素晴らしい風景!!

色々歩いた山や国内の風景等をご紹介いたします。

◎ 江戸の歴史「両国」をたどる ◎

2017年06月06日 | 日本の歴史

古地図を持ち、江戸の今と昔を感じながら、のんびりウォーキングをして来ました。       スタートは台東区の浅草見附跡。9時半。

江戸幕府は、主要交通路の重要な地点に櫓・門・橋などを築き江戸城の警護をした。        奥州街道が通るこの地は、浅草観音への道筋にあたることから築かれた門は浅草御門と呼ばれ、また警護の人を配置したことから浅草見附といわれた。                                        36個所に設けられた見附のひとつ。

ここ神田川に初めて橋がかけられたのは寛永 13年(1636)のことである。           浅草御門前にあったことから浅草御門橋と呼ばれたがいつしか「浅草橋」と呼ばれるようになったとのことです。

9時 50分に中央区の「柳橋」へ。

柳橋という町の名は、江戸中期の頃から花街として人に良く知られ、橋のほとりには船宿が数多く並び大変な賑わいであったようです。                             幕末・明治以降も花柳界として名高く、夏には両国橋を中心に大川で花火が打ち上げられていました。                                                柳橋のたもとの情緒ある船宿であり佃煮屋さんでもある『小松屋』さんでは娘さんの三味線で御主人が唄を披露して下さり、何となく花街の歴史を感じることができました。   

                                            ❝春の夜や 女見返る 柳橋

正岡子規によるこの句を始め、柳橋は文人たちに度々とりあげられ、山本周五郎、池波正太郎、藤沢周平などの時代小説を始め、映画やドラマの舞台にもなり、江戸の雰囲気を感じられる数少ない町として、今も人々に親しまれています。

両国広小路跡に 10時 15分着。

                                             江戸の大火は86件ありました。その中の1つである明暦 3年(1657)の大火は江戸市街の大半を焼失し、10万余の死者を出したそうです。                                その際に、この辺りで逃げ場を失って焼死する者が多数出た。                 このために対岸への避難の便を図り両国橋が架けられた。                隅田川は当時武蔵(埼玉:東京)下総(千葉)両国の境界をなしていた。 また延焼防止のため橋に向かう沿道一帯を火除け地に指定し空き地とした。

                                             やがてこれが広小路となり、江戸三大広小路の一つとして上野浅草に並び称せられる盛り場に発展した。                                 町の近代化はめざましく、広小路や両国の名も過去のものとして忘れ去られようとしているが、360年前火除け地が設定され、これが広小路に発展して行った事跡のなかには、先人の英知と努力が偲ばれて誠に意義深いものであります。

その後、V字型の底の細い堀であったという薬研堀を通り薬研堀不動尊を参拝した。

10時 40分、両国橋を渡り墨田区両国三丁目へ。

                            両国というと国技館のある相撲の町であり、歩く途中で春日野部屋、井筒部屋、時津風部屋を見ることができました。                                                                                   部屋の前には沢山の自転車が置かれていましたが、さすが力士が乗る自転車らしくサドルが大きいものでした。

またここは多くの方々が知る「忠臣蔵」の歴史の町でもあります。                   両国小学校の少し西側 本所松坂町公園、なまこ壁に囲まれた「吉良邸跡」に11時 20分到着。                                                                                                                             吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)の屋敷は広大で、東西七十三間(134m)、南北三十五間(63m)で、面積は 2550坪(約8400㎡)だったとされています。

元禄 15年(1702)12月 14日、赤穂の四十七士が討ち入りしたところで『忠臣蔵』として知られるところです。                                                                                                  現在の吉良邸跡として残されている本所松坂町公園は、当時の八十六分の一の大きさに過ぎないとのことです。

吉良邸正門跡                                              元禄15年12月14日、寅の刻(午前 4時)の七つの鐘を聞いた後、正門から大石内蔵助以下 23名が用意した梯子で邸内に侵入して、内側から門を開け、「浅野内匠家来口上」を玄関前に打ち立てて乱入しました。

                                               赤穂浪士は正門、裏手の二手に分かれて討ち入り、大声を上げながら、百人以上の大勢が討ち入ったように装いました。                                  これに動揺した吉良家家臣の多くが外に飛び出そうとしました。                                 しかし、弓の名手、早水藤左衛門らが侍長屋の戸板に向かって次々と矢を射掛けて威嚇し、出口を固められたため、飛び出すこともできず戦闘不能になったといわれています。

