素晴らしい風景!!

色々歩いた山や国内の風景等をご紹介いたします。

◎鴫立庵◎

2016年01月26日 | 日本の歴史

今日に古跡として標識の立てられている鴫立沢は、昔の沢らしい面影が残り、景色の最もすぐれている地点を、西行法師を記念するために、後人が選んで、それと名付けたもののようです。

                                          寛文4年(1664)小田原の崇雪(そうせつ)がこの地に五智如来像を運び、西行寺を造る目的で草庵を結んだのが始まりで、元禄八年(1695)俳諧師として有名であった大淀三千風(おおよどみちかぜ)が入庵し鴫立庵(しぎたつあん)と名付け、第一世庵主となりました。                                  その後も有名な俳諧師が跡を継ぎ、今日の二十二世「鍵和田釉子(かぎわだゆうこ)現庵主まで続いているとのことであります。 

 

五智如来の石像も、鴫立沢の標石も、庭内にそのまま残っています。           五智如来とは、釈迦、阿弥陀、大日、薬師、宝勝の五仏を言い、その像は庵後部の丘の上に、東面して並んでいます。

西行法師がこのあたりの海岸を吟遊して、『こころなき 身にもあはれは 知られけり 鴫立沢の 秋の夕暮れ』という名歌を残したことは、史上にも名高い語り草となっています。

                                                      その言い伝えは、すでに古く足利時代からあって、西行が大磯の鴫立沢なる場所で、上記の歌を詠じたことは、動かし難い口碑になっています。

現在、鴫立庵内には鴫立庵室、俳諧道場、円位堂、法虎堂、観音堂があり、庵室については大淀三千風が建てたもので、俳諧道場については三世庵主「鳥酔(ちょうすい」が明和二年(1765)に増築したものと伝えられていましたが、調査の結果 鴫立庵の基本部分は江戸時代のもので、他の建物は江戸時代以降に建てられたものと考えられています。

 

鴫立庵室は歴代庵主の住まいとして使われていました。                そして増築された十畳間には「俳諧道場」の扁額が掲げられ、鴫立庵正庵であり俳諧道場であることを示しています。                          この道場は京都の落柿舎滋賀の無名庵と共に日本三大俳諧道場の一つであります。

また、江戸時代初期に小田原の崇雪という人が西行の歌にちなんで「鴫立沢」の標石を建てたと伝えられ、その標石の裏に「著盡(ああ)湘南 清絶地」と刻まれており、この標石が湘南という言葉の始まりというか、由来発祥の地として注目されているようです。

 

 

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🚝 リニア・鉄道館 2015 🚝   

2015年10月10日 | 日本の歴史

電車や新幹線と言った乗り物が大好きで、「いっぱい並んでいる所に行きたい」というので名古屋の金城埠頭まで行って来ました。                                                                          100年ほど前に走っていた車両から現代まで、39の実物車両が展示され車両の中に入ったり、触れてみることができるので大喜びでした。                                                     鉄道の歴史館と言ったところです。

                                                                          日本で一番大きく、一番速く走ることができた蒸気機関車。                                           磁石の力で走る世界で一番早い車両。

車両の変遷が一目でわかるシンボル展示ブースから:C62、中央:300X、:リニアMLX01-1 

今回は鉄道の移り変わりを見て来ました。 

                                                                                 昔は東海道線として繁栄していた現在の御殿場線、今は見る影もなく寂しい鉄路となってしまいました。

                                                                               当時、鮎寿司の駅弁でも有名であった山北駅、京都の梅小路機関車館にある機関庫や転車台もあり、鉄道の町でありました。

                                                                         それが昭和9年に丹那トンネルが開通したことにより、任務は終了し1時間に1本、無人駅も増えて来た御殿場線となりました。

小田原から真鶴間の鉄橋を走る蒸気機関車 

戦前にも東海道線の電化は進められていました。  

戦後の鉄道 

東海道を走る鉄道と高速道路 

東海道新幹線開業 

今懐かしい、一番最初の新幹線『0系新幹線』 

2016年春には、京都駅の西側にある梅小路機関車館がグレードアップしてオープンされます。楽しみですね。  

 

 

