 そして、芳年の弟子の右田年英(1863-1925)→鰭崎英朋(1880-1968)→神保朋世(1902-1994)というのが、本展企画者の推しの系譜であるらしい。右田年英の名前は、先日、太田美術館の『ラスト・ウキヨエ』展で覚えたばかり。『ラスト・ウキヨエ』展のポスターになった『羽衣』図の作者だが、歴史画、美人画、新聞錦絵、日清・日露戦争に取材した戦争絵も描いている。

 その弟子、鰭崎英朋(ひれざき えいほう)は、ちょうど太田美術館で『鏑木清方と鰭崎英朋』(2020年2月15日~3月22日)が始まっていたのだが、3月1日から臨時休館になってしまった。「鰭崎」という珍しい姓は源頼朝の逸話に由来し、幼い頃から父親を知らず、有名になれば父親に会えるかもしれないと期待していたというのが、この時代らしいと思った。女性を描くことに強いこだわりがあり、清方の「清純」に対して、鰭崎の「妖艶」とも言われるが、ちょっと違う気がする。「艶」というか、若い娘も生活に疲れた年増も、ドキドキするような生々しさがあるのだ。115年ぶりの発見・公開だという『焼あと』も、題材的に美人画ではないのに、真剣な女性の美しさに圧倒されてしまう。

 また鰭崎は、日本の昔話を題材にした講談社の絵本の仕事もしている。戦前の作品だが、装丁などを改めて昭和40年代頃まで売られていたと思う。私は実際に幼稚園や図書館で手に取った記憶があり、この絵!と思い出して懐かしかった。

 鰭崎の弟子の神保朋世のことは、逆によく知らない。野村胡堂や邦枝完二など時代小説の挿絵を描いていたという。作品を見ると、ああ、なるほど、私が子どもの頃、大人の本に載っていた絵だと思う。時代的には一番新しいのに、一番古い感じがした。

 併設の竹久夢二美術館の『袴』展も面白かった。先日、文化学園服飾博物館の『ひだ』展を見て、袴の機能性をあらためて認識したところでもあったので。そして、けっこう「進歩的」な文化人も、女性の袴姿を冷笑していたことを感じてしまった。明治40年、竹久夢二が描いた『女学生特殊風俗』(なんだ、このタイトルは)は、学校ごとに女学生の個性を描き分けたもの。私の母校もあって、ちょっと嬉しかった。

 そして「描かれた袴」の実に多いこと。学ぶ少女だけでなく、スポーツする少女、さらには働く大人の女性に必須のアイテムでもあった。大正後期から昭和にかけては、ほとんどスカートのような袴が高畠華宵の絵などに登場する。昭和初期の東京女子師範の女学生の写真で、着物と羽織を大きな花柄の共布でこしらえたものがあって、アロハみたいで可愛かった。展示で「女学生銘仙」という言葉を覚えたので、あとで検索したら、いろいろ面白い情報が得られた(参考:秩父銘仙 百花斉放)。「銘仙」は、夏目漱石など明治の小説によく出てきたっけなあ。

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永代橋~日本橋でお花見散歩

2020-03-03 22:06:49 | なごみ写真帖

 日曜日、よく晴れて暖かかったので散歩に出かけた。久しぶりに歩いて永代橋を渡った。大川端リバーシティと呼ばれるタワーマンション群は、少し霞んだような春の風景が好き。蜃気楼にも見えてくる。

 橋詰に桜の木があって、もう八分咲きくらいだった。

 東京マラソンの交通規制が解除されつつあった永代通りを日本橋方面へ。おかめ桜が見頃という噂を聞いたので、探しに来たのだ。ネットで見つけた写真に「日本液体運輸」という看板が映っていたので、この会社を検索して、日本橋三越のある中央通りから、2本東側の狭い通りらしいと当たりをつけた。

 行ってみたら、濃いピンクの雲がたなびくゴージャスな光景が延々と続いていた。並行する中央通りを歩いていると、ほとんど見えない(気が付かない)というのも隠れ里みたいで面白い。

 レトロな喫茶店、瀟洒なオフィスビルなど、さまざまな街の風景に「華」を添える。

 花色は、木によって少しずつ印象が異なるが全体に濃いめ。花が下向きにつき、花弁が完全に開ききらないのが特徴だという(庭木図鑑 植木ペディア)。

 コレド室町の北側に福徳神社(芽吹稲荷)のお社があることも初めて知った。日本橋には何度も来ているのに、ちょっと脇道に入ってみる余裕がなかった。次回は御朱印帳を持って来てみよう。

