素晴らしい風景!!

色々歩いた山や国内の風景等をご紹介いたします。

☆リニア・鉄道館☆

2013年10月16日 | 日本の歴史

『リニア・鉄道館』は2011年3月14日に名古屋の伊勢湾岸自動車道、名港中央IC から近い金城埠頭にオープンした、JR 東海の鉄道博物館です。

よく京都に行くのですが、伊勢湾岸道は伊勢湾の名古屋港上を橋で通り抜ける快適な高速道路で、いつもは通過点でしたが今回は名港中央ICを降りてみた。

リニア・鉄道館はICを降りた直ぐそばにありました。

以前に山梨リニア実験線の超電導リニアモーターカーMLX01 に抽選乗車ができると聞き、応募したら高倍率の中、見事に当選し 2002年11月23日に乗車しました。   当時は160Km/hまでタイヤ走行でそれ以上になると超電導磁気浮上走行となり、最高速度450Km/hを記録したのを覚えています。

会場に入るとシンボル展示の新幹線(300X)と超電導リニア(MLX01-1)が目に飛び込み、思わず「オーッ」である。

                                                    リニアは山梨で乗車した時の車両よりも流線型でカモノハシのクチバシの様な車体で、在来線や歴代の新幹線を眺めると、この超電導リニアが頂点のように感じた。

実物の車両が会場内に展示され、ホームから見る景色と違い、線路上から車体を見上げる感じで、その大きさ、迫力に改めてビックリである。

1964年(昭和39年)東京オリンピックが開催され、東名高速道路が開通し、東海道新幹線が開業した。世界で初めて最高速度210Km/hで営業運転を行った。

                                                 自分は、この時の印象が強く、0系21形式の当時の車両を見た時は感慨深いものがあった。

時代を駆け抜けた鉄道車両の雄姿を見て、鉄道の歴史は私達の暮らしと共に歩んできた歴史であり、幼少から青春へ、青春から今の自分へと。人生の歩みの傍らに、必ず鉄道の姿があった。これからも・・・・。      (一部パンフレットより引用)

 

 

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★ 第34回 「塩の道祭り」に参加 ★

2013年05月07日 | 日本の歴史

この塩の道祭りは「今年で34回目となりました。」と、白馬村村長さんから挨拶がありました。

                                                     毎年5月の連休3日間にわたり、小谷(おたり)村、白馬村、大町市の3区間を、昔の旅姿に扮した地元民の方々と一緒に、街道の草の匂いを愉しみ、自然と触れ合いながら、ひととき昔の旅人気分に浸って来ました。

塩の道『千国(ちくに)街道』は糸魚川の上流、今でも川底にヒスイの色が光る姫川沿いをさかのぼり、やがて安曇野、松本平を縦貫し、信州の東山道へと通ずる道でした。

近世になって越後では松本街道、信州側では糸魚川街道と呼ばれていたとの事です。

信州と越後を結ぶ動脈として、塩・麻など海陸の物資が運ばれ続けるにつけ、特に山岳地区での道は重要な役割の陰で難渋を極め、ことさら秋から雪道での輸送は全て牛馬とボッカたちの背によるものでありました。

千国街道は、大名行列などの華やかさはなく、庶民の汗の道として民俗や自然、石仏たちの宝庫を残し、深い郷愁を誘う〝道〟として伝えてくれています。

戦国期〝敵に塩を贈る〟という美談でも知られる、越後の「上杉 謙信」が甲斐の「武田 信玄」に、牛馬の隊列を整えて、塩を贈ったと言うのも、この千国街道でのことだそうです。

こんなにも重要であった千国街道の地図や瓦版(手書きの案内書)を頂き、美しい山野草や桜を眺め史跡を巡る道中の各所で、地元の方々のふるまいや気軽な声掛けに元気づけられ、とても気持ちの良く楽しい『塩の道祭りを体験できました。

 

 

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🌸 歴史物語に秘められた奥千本を訪ねる 🌸

2013年04月14日 | 日本の歴史

花見を兼ねた吉野山は主目的がトレッキングにあり、通常の花見客は上千本辺りで引き返すのだが、私達は35分かけてのんびり奥千本を目指した。

やっと吉野山の地主神である金峯(きんぷ)神社の鳥居が見えた。          何とそこには、登山の服装でなく、街中の観光客風の方が列をなしていた。    何だろうと思いきや、そこには「奥千本口」と言うバス停があった。          だから700mを越える山上に普通服の人が沢山いるんだと納得した。