吉良邸裏門跡                                      赤穂浪士討ち入りの際、裏門からは大石主税以下二十四名が門を叩き壊して侵入、寝込みを襲われ半睡状態に近い吉良家の家臣を次々と斬り伏せました。                       吉良家にも何人か勇士がいましたが、寝巻き姿では鎖帷子(くさりかたびら)を着込み完全武装の赤穂浪士には到底敵わなかったようです。

                                            広大な屋敷の中で一時間余り続いた討ち入りは、壮絶なものでしたが、吉良家側の死傷者が 38名だったのに対し、赤穂浪士側は 2名が軽い傷を負っただけで済んだようです。

                                                             

両国公園着 11時 50分。40分休憩し、12時半 回向院に向かいました。

                                                明暦 3年(1657)江戸史上最悪の惨事となった明暦大火(俗に振袖火事)が起こり、犠牲者は10万人以上、未曽有の大惨事となりました。                                  遺体の多くが身元不明、引取り手のない有様でした。                                                            そこで四代将軍「徳川家綱」は、こうした遺体を葬るため、ここ本所両国の地に「無縁塚」を築き、その菩提を永代にわたり弔うように念仏堂が建立されました。                                   有縁・無縁、人・動物に関わらず、生ある全てのものへの仏の慈悲を説くという理念のもと、「諸宗山無縁寺回向院」と名付けられ、後に安政大地震、関東大震災、東京大空襲など様々な天災地変・人災による被災者、海難事故による溺死者、遊女、水子、刑死者、諸動物など、ありとあらゆる生命が埋葬供養されているとのことです。

また、回向院では天保 4年(1833)から相撲興行が行われていたことから、明治 42年(1909)に、その境内にドーム型屋根の洋風建築で、収容人数は1万3千人の両国元町常設館という旧国技館が建設されました。                                            建設費は 28万円(現在の価値では 75億円程度)とのことです。

                                                   

13時 15分、旧安田庭園に到着。                                   旧安田庭園は、江戸時代前期に後の常陸笠間藩 5万石の藩主となった本庄因幡守宗資(1629~1699)により大名庭園として築造され、隅田川の水を引き入れた池を配し、潮の干満によって変化する景観を楽しむ、いわゆる池泉回遊式庭園として造られたと伝えられています。

明治時代に入って池田章政侯爵邸とされ、明治 24年に安田財閥の創始者である初代安田善次郎の所有となり、大正 11年には、安田善次郎の遺志により東京市へ寄付されました。                                                                                                         大正 12年の関東大震災により、旧安田庭園も大きな被害に襲われましたが、昭和 2年に両国公会堂(当時:本所公会堂)と合わせて民間篤志家の寄付による都内第 1号の無料公開庭園として開園されました。

                                            平成 8年 3月「東京都指定名勝」に指定されています。

曇りの予定であったのに、日差しが強くなりコンクリートジャングルの中は山と違った暑さで参りました。

                                             両国駅に向かう途中で国技館の中からテレビで見かける顔がこちらを向いていたので、資料館に立ち寄り、歴代力士の懐かしい勇姿を見て来ました。

 

 

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🐾 井伊直虎ゆかりの地を歩く 🐾

2017年01月18日 | 日本の歴史

新東名高速道路を走り浜松いなさ ICを出て、遠州の古刹であり井伊 直虎が眠る寺『龍潭寺(りょうたんじ)』駐車場に 10時 15分到着。                                                     そこは浜松市北区引佐町井伊谷(いいのや)地区であり、井伊家ゆかりの地を仲間の皆さんと共に直虎が生きた時代に思いを馳せながらノンビリ歩いて来ました。                                    激動の時代の中、幾多の苦難に翻弄されながらも、その名を全国に轟かせていった名門・井伊氏。                                                                                                          遠江(とおとうみ)600年、近江(おうみ)400年にわたる“なりたち”の一片を紐解く。

 

井伊氏が治めた井伊谷の田園風景の中から、井伊氏の初代「共保(ともやす)」公が寛弘 7年(1010)に誕生したと伝えられております。

                                               その井戸は龍潭寺山門の南、田園に囲まれたのどかな場所にある。                               白壁に囲まれた大きな石組みの井戸で、傍らには「井伊氏祖備中守 藤原 共保出生之井」の碑が建っている。