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🐾 静かな海野宿を歩く 🐾

2015年05月12日 | 日本の歴史

上信越自動車道の長野ICを15時42分に乗り、東御(とうみ)市の東部湯の丸ICを出て海野宿(うんのじゅく)に立ち寄りました。到着16時15分。

海野宿は寛永2年(1625)に北国街道の宿駅として開設されました。                                       北国街道は中山道と北陸道を結ぶ重要な街道であり、佐渡で採れたの輸送や北陸諸大名の参勤交代の道であり、江戸との交通も頻繁で善光寺への参詣客も多くあったようです。

今回は次回計画時の参考のため下見として立ち寄り、時間も16時過ぎで、静かな宿場町を散策しました。

道の中央を用水が流れ、その両側に格子戸のはまった美しい家並みが建ち並ぶ海野宿。 江戸時代の宿場の建物と、明治以降の養蚕造りの建物が良く調和しながら、歴史を語りかけています。

歴史的町並みが残る場所として、昭和61年(1986)に【北国街道】が建設省より「日本の道百選」に選ばれ、続いて昭和62年(1987)には海野宿が【宿場町・養蚕町】で文部省より「重要伝統的建造物群保存地区」にも選定されているとのことです。

   海野宿の見どころをご紹介                                                              

卯建(うだつ)には、いくつかの種類があり、江戸時代の「本うだつ」は建物の両側にある妻壁を屋根より一段高く上げたもので、防火壁の役割を果たすことから「火回し」とも呼ばれたようです。

                                                                               明治時代に入ると、より装飾的な「袖うだつ」も設けられるようになりました。                              どちらも富裕な家でなければできるものではありませんでした。                  このような所から『うだつがあがらぬ』という言葉が生まれたとのことです。

海野格子(うんのごうし)格子戸のはまった家が続く海野宿ですが、一階の格子戸のほとんどは明治以降に作られました。                            これに対し二階格子の多くは江戸時代のもので出格子になっており、長短2本ずつ交互に組み込まれた模様が美しく『海野格子』と呼ばれています。

                                                                              また、江戸時代の旅籠屋は、一階より二階の方が張り出して造られた出桁造りの家になっている特徴があります

 

                                                                                                 

 

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🐾 塩の道を歩く。(千国越え)🐾

2015年05月04日 | 日本の歴史

毎年、ゴールデンウィークにJR 大糸線沿いで『塩の道祭り』が開催されています。 

                                                                         5月3日(日)小谷(おたり)5月4日(月)白馬村5月5日(火)大町市と千国街道を3コースに分け、塩や海産物を運んだ当時の風情たっぷりに、ボッカや牛方などに扮した村人の方々と共に歩いてきました。

平成25年(2013)に白馬村(佐野坂から白馬まで)のコースに参加し、今回2回目の参加です。

                                                                   2回参加して感じた事は、大きな「塩の道祭り」開催では共通しているようですが、3日間にわたっての実施で小谷村、白馬村、大町市の各々の開催内容に独自の特徴を付けている様に感じました。                                来年は大町市に参加してみたいと思っています。

                                                                   3日間参加しないと全体の良さが分からないかな と感じたのです。

                                                                      当然、村興しを念頭に入れてのお祭りでしょうが、郷土芸能披露で村の方々の真剣な取り組みが見てるものにガンガン伝わり、勉強させて頂いた感じがありました。

郷土芸能開始の挨拶には小谷地震での復興が進みつつあるお礼や小谷村の人口が3千人の所、祭りの開催で4千人と言う沢山の方々が来て下さった事へのお礼の言葉がありました。

ゴールデンウィークであり、松本から糸魚川に抜ける国道148号線は、久し振りに以前通った山間部の道に入りビックリ。              地震の影響を目の当たりにしたのです。                      それは道路の片側通行や寸断による通行止め、家屋の半壊状態、屋根しか残っていないのです。                                      地元の方の話では、幹線道路付近は良くなりましたが、一つ裏に入ると通行止めや壊れた家屋が空家状態となっているとの事でした。                           田舎に災害が発生すると益々の過疎化が進んでしまいます。