バス停から15分ほどで 金峯神社に到着した。                       修験道の行場の1つであり、黄金の守護神(金山毘古命)として信仰を集めている。

                                          平安時代中頃から金峯山が金鉱のある山とあがめられ、御嶽信仰の中心であったようです。

杉や桜の木に囲まれてたたずむ古社。                          また、その境内には兄・源 頼朝に追われた義経が弁慶らと共に身を隠していたと言う、「義経の隠れ塔」があります。                                宝形造りの簡素なお堂です。追っ手に囲まれた義経が屋根を蹴破って逃れたので蹴抜塔とも呼ばれたようです。

金峯神社より更に20分ほど登り、奥千本の1番奥にある西行庵を訪ねた。

「新古今和歌集」の歌人として名高い西行が都を離れ、3年ほど隠棲した庵と言われ、内部には木造の西行座像が安置されていました。                        苦行を労うかのように桜も満開でした。 

 

                    

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★梅小路蒸気機関車館★

2013年03月23日 | 日本の歴史

開館40周年記念の特別展が、平成24年10月から平成25年3月31日(日)まで開催されており、懐かしさのあまり立ち寄ってみた。

梅小路蒸気機関車館は、1972(昭和47)年に当時の日本国有鉄道(現在のJR各社)が鉄道100周年記念事業の一環として開設し、今年で開館40周年を迎えました。

蒸気機関車は地方に行けば、観光用に走っている所が有り、鉄道マニアには人気の路線が有ります。                                   ところが梅小路は、街中で力強く迫力ある機関車の走行音、汽笛、吐き出す蒸気音、中国のPM2.5に負けない黒煙が見聞できます。                           なので、子供に限らず、大人もカメラやビデオで真剣に撮影していました。

1967(昭和42)年、磯崎国鉄副総裁(当時、のちに総裁)の『蒸気機関車が全廃された後も、一部の機関車を動かす事の出来る状態で保存し、後世に残し伝えたい』との考えに基づき、蒸気機関車の動態保存が検討され、翌年の1968(昭和43)年、国鉄の鉄道開業100周年の記念事業の一環として実施されることが決定されました。

そして、『従来から蒸気機関車の代表的な基地であること』、『運転面・保守面などで由緒ある区所であること』、『見学者の交通が便利であり、なおかつ蒸気機関車以外の他の見学施設が付近に存在すること』などの選定基準から、当初は関東地方の小山機関区(栃木県)において、12両の蒸気機関車を動態保存するという計画でした。

しかし、小山機関区には機関車の検査・修繕に欠かせないビームジャッキ(クレーンの一種)が無いなどといった理由から、改めて高崎・宇都宮・水戸・佐倉・横浜・国府津・梅小路の各機関区が候補地として挙げられました。

そして、この中から梅小路機関区が選定され、17両の蒸気機関車が保存されることとなり、1972(昭和47)年10月に梅小路蒸気機関車館が開設されました。

入館時間は10時から17時まで。その間に蒸気機関車が11時、13時半、15時半の3回体験乗車ができ、土・日は増発することもあります。                     また、機関車の方向を変える転車台で、実演が見られ、作業される人も当時の国鉄作業服で見ていて感慨深いものがあります。  

 

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🌟 初詣 🌟

2013年01月13日 | 日本の歴史

1年の計は元旦にあり     

                                                         1年の節目として、日本では正月をことのほか大切に考える文化があります。

正月には年神様と言う新年の神様が各家庭に降りてくると考えられ、その年の幸運を授けてもらうために、様々な習慣が各地にあった形で定着しています。

その伝統的な習慣やそれを表す言葉、正月行事の「門松」・「しめ飾り」・「鏡餅」・「おとそ」・「おせち料理」・「雑煮」・「鏡開き」など、あげれば沢山の言葉があります。                                    この言葉1つを子供達に聞かれると、中々正確に答える事が出来ず、急いで調べる有様です。                                          親がこれでは、伝統的な習慣と言えども忘れられてしまいますね。                    毎年、そんな事を思いつつ年が過ぎて行きます。