次に直虎の菩提寺「妙雲寺(旧:自耕庵)を参拝。 11時半。

                                                直虎の死後、自耕庵へ葬られたと伝わる。

                                                このお寺には、ご住職がいないということで、檀家の皆さんが寺の管理に当たり交替でお寺の説明をして下さいました。   

                                                 NHKの大河ドラマで取り上げられ、寺の整理をしていたら直虎の位牌や南渓和尚の肖像画など貴重な資料が発見され、後に自耕庵は直虎の院号「妙雲院殿月泉祐圓禅定尼」をもって妙雲寺と改められたそうです。

次に渭伊(いい)神社参拝 

                                               こちらは井戸や井水を祭祀対象とした神社で、井伊氏の発祥と共に氏神になった。

本殿背後の丘には古墳時代の巨石祭祀の遺跡、天白磐座(てんぱくいわくら)遺跡があります。

次は直虎ゆかりの地おススメルートを歩き、井伊谷城跡(城山公園)に向かいました。

                                                地域遺産センターを過ぎてから城址まで結構きつい登り坂で、降りてくる方から「あと少しですよ。」と励まされながら皆さん頑張りました。  13時到着。

城址はとても広く丘陵に築かれた井伊氏の城館跡。 土塁などの遺構が見学でき井伊谷を一望できます。

戻りながら「足切観音堂」を参拝。13時半。

                                               南北朝時代、後醍醐天皇の皇子「宗良(むねなが)親王」が、戦のさなか足を負傷し落馬したが怪我はなく、代わりに護持仏の片足が鮮血に染まったという伝説が残り、親王の御念持仏、足切観音が祀られています。

次に立ち寄ったのが「井殿の塚」 13時35分。

                                               こちらは天文 13年(1544)、家老の小野 道高の讒言(ざんげん)により謀反の疑いをかけられ、駿河で今川 義元に殺された直満(直親=亀之丞の父)と弟 直義の墓があります。

駐車場に戻る途中の「地域遺産センター」にも立ち寄り、亀之丞が吹いた『青葉の笛』のレプリカに触れたり、再現された音色に聞きほれました。                                   また、井伊 直虎の生涯や井伊谷周辺の戦国時代の様子をジオラマへのプロジェクションマッピングで物語風に紹介され、とても判り易く皆さん興味津々でした。

                                             そこで井伊 直虎(次郎法師)が書かれた『龍潭寺寄進状』という書状を見ましたが、流石というか流れるような筆字に釘付けとなりました。                   次郎法師の署名と黒印

最後に浜松市北区引佐町にある神秘の大鍾乳洞『竜ヶ岩洞(りゅうがしどう)』を見学して来ました。

                                                    東海地方最大規模の竜ヶ岩洞は、2憶 5千万年前の地層といわれる秩父古生層の石灰岩地帯にあり、

                                                  総延長約 1000mで、一般公開部分は 400mだそうです。

                                                  標高 359mの竜ヶ石山の南麓に開口されたものであります。

                                                  洞内温度は年間約 18度と平均しているので、この時期では洞内の方が快適で、探検気分で地底を歩いて来ました。

 

 

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🏯 高根城跡散策 🏯

2016年12月17日 | 日本の歴史

静岡県浜松市天竜区水窪(みさくぼ)町の信遠国境警備を目的として築かれた城に登城して来ました。                                                                                                           城名は高根城と申し、遠江(とおとうみ)最北端に位置する山城で、標高 420m・比高 150mの通称三角山の山頂部を中心に築かれています。

城址からは、水窪町中心部および北遠江と南信濃を結ぶ主要街道を見下ろすことができる。

                                                    高根城は、この一本の主要街道を押さえることが目的でした。

平成 6年~11年にかけて、本曲輪(ほんくるわ)を中心に発掘調査が実施され、出土遺物から15世紀前半、地元国人領主 奥山氏が築いたと考えられています。

                                               『遠江国(とうとうみのくに)風土記伝』によると、永禄年中(1558~1570)に信州の遠山土佐守(とおやまとさのかみ)に攻められ落城したと伝わる。

                                               永禄 12年(1569)には、今川 氏真(うじざね)・徳川 家康双方から所領安堵状(あんどじょう=所有権・領有権などを承認した公文書)を、元亀 3年(1572)には武田信玄からも安堵状を得ている。