話は祭りに戻ります。 栂池高原ゴンドラリフト駐車場に7時20分着。                                  直ぐに歩く準備を済ませ、9km先のスタート地点である下里瀬 (くだりせ)へ行く無料シャトルバスに乗り込んだ。8時到着。                                  受付を済ませ、盛り上がるスタート会場内を覗いた。

下里瀬基幹センターの舞台では景気良い小谷太鼓の演奏が響き渡っていた。      お弁当、お蕎麦、採り立て山菜天ぷらの揚げ立てが用意され、ご馳走になった。

コース予定には9時10分出発となっていたが、既に歩き始めている方もいて自分は写真を撮りながらノンビリ歩こうと思っていたので8時20分に出発した。            この辺は白馬村とは違っていた。 

                                                                          白馬は民族衣装の代官、武士、商人、歩荷さん、飛脚などが先頭を歩き、その後を参加者が続いた。

糸魚川から松本城下まで約三十里(約120km)を結び、信州側では「糸魚川街道」、越後側では「松本街道」と呼ばれた千国(ちくに)街道は、またの名を“塩の道”と呼ばれていました。

松本藩では他からの塩の移入を禁止し“北塩”といって糸魚川から千国街道経由のみ許可したため、日本海からは塩をはじめ海産物、信州からは麻やたばこを積んだ牛馬や歩荷と呼ばれる人たちが盛んに行き来したとの事です。

                                                                      この道がまさに『塩の道』と呼ばれるゆえんだそうです。

それは華やかな大名行列などの往来もない生活物資運搬のための経済路線、いわばのにじんだ庶民の道として明治の時代まで続いたようです。

戦国時代、上杉 謙信がこの道を経て、仇敵「武田 信玄」に塩を贈ったという“義塩”の有名な故事があります。

                                                                   それは敵対した今川・北条氏は武田への塩の輸出を禁止した。「塩どめ」である。   これを聞いた謙信は憤り、「信玄と争うのは武力であって塩ではない」と、自領から従来通り信州への塩を輸送する許可を出したのである。 

                                                                       そしてこの道に再び塩の荷が通った。

歴史を紐解くと興味深い話が沢山ありますね。もっと勉強しておけば良かったと、後悔しています。

 

 

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☆リニア・鉄道館☆

2013年10月16日 | 日本の歴史

『リニア・鉄道館』は2011年3月14日に名古屋の伊勢湾岸自動車道、名港中央IC から近い金城埠頭にオープンした、JR 東海の鉄道博物館です。

よく京都に行くのですが、伊勢湾岸道は伊勢湾の名古屋港上を橋で通り抜ける快適な高速道路で、いつもは通過点でしたが今回は名港中央ICを降りてみた。

リニア・鉄道館はICを降りた直ぐそばにありました。

以前に山梨リニア実験線の超電導リニアモーターカーMLX01 に抽選乗車ができると聞き、応募したら高倍率の中、見事に当選し 2002年11月23日に乗車しました。   当時は160Km/hまでタイヤ走行でそれ以上になると超電導磁気浮上走行となり、最高速度450Km/hを記録したのを覚えています。

会場に入るとシンボル展示の新幹線(300X)と超電導リニア(MLX01-1)が目に飛び込み、思わず「オーッ」である。

                                                    リニアは山梨で乗車した時の車両よりも流線型でカモノハシのクチバシの様な車体で、在来線や歴代の新幹線を眺めると、この超電導リニアが頂点のように感じた。

実物の車両が会場内に展示され、ホームから見る景色と違い、線路上から車体を見上げる感じで、その大きさ、迫力に改めてビックリである。

1964年(昭和39年)東京オリンピックが開催され、東名高速道路が開通し、東海道新幹線が開業した。世界で初めて最高速度210Km/hで営業運転を行った。

                                                 自分は、この時の印象が強く、0系21形式の当時の車両を見た時は感慨深いものがあった。

時代を駆け抜けた鉄道車両の雄姿を見て、鉄道の歴史は私達の暮らしと共に歩んできた歴史であり、幼少から青春へ、青春から今の自分へと。人生の歩みの傍らに、必ず鉄道の姿があった。これからも・・・・。      (一部パンフレットより引用)

 

 