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磁州窯のバラエティ/磁州窯と宋のやきもの(静嘉堂文庫美術館)

2020-03-02 22:22:15 | 行ったもの(美術館・見仏)

静嘉堂文庫美術館 「鉅鹿(きょろく)」発見100年『磁州窯と宋のやきもの』(2020年1月18日~3月15日)※3月2日より臨時休館

 1月から始まっていた展覧会だが、2月22日の守屋雅史氏の講演会「磁州窯と磁州窯系諸窯、そしてその影響の軌跡」が聴きたくてずっとガマンしていた。それが、新型コロナウイルスの影響で世間が騒がしくなってきたので、講演会も中止になるのではないかと心配したが、幸い、聴講することができた。時間ギリギリに飛び込んだら、早い番号の番号札をくれたカウンターのお姉さん、ありがとう。

 守谷先生は大阪市立美術館の学芸員として、2002年に特別展『白と黒の競演-中国・磁州窯系陶器の世界-』を企画開催された。このときの図録は、磁州窯を語るには必須の参照文献となっているそうだ。私が磁州窯にハマったのは、忘れもしない、2005年に出光美術館で開催された『中国・磁州窯-なごみと味わい-』展である。東京近県では、かなり早いほうの磁州窯特集展だったのではないかと思う。

 あらためて磁州窯の「発見」をおさらいすると、1910年代の河北省鉅鹿では、白化粧を施したやきものが大量に出土していた。この地域は北宋の大観2年(1108)に洪水で埋没しているので、12世紀初頭より古い遺物である。調べていくと、明代以降の文献に記された「磁州窯」が該当するのではないかと考えられるようになった。つまり磁州窯は「忘れられたやきもの」だったということが分かる。大変ロマンチックでよい。その後、磁県の彭城窯と観台窯の発掘調査が進んだ。磁州窯系の窯は、大規模な登り窯ではなく、作りが簡単な饅頭窯である。守屋先生が観光土産に買ってきたという饅頭窯のミニチュアを回覧してくれた。

 講義の後半は、磁州窯の名品の写真を見ながら解説。磁州窯は、緻密さといい加減さが同居しており、そこが日本人に受けるのだという。分かる! 緻密さの粋を代表する清朝工芸の美をテーマに展覧会をやったら、全然お客が来なかったというお話に笑ってしまった。

 講演を聴き終えてから展示を鑑賞。全78件のうち、50件近くが磁州窯系である。「黒と白のやきもの」が多いが、白無地もあるし、白地鉄絵とか三彩とか翡翠釉(青い!)とか、実にさまざまな磁州窯があるものだ。白地紅緑彩はベトナムのバッチャン焼きを思わせた。共通項があるとしたら、隠しても隠し切れない「ゆるさ」である。守屋先生のお話で、なるべく大量生産に対応しようとした結果、手間の少ない装飾方法が生まれる(掻き落としから鉄絵へ)というのも面白かった。そして、遼、金、元の表示が多かった。これら全て岩崎家のコレクションに由来するとしたら大したものだ。

 最後のセクションには、磁州窯以外の宋のやきもの、端正な青磁や白磁が並んでいて、その中にさりげなく国宝の曜変天目茶碗も置かれていたが、磁州窯の陰で印象が薄かった。あと磁州窯には枕の名品が多いのだが、守屋先生は実際に使ったことがあるとおっしゃっていた。いいなあ。欲しい。

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市民主義を撃つもの/ネット右派の歴史社会学(伊藤昌亮)

2020-03-01 23:34:15 | 読んだもの(書籍)

〇伊藤昌亮『ネット右派の歴史社会学:アンダーグラウンド平成史1990-2000年代』 青弓社 2019.8

 かなり大部な本だが、評判がいいので読んでみた。ネット右派というのは、俗に言う「ネトウヨ」(ネット右翼)とおおむね重なるが、滑稽で醜悪なイメージに引きずられないため、本書ではこのように呼ぶ。

 ネット右派言説を構成するアジェンダ(項目)には「嫌韓」「反リベラル市民」「歴史修正主義」「排外主義」「反マスメディア」の5つがある。そしてネット右派言説の担い手は、保守系セクターの「サブカル保守」「バッククラッシュ保守」「ビジネス保守」と右翼系セクターの「既成右翼系」「新右翼系」「ネオナチ極右」の計6つのクラスタに分類できる。「はじめに」で示される、以上の見取図には、特に異論は抱かなかったが、面倒臭いことをするなあという感じだった。