                                                     遠州忩劇(そうげき)の頃、奥山氏内部で今川・徳川・武田のどこに組するかで内部分裂が起こり、奥山惣領家が滅亡し、最終的に武田配下に組み込まれた可能性が高いようです。

また発掘調査で、最も注目されるのは、各曲輪間を結ぶ城内道が完全な形で検出されたことだそうです。                                                                                                                    幅約一間(約1.8m)の道は、三の曲輪から土橋を利用し、二の曲輪東中段を真っ直ぐ通り、梯子によって二の曲輪下段へと上がる。                                                  ここからは、木橋を通り、直角に曲がり、城門をくぐり、更に三度直角に折れ曲がり、本曲輪搦手門(からめてもん)へと至る構造であったとのことです。

日本最大の城郭遺構を誇る『姫路城』でも、本丸まで行くには迷路のようになっており、その様子がとてもコンパクトに表現されていました。

全国的にみても、完全な形で城内道が検出された事例はなく、戦国期の城内構造を知る貴重な遺構と評価されています。

 

 

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◎修験者と共に栄えた天川村◎

2016年07月16日 | 日本の歴史

年間約65万人もの方々が訪れる天川(てんかわ)は、紀伊半島の中央部に位置し、その面積の約4分の1が吉野熊野国立公園に属しています。                                                        また近畿最高峰(八経ヶ岳)を擁する最源流の村です。                          古来よりの有名な寺社等もあり、宗教の発祥と深く関わるなど、豊かな自然と歴史・文化を誇る、これらの「宝」と共に暮らしている村です。                                   また、標高が高いことから大阪市内などより気温が5度程度低く、避暑地として有名で、寒暖の差が激しく紅葉の名所でもあります。                                               大峯山 山上ヶ岳から天河大辨財天社、高野山の二大霊場を結ぶ川沿いの道を大峯高野街道といい、弘法大師「空海」が大峯修行のため往き来したといわれています。

その天川村の街道沿いにある史跡に立ち寄ってみました。

天河大辨財天社 

                                               別名「天河神社」ともいわれ、日本三大弁財天の筆頭・大峯本宮とされる霊験あらたかな神社で、芸能の神様としても有名だそうです。

                                               能関係資料多数が保存され、我が国能楽発達史上の貴重な資料とされています。

                                                         7月の例大祭や春秋の大祭には能楽奉納もあり、数々の年中行事の中には珍しい神事も多数行われています。

 

栃尾観音堂                                                    この聖地を訪れた無数の修験者の一人であった「円空」は、 江戸初期 寛永9年(1632)岐阜県羽島市近くに生まれ、23歳で出家。

                                                寛文3年(1663)32歳の時、木仏 12万体の悲願をたてて、北海道から関西までの諸国を遍歴し、元禄8年(1695)64歳で没するまで多種多様の仏像、神像を彫り残しました。

                                                    それらの仏像を通常、円空仏と総称し、天川村で円空仏と確認されたものは、大峯山寺の「阿弥陀如来像」、天河大辨財天社の「大黒天像」、そして栃尾観音堂に「聖観音菩薩立像」、「大弁財天女立像」、「金剛童子立像」、「護法神像」の 4体が安置されいます。

                                                      どの像も円空の作風の特徴を良く表しており、見るものを惹き付ける穏やかな微笑みをたたえています。 

 

母公堂(ははこどう)                                                               母公堂は大峯山の歴史以来の入口でした。

                                                                    修験道の始祖である役小角(えんのおづの)の母親である白専女(しらとうめ)を祀っています。

                                                       大峰山寺のある山上ヶ岳(1719m)まで 3~4時間。                              近畿の屋根といわれる雄大な大峯山系がここから始まります。

 

山上ヶ岳への女人結界門                                            男女同権の世に変わり、今時こんなことがあるの   と不思議に感じられる方々が多いと思われますが、1300年の歴史があり、日本固有の宗教文化であり、それが世界遺産につながったものと思われます。 