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★ 第34回 「塩の道祭り」に参加 ★

2013年05月07日 | 日本の歴史

この塩の道祭りは「今年で34回目となりました。」と、白馬村村長さんから挨拶がありました。

                                                     毎年5月の連休3日間にわたり、小谷(おたり)村、白馬村、大町市の3区間を、昔の旅姿に扮した地元民の方々と一緒に、街道の草の匂いを愉しみ、自然と触れ合いながら、ひととき昔の旅人気分に浸って来ました。

塩の道『千国(ちくに)街道』は糸魚川の上流、今でも川底にヒスイの色が光る姫川沿いをさかのぼり、やがて安曇野、松本平を縦貫し、信州の東山道へと通ずる道でした。

近世になって越後では松本街道、信州側では糸魚川街道と呼ばれていたとの事です。

信州と越後を結ぶ動脈として、塩・麻など海陸の物資が運ばれ続けるにつけ、特に山岳地区での道は重要な役割の陰で難渋を極め、ことさら秋から雪道での輸送は全て牛馬とボッカたちの背によるものでありました。

千国街道は、大名行列などの華やかさはなく、庶民の汗の道として民俗や自然、石仏たちの宝庫を残し、深い郷愁を誘う〝道〟として伝えてくれています。

戦国期〝敵に塩を贈る〟という美談でも知られる、越後の「上杉 謙信」が甲斐の「武田 信玄」に、牛馬の隊列を整えて、塩を贈ったと言うのも、この千国街道でのことだそうです。

こんなにも重要であった千国街道の地図や瓦版(手書きの案内書)を頂き、美しい山野草や桜を眺め史跡を巡る道中の各所で、地元の方々のふるまいや気軽な声掛けに元気づけられ、とても気持ちの良く楽しい『塩の道祭りを体験できました。

 

 

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🌸 歴史物語に秘められた奥千本を訪ねる 🌸

2013年04月14日 | 日本の歴史

花見を兼ねた吉野山は主目的がトレッキングにあり、通常の花見客は上千本辺りで引き返すのだが、私達は35分かけてのんびり奥千本を目指した。

やっと吉野山の地主神である金峯(きんぷ)神社の鳥居が見えた。          何とそこには、登山の服装でなく、街中の観光客風の方が列をなしていた。    何だろうと思いきや、そこには「奥千本口」と言うバス停があった。          だから700mを越える山上に普通服の人が沢山いるんだと納得した。

バス停から15分ほどで 金峯神社に到着した。                       修験道の行場の1つであり、黄金の守護神(金山毘古命)として信仰を集めている。

                                          平安時代中頃から金峯山が金鉱のある山とあがめられ、御嶽信仰の中心であったようです。

杉や桜の木に囲まれてたたずむ古社。                          また、その境内には兄・源 頼朝に追われた義経が弁慶らと共に身を隠していたと言う、「義経の隠れ塔」があります。                                宝形造りの簡素なお堂です。追っ手に囲まれた義経が屋根を蹴破って逃れたので蹴抜塔とも呼ばれたようです。

金峯神社より更に20分ほど登り、奥千本の1番奥にある西行庵を訪ねた。

「新古今和歌集」の歌人として名高い西行が都を離れ、3年ほど隠棲した庵と言われ、内部には木造の西行座像が安置されていました。                        苦行を労うかのように桜も満開でした。 

 

                    

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★梅小路蒸気機関車館★

2013年03月23日 | 日本の歴史

開館40周年記念の特別展が、平成24年10月から平成25年3月31日(日)まで開催されており、懐かしさのあまり立ち寄ってみた。

梅小路蒸気機関車館は、1972(昭和47)年に当時の日本国有鉄道(現在のJR各社)が鉄道100周年記念事業の一環として開設し、今年で開館40周年を迎えました。

蒸気機関車は地方に行けば、観光用に走っている所が有り、鉄道マニアには人気の路線が有ります。                                   ところが梅小路は、街中で力強く迫力ある機関車の走行音、汽笛、吐き出す蒸気音、中国のPM2.5に負けない黒煙が見聞できます。                           なので、子供に限らず、大人もカメラやビデオで真剣に撮影していました。

1967(昭和42)年、磯崎国鉄副総裁(当時、のちに総裁)の『蒸気機関車が全廃された後も、一部の機関車を動かす事の出来る状態で保存し、後世に残し伝えたい』との考えに基づき、蒸気機関車の動態保存が検討され、翌年の1968(昭和43)年、国鉄の鉄道開業100周年の記念事業の一環として実施されることが決定されました。