関東でも成田山 新勝寺、靖国神社、芝 増上寺、明治神宮、鶴岡八幡宮、川崎大師、大雄山 最乗寺など他にも沢山の神社・仏閣が初詣をする人で大賑わいとなります。

昔は1年のけじめとして、一家の家長は、大晦日の夜から神社に出かけて、寝ないで新年を迎えるのが習わしであり、家族は自分たちが住んでいる地域の氏神を祀っている神社にお参りをしたようです。

現在は上記の有名な神社に出かけたり、その年の干支によって年神様の居る方角、つまり恵方(えほう)が縁起良いと言う事で、恵方に当たる社寺に出かけて初詣をするようになったようです。

 

 

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木曽「奈良井宿」を訪ねる。

2009年07月17日 | 日本の歴史

江戸時代、江戸と京の都を結ぶもっとも重要な街道であった❝中山道❞          その69の宿場のうち木曽には11の宿場があったようです。

その中の、中山道十一宿のうち北から2番目の難所、鳥居峠(1,197m)を控えた宿場町、奈良井宿を訪ねてみた。

かつては街道を行き交う旅人で栄え、その様は「奈良井千軒」と謳われ木曽路一番の賑わいを見せたようです。

奈良井宿は鳥居峠の上り口の鎮神社を京都側の入口とし、奈良井川に沿って約1Kmの中山道沿いに町並みが形成されています。

旅籠の軒灯、千本格子など江戸時代の面影を色濃く残しており、時代を超えた風格が感じられ、まるで江戸時代にタイムスリップしたような錯覚におちいります。

通り掛かりの旅人に松坂屋さんの御主人は、体の具合が悪いのにも係わらず、声を掛けて下さり、一所懸命に筆をとられ色紙に「風薫る 信濃の国の 水のよろしさ」とすばやく書いてくださいました。                                      桜茶を御馳走になったり、色紙を頂いたり最高に感激しました。

                                              皆さん奈良井宿は素晴らしい宿場ですよ。是非一度、足を運んでみて下さい。          旅籠もあるし、1泊されると心が洗われます。 

 

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*近江の八幡堀*

2009年05月08日 | 日本の歴史

かつて湖上交通の要衝であった八幡堀。                        安土・桃山時代より荷船の流通路として栄え、近江商人の発展と町の繁栄を支えた。    

堀沿いの両側にある遊歩道を歩けば、白壁土蔵が並ぶ情緒ある景色を四季折々の景観と共に楽しめます。  

桜や枝垂れ柳、ツツジ、花菖蒲が植えられ、訪れる者に歴史と風情を感じさせてくれる近江八幡の散策スポットです。 

静かな小さな町です。ゆっくり徒歩で散策されることを、是非お勧め致します。   

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あきんどの里「近江八幡」

2009年05月06日 | 日本の歴史

自然の恵みや先人達が創り出した風景や文化が、静かで小さな町に息づいていました。 そして近江商人の風情が感じられました。

近江商人(八幡商人)の活躍の地は、日本全国各地に及びましたが、主に東京や北海道、中には安南やシャム(現在のベトナムやタイ)など海外で活躍した商人もいたようです。

彼らの商売は信用を第一とし、物の不足に便乗した値上げなどは厳しく戒め、人々から愛され必要とされる商いを心がけ、また橋の架け替えや神社仏閣への寄進も怠ることなく、地域貢献を忘れることは無かったとの事です。                                                                   現在、商業に関係する企業に、この商人魂のかけらが少しでも有ればと願う所です。  

そんな商人達がかつて住んだ地域(新町・永原町)は、格子戸や見越しの松、うだつなどが並び「重要伝統的建造物群保存地区」として、町並みの保存がなされ、近江八幡の代表的な地域で歴史ある近江商人の面影や風情が感じられました。     

市立資料館の一部として公開されている「国の重要文化財・旧西川家住宅」や「旧伴家住宅」などでは、

                                              かつての近江商人の暮らしや帳場風景が再現されており、豊かでありながらつつましい、あきんどの生活がひしひしと伝わってきます。 

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🐾 ぶらり近江八幡 🐾

2008年10月03日 | 日本の歴史

京都へ向かう途中、琵琶湖湖岸道路を走行中に近江八幡と言う標識が何度か目に留まったが、いつも素通りをしていた。                      今回は用事が早くに片付いたので、ちょっと寄って見る事にした。          この時は「近江八幡」てどんな町だろう と考えてみたが「近江牛」や「商人の町」くらいしか頭に浮かんで来なかった。                        そんな事でウキウキ・ドキドキしながら歴史街道を通り、商人の町に足を踏み入れてみた。 