                                          大峯山寺からの解説文を是非ご一読ください。

山上ヶ岳(大峯山)は1300年の昔、開祖役行者「神変大菩薩」が開山された霊山で、修験道の根本道場として、日本国民に尊崇され今日もなお多くの方々の崇敬を集め続けております。                                     山上ヶ岳では、往古より仏教各宗の宗祖や高僧を始め、多くの先徳や在家の先達衆が命を賭して修行され、自利利他円満の菩薩行を心とされて、天下泰平、万民安楽、五穀豊熟を祈願されてこられました。                                  今日もその心と修行の法は脈々と伝えられ、厳格な修行が行われております。                     また、当山はその永い歴史の中で幾多の流転を重ね、明治初期には国家権力による修験道廃止という法難にもみまわれましたが、御本尊の思し召しと、信徒の皆様の熱烈な信仰心や修験道を心の支えとされた方々のお力により、その法灯は守られ修験道の仏寺として今日に至っております。                                   そしてその歴史の中で、当山は女人結界を持つ聖地としての姿を守り伝えております。             この女人結界は決して、私たち修行者のみによって形作られたものではありません。         この霊山を仰ぎ見ながら、ここに心のよりどころ見出した無数の先人達が、壱千年余りの時をかけて、宗教的伝統として作り上げてきたものであります。

                                                   また、結界維持については、信徒や地元の人々と共に信仰を守り伝えてきた女性達によっても伝承されてきました。                                                私どもは、今日においても、山上ヶ岳の女人結界を男女問わず修験道で修行し、信仰する者の信仰心としての戒律上の結界ととらえ、あくまでも信仰者の立場をもって議論を加えつつ、且つ結界を護持いたしております。                                                       登山者の皆様には、この壱千参百年の歴史を持つ当山の信仰に深いご理解を頂き、信仰者の声を尊重頂いて、女人結界の維持にご協力を賜りますようお願い致します。

                                                    当山は、今なお信仰が息づいている聖地「山上ヶ岳」(大峯山)が日本固有の宗教文化を伝承する地として、ユネスコの世界遺産に登録されたことを誇りに思うと共に、開祖「神変大菩薩」やこれまで修行を積まれた先徳に対し感謝の赤誠を捧げるものであります。

    南無山上大権現 ・ 南無神変大菩薩        大峯山寺 敬白                                                                                            

 

 

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♨ ぶらり洞川(どろがわ)温泉 ♨   

2016年07月09日 | 日本の歴史

奈良県の南部、吉野郡天川村の東部に位置する洞川(どろがわ)温泉郷にお世話になりました。                                                                                                            洞川温泉郷は大峯山から発し、熊野川の源流ともなっている山上川のほとり標高約820mの高地に位置する山里で、その冷涼な気候から関西の軽井沢とも呼ばれているところです。

今回の大峯奥駈道を歩くための基地として登山口から離れていたものの、雰囲気の良い洞川温泉に寄ってみようということになりました。                                                    かりがね橋から俯瞰した洞川温泉全景。

今日は平成28年7月7日(木)17時に宿に入り、夕食を済ませてから龍泉寺で七夕祭りの催しがあるとのことで、皆さんで夕方から洞川温泉郷をぶらつき、19時、大峯山「龍泉寺」に向かいました。

龍泉寺は真言宗醍醐派の大本山として多くの信者を集めておりますが、洞川から登る修験者は宗派を問わず、龍泉寺に詣で水行の後、八大龍王に道中の安全を祈願してから山上ヶ岳に向かうしきたりとなっているとのことです。                                                修験道の根本道場として信者・登山者の必ず訪れる霊場です。

                                                 龍の口より湧き出る清水をたたえた大峯山中第一の水行場 

 

今日は七夕、地元の子供さんたちが作られた短冊のお焚き上げが、修験者により境内にて執り行われました。

法螺貝が吹かれ、経文を唱え、火の燃え盛る様は迫力満点でした。

お焚き上げ終了後は、夜の洞川(どろがわ)温泉街を皆さんで散歩。

洞川温泉は、温泉そのものの歴史は浅いようですが、大峯講の宿場としての歴史は古く、その起源は役小角(えんのおづの)に従った後鬼の末裔によって起こされたと伝承されています。

                         

どことなく懐かしく、昭和の時代にタイムスリップしたような雰囲気を漂わせる町並みには心癒されます。  

浴衣で団扇(うちわ)を持ち、下駄でガラゴロと歩く姿がぴったりの風情です。     山奥の風情ある温泉街、ずっと残してほしいと感じました。

それと、も1つ感じたことがありました。                                       平日であり温泉街を歩く人がまばらであるのに、旅館や商店の全てが出入り口から縁側越しの部屋の中まで見えるようフルオープンなのです。

