昨日より多少でも良い方向への天気回復を祈ったが、どっしりした秋雨前線は動く気配なし、悪天の中で計画続行するよりもパーティーの安全を第一に考慮し、スタッフ全員の意見で停滞と決定した。
太郎平小屋の食事は朝・夕共に5時で50名位の宿泊者がいたが、食後は遅れながらも我がパーティー以外は皆さん防雨・防寒対策をされ下山して行かれた。 取り残された私たちはする事も無く食後は談話室で本
を読んだり、部屋に戻り
寝転んだりしていた。
暇なので、小屋の中を歩き回っていたら登山客の食事の後、小屋の従業員さん達が食事をされていた。その従業員さんが20名ほどいられビックリした。
受付や厨房で見かける方々だけかと思いきや裏方で働く従業員さんもいて小屋が成り立っているのですね。
8時、普通なら小屋は空になり従業員さん達だけになるが、今日は私たち16名が小屋の中をウロウロしているので、始まった掃除がやり難そうであった。 150名収容の大きな小屋であり、沢山の部屋が有るのを皆さん手分けで、雑巾で床を拭くオーナーの息子さん、別の方は箒を持ち室内清掃、大きな掃除機が何台もあり「エッ
ここは掃除機など使えるの
」と感じたが、ブンブンとうなって動いていた。
受付、厨房、登山者の宿泊部屋、乾燥室、自炊兼談話室、トイレ、従業員部屋、外の焼却炉でゴミを処理する人、皆さんがそれぞれの場所で必死に清掃されている姿に驚きました。 晴天で小屋を出てしまえば目にする事のない小屋の1日を知る事ができ、小屋を利用させて頂く者として今まで以上に小屋を綺麗に利用しなくてはと言う気持ちがより一層強くなりました。
疲れた登山客を気持ち良く迎えるために、従業員さんは一生懸命に仕事をされている姿を目の当たりに感動しました。ありがとうございます。
また、談話室にいたら「こちらの掃除をはじめます。食堂の掃除が終わりましたので食堂の方で休んで下さい。」と掃除をしながら登山客に気を使って下さり、従業員さんの心遣いにも恐縮しました。
食堂に移り皆でコーヒーを注文、ビックリした事にコーヒーを入れオーナーが食堂に持って来て下さいました。
「皆は掃除中だから」
と言われ、また退屈そうな私達を見て「もし良ければ午後、山の話をしようか
」と言って下さり是非とお願いした。
外を見れば雨は本降り、11時半に小屋で作って頂いた竹皮で巻いてある押し寿司弁当を頂いた。 自分は好きなので山で食べると、より一層美味しく頂けた。
13時、全員食堂に集合しオーナー(五十嶋博文)様を待った。 直ぐに見えられ立ったまま2時間近く
太郎平小屋のこと。
家族のこと。
御自分のこと。
山での出来事。などを聞かせて頂きました。
太郎平小屋はオーナーの父上文一様が昭和30年に太郎山に建てられたのが始まりで、オーナーは昭和31年、高校卒業と同時に小屋での山の生活が始まり、最初の仕事が当初の太郎小屋を現在の場所に移転する事であったようです。
以前の小屋は太郎山の南側にあった。 現在では
スゴ乗越小屋
、
薬師沢小屋
、
高天原山荘
の4つを経営されています。 太郎平小屋は今年で60周年です。
ご兄弟は、お兄様が法政大学山岳部を出られ、現在は著作家をされ、弟様は日本医科大学山岳部に所属されていた関係か、日本医科大学医学部が夏の間は小屋に常駐されています。
ご兄弟の皆さん山が大好きであったことが伺われました。 また、富山県の山岳警備隊も常駐され、食事の時に山での注意事項をお話して下さいました。 現在は高齢登山愛好者が増加し、遭難原因の第1位は「病気」だそうです。
オーナー(五十嶋博文)様は
薬師岳方面山岳遭難対策協議会救助隊長、
富山県遭難対策協議会理事長、
登山道・案内板・森林などのパトロール、
全国もで珍しい高山蝶(タカネヒカゲ)を守るためのパトロールなどを務められているとの事です。