そして、『従来から蒸気機関車の代表的な基地であること』、『運転面・保守面などで由緒ある区所であること』、『見学者の交通が便利であり、なおかつ蒸気機関車以外の他の見学施設が付近に存在すること』などの選定基準から、当初は関東地方の小山機関区(栃木県)において、12両の蒸気機関車を動態保存するという計画でした。

しかし、小山機関区には機関車の検査・修繕に欠かせないビームジャッキ(クレーンの一種)が無いなどといった理由から、改めて高崎・宇都宮・水戸・佐倉・横浜・国府津・梅小路の各機関区が候補地として挙げられました。

そして、この中から梅小路機関区が選定され、17両の蒸気機関車が保存されることとなり、1972(昭和47)年10月に梅小路蒸気機関車館が開設されました。

入館時間は10時から17時まで。その間に蒸気機関車が11時、13時半、15時半の3回体験乗車ができ、土・日は増発することもあります。                     また、機関車の方向を変える転車台で、実演が見られ、作業される人も当時の国鉄作業服で見ていて感慨深いものがあります。  

 

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🌟 初詣 🌟

2013年01月13日 | 日本の歴史

1年の計は元旦にあり     

                                                         1年の節目として、日本では正月をことのほか大切に考える文化があります。

正月には年神様と言う新年の神様が各家庭に降りてくると考えられ、その年の幸運を授けてもらうために、様々な習慣が各地にあった形で定着しています。

その伝統的な習慣やそれを表す言葉、正月行事の「門松」・「しめ飾り」・「鏡餅」・「おとそ」・「おせち料理」・「雑煮」・「鏡開き」など、あげれば沢山の言葉があります。                                    この言葉1つを子供達に聞かれると、中々正確に答える事が出来ず、急いで調べる有様です。                                          親がこれでは、伝統的な習慣と言えども忘れられてしまいますね。                    毎年、そんな事を思いつつ年が過ぎて行きます。

関東でも成田山 新勝寺、靖国神社、芝 増上寺、明治神宮、鶴岡八幡宮、川崎大師、大雄山 最乗寺など他にも沢山の神社・仏閣が初詣をする人で大賑わいとなります。

昔は1年のけじめとして、一家の家長は、大晦日の夜から神社に出かけて、寝ないで新年を迎えるのが習わしであり、家族は自分たちが住んでいる地域の氏神を祀っている神社にお参りをしたようです。

現在は上記の有名な神社に出かけたり、その年の干支によって年神様の居る方角、つまり恵方(えほう)が縁起良いと言う事で、恵方に当たる社寺に出かけて初詣をするようになったようです。

 

 

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木曽「奈良井宿」を訪ねる。

2009年07月17日 | 日本の歴史

江戸時代、江戸と京の都を結ぶもっとも重要な街道であった❝中山道❞          その69の宿場のうち木曽には11の宿場があったようです。

その中の、中山道十一宿のうち北から2番目の難所、鳥居峠(1,197m)を控えた宿場町、奈良井宿を訪ねてみた。

かつては街道を行き交う旅人で栄え、その様は「奈良井千軒」と謳われ木曽路一番の賑わいを見せたようです。

奈良井宿は鳥居峠の上り口の鎮神社を京都側の入口とし、奈良井川に沿って約1Kmの中山道沿いに町並みが形成されています。

旅籠の軒灯、千本格子など江戸時代の面影を色濃く残しており、時代を超えた風格が感じられ、まるで江戸時代にタイムスリップしたような錯覚におちいります。

通り掛かりの旅人に松坂屋さんの御主人は、体の具合が悪いのにも係わらず、声を掛けて下さり、一所懸命に筆をとられ色紙に「風薫る 信濃の国の 水のよろしさ」とすばやく書いてくださいました。                                      桜茶を御馳走になったり、色紙を頂いたり最高に感激しました。

                                              皆さん奈良井宿は素晴らしい宿場ですよ。是非一度、足を運んでみて下さい。          旅籠もあるし、1泊されると心が洗われます。 

 

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