旅館街を歩いていると「陀羅尼助」(だらにすけ)と書かれた看板が多く見られました。           陀羅尼助ってなに                                               陀羅尼助とは、古くから修験者の秘薬とされた和漢薬であり、二日酔い・下痢等を含め胃腸の調子が悪い場合の全てに効果のある万能薬とのことであります。                              また、薬の名前の由来は、僧侶が陀羅尼という非常に長いお経を唱える時、眠気防止のために これを口に含んでいたことからだそうです。                  この秘薬は洞川温泉付近のみで販売されているようです。

煌々と明かりも灯っており、温泉街で旅行者に風情を味わってもらうためのサービスと感じました。本当にありがたいことです。

普通なら夜 明かりを点ければ、その回りに虫が飛び回るのは時期からいって当然と思いますが、この温泉街は とても爽やかで虫がいないのです。             洞川温泉では普通のことのようです。 

縁側のあるレトロな洞川温泉、また寄ってみたいです。      

                               

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◎ 根尾谷断層 ◎

2016年04月11日 | 日本の歴史

淡墨桜を目指して国道157号線を走行の途中で根尾川沿いの県道に入り、桜と共に世界的にも有名であるといわれる“根尾谷断層”を見学しました。

明治24年(1891)10月28日早朝、日本内陸部で発生した過去最大の濃尾地震に際して生じた断層であり、その規模は福井県今立郡池田町野尻から可児市帷子(かたびら)地区まで、総延長80Kmにも及ぶ、当時としては世界でも最大級の地震断層でありました。

その後、皆さんも記憶に新しい平成23年(2011)3月11日14時46分18秒に発生した『東日本大震災』。                                                                                                                   地震、津波、それに伴い福島第一原子力発電所のメトルダウン。                                      当時の映像を見る度に涙があふれます。  自然の力の大きさに驚くばかりです。                                       この地震はマグニチュード9.0。                                                                                            岩手県沖から茨城県沖までの南北約500Km、東西約200Kmという広大なものでした。                                        地球を取り囲む十数枚のプレート、日本付近の4枚のプレート(ユーラシアプレート、北アメリカプレート、太平洋プレート、フィリピン海プレート)も年間数cmづつ移動しています。                             ですから何十年、何百年単位での地震発生は避けられないので、普段から防災対策だけは心掛けたいですね。

東日本大震災『3.11』に比べたら濃尾地震は小さなものですが、地震に伴って生じた断層として初めて確認されたこの水鳥の断層は、内外の地震学の教科書などに引用されて世界的に有名となり、現在までに外国の研究者の来訪も多数にのぼっているとのことです。

特に、この断層の中心部にあたるこの地(根尾谷水鳥)においては、上下最大6m、水平横ずれ3m、長さ1Kmにおよぶ断層崖の出現でした。

このような理由により、この断層は昭和2年『根尾谷断層』として国の天然記念物に指定され、更に昭和27年特別天然記念物にも指定されました。

 

 

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◎鴫立庵◎

2016年01月26日 | 日本の歴史

今日に古跡として標識の立てられている鴫立沢は、昔の沢らしい面影が残り、景色の最もすぐれている地点を、西行法師を記念するために、後人が選んで、それと名付けたもののようです。

                                          寛文4年(1664)小田原の崇雪(そうせつ)がこの地に五智如来像を運び、西行寺を造る目的で草庵を結んだのが始まりで、元禄八年(1695)俳諧師として有名であった大淀三千風(おおよどみちかぜ)が入庵し鴫立庵(しぎたつあん)と名付け、第一世庵主となりました。                                  その後も有名な俳諧師が跡を継ぎ、今日の二十二世「鍵和田釉子(かぎわだゆうこ)現庵主まで続いているとのことであります。 

 

五智如来の石像も、鴫立沢の標石も、庭内にそのまま残っています。           五智如来とは、釈迦、阿弥陀、大日、薬師、宝勝の五仏を言い、その像は庵後部の丘の上に、東面して並んでいます。

西行法師がこのあたりの海岸を吟遊して、『こころなき 身にもあはれは 知られけり 鴫立沢の 秋の夕暮れ』という名歌を残したことは、史上にも名高い語り草となっています。

                                                      その言い伝えは、すでに古く足利時代からあって、西行が大磯の鴫立沢なる場所で、上記の歌を詠じたことは、動かし難い口碑になっています。

現在、鴫立庵内には鴫立庵室、俳諧道場、円位堂、法虎堂、観音堂があり、庵室については大淀三千風が建てたもので、俳諧道場については三世庵主「鳥酔(ちょうすい」が明和二年(1765)に増築したものと伝えられていましたが、調査の結果 鴫立庵の基本部分は江戸時代のもので、他の建物は江戸時代以降に建てられたものと考えられています。