私たちの登山は、五十嶋様など多くの方々の遭難防止にご尽力される人が有って成り立っている事を強く感じました。
山での事故は自己責任と言えども、五十嶋様や警察(山岳警備隊)、消防本部などの皆様にご迷惑を掛けぬ様、登山を楽しみたいと考えています。
最後に五十嶋様が山に入られて今年で59年。
その59年間で忘れられない捜索活動があったそうです。 それは昨日私たちが折立登山口に入り直ぐ左手に有った石塔の愛知大学山岳部13名の死亡事故。
「何十年ぶり」
という言葉は最近よく聞かれますが、昔からあったようです。 昭和38年1月記録的な豪雪があり「下山予定のパーティーが帰って来ない
」という連絡が事の発端でした。
当時は山岳警備隊の存在は無く、連絡を受けた五十嶋様他、山小屋の主人達は捜索隊を編成し救助活動に駆け
回った。 その時の気持ちは「家族ら関係者の祈るような目を見ると黙って待ってはいられず、必死に薬師一帯を探し回った。」と振り返り語って下さいました。 今から52年前、装備・捜索の機材とて不十分であった時で、捜索は難航したとのことです。
3月薬師岳東南稜で7名の遺体発見。
「寒かったろう・・・」涙があふれ、顔がくちゃくちゃになった。
4月下旬、更に4名の遺体を収容した。 が後2名(鳶田さん・鈴木さん)の方が発見できず、夏には愛知大学山岳部を含め総勢 90名で薬師一帯のハイマツの中まで2m間隔で捜索するも発見できず、やむなく撤退。
県も大学も降雪が始まるだろう10月15日で捜索終了
宣言を出した。 その間、鳶田さんの父親は個人で必死に
探し続け、地下足袋3足を履き潰したそうです。
当然、五十嶋様にも声が掛かり捜索に同行、他の仲間を発見した雲ノ平側でなく、もう黒部側しかないと判断し道なき断崖を捜索。 先頭の隊員から「骨が有るぞ~ッ
」の声を聴き、父親である鳶田さんが夢中でガレ場を四つ這いになって近づく姿には涙が出ました。
(お話の後、ビデオを見せて頂きました。)
ところが腕にあった時計は息子さんでなく鈴木さんであった。 日の当たる場所であり骨だけの遺体であったそうです。
その後まもなく更に上部の岩陰で鳶田さんが発見されましたが、五十嶋様の話では「岩陰に有ったので肉は残っていたが目などは無く親に見せられる姿ではなかった。」と言うことです。
捜索終了の1日前10月14日の事です。
雨の中、出発される登山者に声を掛けて送り出す五十嶋様
五十嶋様が、山に携わる人間として遭難救助は当然だが、白く冷たい遺体を抱き上げるのは山小屋のオヤジとして最も胸を痛める時です。 登山という自然の中で若者の死は悲しく、家族や関係者の悲嘆は筆舌に尽くし難いものです。と
「50周年を迎えて」
の小屋開設記念誌に記されていました。
富山県ではこの遭難事故後、昭和40年に富山県警察山岳警備隊が発足し、遭難をヘリコプターで救助対応する事が始まったようです。
山で気になる屎尿処理について
どこの山小屋でも頭を悩ませることでありますが、マラソン
人口と同様に登山
人口も増加し放っておけない問題であります。
太郎平小屋は従来からバイオ対応やペーパーの分別など多くの試みを実施、平成8年からヘリコプターによる地上への搬送を実施するなど山の環境保全に努力されています。 現在の山小屋のトイレは従来に比べたら格段に進化しています。
五十嶋様の話では若い女性の登山者が増加したということです。 富士山の世界遺産候補時に問題となったトイレ事情があり、今では国を挙げて山小屋のトイレを綺麗にする方向にあり、是非続けて頂きたいと希望しています。 一時、民主党政権時には「山に入る人間に出させればよい。」と言うことで補助打ち切りにされた経緯があるようですが、自民党政権では
「上を綺麗にしない限り、下が綺麗になる事はない」
という考えが基本になっているようです。 山を愛する人間として補助の打ち切りは考えたくありません。