 ところが、時系列に沿った分析を読み進むにつれて、この見取図の的確さに唸らされることになる。ネット右派言説は、決して最初から今のかたちで存在したわけではないのだ。1990年代から2000年代の日本を一緒に生きてきたはずなのに、個人的には知らなかった(または忘れていた)ことが多かった。

 たとえば1990年代前半には、ネット右派に先駆けて雑誌をベースにした新保守論壇が成立し、嫌韓アジェンダが取り上げられるようになる。ただし当時は主にエスタブリッシュ保守の側から「外なる敵」韓国に向けたものだった。

 1990年代半ばの日本では、東欧革命を端緒とするヨーロッパ発の「新しい市民社会論」と、ネットの普及を契機とするアメリカ発の「新しい市民社会論」の影響で、リベラル市民主義がブームになる(え~そうだっけ?全く忘れていた!)。同時に、市民主義が陥りがちな教条主義・規範主義への批判精神から、反リベラル市民アジェンダが形成される。その担い手となったのが、サブカル保守クラスタだった。

 1990年代後半には教科書問題を契機に、復古的・権威主義的なバッククラッシュ保守クラスタが台頭し、歴史修正主義アジェンダが顕在化する。ここに合流したのが小林よしのりに率いられたサブカル保守クラスタで、後者の若いナイーブな集団は、前者の老獪な権威主義に取り込まれて、戦後民主主主義の全否定へ突き進んでいくことになる。このとき、彼らを急激な右旋回に追いやったのは、左すなわちリベラル市民主義の側の規範主義的な批判圧力でなかったかという指摘はとても重要に感じた。

 また1990年代後半には日本に本格的なネット文化が始まる。本書には、当時のアングラネット論壇について豊富な情報(聞いたこともない掲示板の数々!)と詳しい分析が記述されていて興味深かった。なかなか他の「平成史」では知ることのできない世界である。

 2000年頃にはヨーロッパの右翼・極右の受けたネオナチ極右クラスタが登場し、外国人労働者をターゲットにした排外主義アジェンダが成長を続ける。ここにサブカル保守クラスタの間で保持されていた嫌韓アジェンダが合流し、「内なる敵」在日コリアンへの威嚇的・戦闘的な態度が形成される。

 1999年に開設された2ちゃんねるはサブカル保守クラスタの拠点で、反リベラル市民という批判精神、問題意識を受け継ぎながら、政治的にはほぼニュートラルだった。うん、当時(私は2001年頃に初アクセス)の雰囲気を思い出して、この指摘は間違っていないと思う。彼らの反権威主義の精神は、新たな標的としてマスメディアを見出し、朝日新聞とフジテレビ叩きに向かう。朝日新聞はその立ち位置が「左」だからというより、「上」(特権的エスタブリッシュメント)だから叩かれたのではないかという指摘も面白い。

 2000年代前半を通じて2ちゃんねる文化は徐々に右傾化を強めていく。ただし当初の目立った動きは、リベラル側が持ち出す専門知の権威(伽藍方式)に、集合知(バザール方式)で対抗しようとしたもので、彼らなりの主知主義と反権威主義が一貫していた。しかし2000年代半ば、大人向け出版メディアにおいてバックラッシュ保守が再興されると、サブカル保守との融合が進む。一方、政治よりも経済・金融などの関心に即して、ネット右派的な主張を展開するビジネス保守クラスタが新たに誕生する。しかし、2010年代には彼らの主張が安倍政権の暗黙的な了解事項となってしまったことで、彼らは存在意義を失い、残されたクラスタは「行動する保守」として、より先鋭的な行動に進んでいくことになる。

 著者が繰り返し参照するのは「市民」と「常民」という枠組みである。市民派知識人である社会学者の日高六郎は、1960年の論考で「市民」という概念の「弱さ、問題性、欠陥」を意識していたという。ネット右派、特にその一大勢力であるサブカル保守クラスタは「ネット常民」として、リベラル市民主義の教条化に批判と警告を浴びせてきた。彼らの「集合知」には一定の意味がある。しかし結局、個の言葉を持たない彼らは、しばしば、あまりにも易々と権威主義や差別主義に取り込まれてしまうことが悩ましい。

 2020年代以降、巨大掲示板からSNSと動画へ舞台を移した続編が、いつか書かれることを期待する。あとがきに著者の大学院の指導教官だという水越伸先生への謝辞を見つけたことをメモしておく。

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