 

鴫立庵室は歴代庵主の住まいとして使われていました。                そして増築された十畳間には「俳諧道場」の扁額が掲げられ、鴫立庵正庵であり俳諧道場であることを示しています。                          この道場は京都の落柿舎滋賀の無名庵と共に日本三大俳諧道場の一つであります。

また、江戸時代初期に小田原の崇雪という人が西行の歌にちなんで「鴫立沢」の標石を建てたと伝えられ、その標石の裏に「著盡(ああ)湘南 清絶地」と刻まれており、この標石が湘南という言葉の始まりというか、由来発祥の地として注目されているようです。

 

 

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🚝 リニア・鉄道館 2015 🚝   

2015年10月10日 | 日本の歴史

電車や新幹線と言った乗り物が大好きで、「いっぱい並んでいる所に行きたい」というので名古屋の金城埠頭まで行って来ました。                                                                          100年ほど前に走っていた車両から現代まで、39の実物車両が展示され車両の中に入ったり、触れてみることができるので大喜びでした。                                                     鉄道の歴史館と言ったところです。

                                                                          日本で一番大きく、一番速く走ることができた蒸気機関車。                                           磁石の力で走る世界で一番早い車両。

車両の変遷が一目でわかるシンボル展示ブースから:C62、中央:300X、:リニアMLX01-1 

今回は鉄道の移り変わりを見て来ました。 

                                                                                 昔は東海道線として繁栄していた現在の御殿場線、今は見る影もなく寂しい鉄路となってしまいました。

                                                                               当時、鮎寿司の駅弁でも有名であった山北駅、京都の梅小路機関車館にある機関庫や転車台もあり、鉄道の町でありました。

                                                                         それが昭和9年に丹那トンネルが開通したことにより、任務は終了し1時間に1本、無人駅も増えて来た御殿場線となりました。

小田原から真鶴間の鉄橋を走る蒸気機関車 

戦前にも東海道線の電化は進められていました。  

戦後の鉄道 

東海道を走る鉄道と高速道路 

東海道新幹線開業 

今懐かしい、一番最初の新幹線『0系新幹線』 

2016年春には、京都駅の西側にある梅小路機関車館がグレードアップしてオープンされます。楽しみですね。  

 

 

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🐾 静かな海野宿を歩く 🐾

2015年05月12日 | 日本の歴史

上信越自動車道の長野ICを15時42分に乗り、東御(とうみ)市の東部湯の丸ICを出て海野宿(うんのじゅく)に立ち寄りました。到着16時15分。

海野宿は寛永2年(1625)に北国街道の宿駅として開設されました。                                       北国街道は中山道と北陸道を結ぶ重要な街道であり、佐渡で採れたの輸送や北陸諸大名の参勤交代の道であり、江戸との交通も頻繁で善光寺への参詣客も多くあったようです。

今回は次回計画時の参考のため下見として立ち寄り、時間も16時過ぎで、静かな宿場町を散策しました。

道の中央を用水が流れ、その両側に格子戸のはまった美しい家並みが建ち並ぶ海野宿。 江戸時代の宿場の建物と、明治以降の養蚕造りの建物が良く調和しながら、歴史を語りかけています。

歴史的町並みが残る場所として、昭和61年(1986)に【北国街道】が建設省より「日本の道百選」に選ばれ、続いて昭和62年(1987)には海野宿が【宿場町・養蚕町】で文部省より「重要伝統的建造物群保存地区」にも選定されているとのことです。

   海野宿の見どころをご紹介                                                              

卯建(うだつ)には、いくつかの種類があり、江戸時代の「本うだつ」は建物の両側にある妻壁を屋根より一段高く上げたもので、防火壁の役割を果たすことから「火回し」とも呼ばれたようです。

                                                                               明治時代に入ると、より装飾的な「袖うだつ」も設けられるようになりました。                              どちらも富裕な家でなければできるものではありませんでした。                  このような所から『うだつがあがらぬ』という言葉が生まれたとのことです。

海野格子(うんのごうし)格子戸のはまった家が続く海野宿ですが、一階の格子戸のほとんどは明治以降に作られました。                            これに対し二階格子の多くは江戸時代のもので出格子になっており、長短2本ずつ交互に組み込まれた模様が美しく『海野格子』と呼ばれています。