        

ビックリ  昔のままの商人の町並み、そして琵琶湖からの堀を運河として利用した歴史の街が残っていました。

                                                  自然の恵みや先人達が創り出した風景・文化が、今現在生活を営む人々と重なり合って醸し出す風情を感じることが出来ました。                    私のもう一度、訪問し歩いてみたい街のひとつです。

        

近江八幡の町は今から約400年あまり前、豊臣秀吉の甥の豊臣秀次が開いた城下町で、水上交通の要であった八幡堀を中心に栄えた町だそうです。 

                                              堀沿いには今も白壁の土蔵が立ち並び、隆盛の時代を今に伝えています。       江戸時代中期から明治に建てられた商家が現存する新町通りや八幡堀沿いを、当時の活気ある町を想像しつつ、雨の中貸切状態でプラプラ散策をしました。

                                        

近江八幡の町が発展した理由の中で、八幡堀の役割は欠かす事ができません。

                                              堀は城を防御するために存在しますが、豊臣秀次はこの八幡堀を運河として利用する事を考え、琵琶湖を往来する船を全て八幡の町へ寄港させた事から、商人の町として大いに活気を呈したとの事であります。

 

多くの商人が八幡の町から全国へと旅立ち、近江商人として 活躍した原動力となった八幡堀も昭和30年頃になると時代は高度経済成長期に入り、人々の生活が変化する中で、次第に市民の関心も薄らいで、やがてドブ川のようになり埋められる危機があったようです。

                                                                                               しかし、「八幡堀は埋めた瞬間から後悔が始まる」の合言葉により、市民が立ち上がり、清掃活動に取り組まれ次第にかつての姿を取り戻し、今日でも各種団体による清掃活動が続けられているとの事です。     本当に、ありがたい事です。                                                                                                                                                   そのお陰で写真を撮られる方や絵を描かれる方が数多く訪れ、また水戸黄門など時代劇のロケ地としても頻繁に利用されているようです。

 

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第38回 信玄公祭り

2008年04月13日 | 日本の歴史

戦国の名将「武田信玄公」いま蘇る。

桜の花が咲き誇る春、甲府盆地は一気に戦国時代にタイムスリップします。      戦国時代の名将・武田信玄公を偲び、命日である4月12日を中心に、信玄公祭りが山梨県内各地で催されます。

                                        中でも信玄公とその重臣24将の武者軍団が出陣する様子を再現した『甲州軍団出陣』は山梨県の最大のイベントです。

       

この催しを山梨県観光物産連盟より配信して頂いている「富士の国やまなし観光ネット」で知り、出陣式典の観覧席希望の申込みをしたら運良く2席分当たり、先日行ってきました。                                      今年の武田信玄公役は京都市左京区生まれで「噂の刑事トミーとマツ」等で活躍された俳優『国広 富之』氏。                                         そして他国の情報と軍法の知識で功績、武田軍を支えた山本勘助晴幸役を兵庫県出身で「一度だけなら」で歌手デビューした野村真樹さん。現名『野村 将希』氏 

                                                 武田家の出陣式は、三献の儀であった。                                                                              先ず信玄公が武装して、南向きに床机に座る。左右に武田一族と軍団の重臣が胡座をかいて居並び、信玄公は打鮑を口に入れ、盃には三度に分けて酒が注がれる。        次に、勝栗と三度の酒、さらに干し昆布と三度の酒で締めくくる。        酒は三三九度であり、肴は「この戦に勝栗、敵を打飽とし、よろ昆布なり」(この度の合戦に勝って、敵を打ち、喜ぶ)の語呂合わせで縁起を担いだものである。 

                                              かがり火が灯され、ホラ貝が響き渡れば、いよいよ出陣 各地から集まった1,600余名の軍勢が、甲府駅前を起点に大通りを進軍。                         信玄公を取り巻く女性たちを中心とした華麗な「武田時代行列」に続き、騎馬隊や槍・弓を身につけた武者たちが一大戦国絵巻を展開しました。

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