                                                                              また、江戸時代の旅籠屋は、一階より二階の方が張り出して造られた出桁造りの家になっている特徴があります

 

                                                                                                 

 

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🐾 塩の道を歩く。(千国越え)🐾

2015年05月04日 | 日本の歴史

毎年、ゴールデンウィークにJR 大糸線沿いで『塩の道祭り』が開催されています。 

                                                                         5月3日(日)小谷(おたり)5月4日(月)白馬村5月5日(火)大町市と千国街道を3コースに分け、塩や海産物を運んだ当時の風情たっぷりに、ボッカや牛方などに扮した村人の方々と共に歩いてきました。

平成25年(2013)に白馬村(佐野坂から白馬まで)のコースに参加し、今回2回目の参加です。

                                                                   2回参加して感じた事は、大きな「塩の道祭り」開催では共通しているようですが、3日間にわたっての実施で小谷村、白馬村、大町市の各々の開催内容に独自の特徴を付けている様に感じました。                                来年は大町市に参加してみたいと思っています。

                                                                   3日間参加しないと全体の良さが分からないかな と感じたのです。

                                                                      当然、村興しを念頭に入れてのお祭りでしょうが、郷土芸能披露で村の方々の真剣な取り組みが見てるものにガンガン伝わり、勉強させて頂いた感じがありました。

郷土芸能開始の挨拶には小谷地震での復興が進みつつあるお礼や小谷村の人口が3千人の所、祭りの開催で4千人と言う沢山の方々が来て下さった事へのお礼の言葉がありました。

ゴールデンウィークであり、松本から糸魚川に抜ける国道148号線は、久し振りに以前通った山間部の道に入りビックリ。              地震の影響を目の当たりにしたのです。                      それは道路の片側通行や寸断による通行止め、家屋の半壊状態、屋根しか残っていないのです。                                      地元の方の話では、幹線道路付近は良くなりましたが、一つ裏に入ると通行止めや壊れた家屋が空家状態となっているとの事でした。                           田舎に災害が発生すると益々の過疎化が進んでしまいます。

話は祭りに戻ります。 栂池高原ゴンドラリフト駐車場に7時20分着。                                  直ぐに歩く準備を済ませ、9km先のスタート地点である下里瀬 (くだりせ)へ行く無料シャトルバスに乗り込んだ。8時到着。                                  受付を済ませ、盛り上がるスタート会場内を覗いた。

下里瀬基幹センターの舞台では景気良い小谷太鼓の演奏が響き渡っていた。      お弁当、お蕎麦、採り立て山菜天ぷらの揚げ立てが用意され、ご馳走になった。

コース予定には9時10分出発となっていたが、既に歩き始めている方もいて自分は写真を撮りながらノンビリ歩こうと思っていたので8時20分に出発した。            この辺は白馬村とは違っていた。 

                                                                          白馬は民族衣装の代官、武士、商人、歩荷さん、飛脚などが先頭を歩き、その後を参加者が続いた。

糸魚川から松本城下まで約三十里(約120km)を結び、信州側では「糸魚川街道」、越後側では「松本街道」と呼ばれた千国(ちくに)街道は、またの名を“塩の道”と呼ばれていました。

松本藩では他からの塩の移入を禁止し“北塩”といって糸魚川から千国街道経由のみ許可したため、日本海からは塩をはじめ海産物、信州からは麻やたばこを積んだ牛馬や歩荷と呼ばれる人たちが盛んに行き来したとの事です。

                                                                      この道がまさに『塩の道』と呼ばれるゆえんだそうです。

それは華やかな大名行列などの往来もない生活物資運搬のための経済路線、いわばのにじんだ庶民の道として明治の時代まで続いたようです。

戦国時代、上杉 謙信がこの道を経て、仇敵「武田 信玄」に塩を贈ったという“義塩”の有名な故事があります。

                                                                   それは敵対した今川・北条氏は武田への塩の輸出を禁止した。「塩どめ」である。   これを聞いた謙信は憤り、「信玄と争うのは武力であって塩ではない」と、自領から従来通り信州への塩を輸送する許可を出したのである。 

                                                                       そしてこの道に再び塩の荷が通った。

歴史を紐解くと興味深い話が沢山ありますね。もっと勉強しておけば良かったと、後悔しています。

 

 

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