素晴らしい風景!!

色々歩いた山や国内の風景等をご紹介いたします。

▲ 房総「鋸山」 ▲

2019年03月15日 | 私の見た山・登った山

 

[カシオ]CASIO 腕時計 PROTREK プロトレック MULTI FIELD LINE マルチフィールドライン PRW-3500-1 ブラック×シルバー メンズ [並行輸入品]
Casio(カシオimport)  本格アウトドアギアプロトレック                    20気圧防水とレジスターリングが特徴のNewモデル。 レジスターリングは 凸凹のある指掛かりの良い形状を採用し操作性が向上しています。ワンプッシュで方位、気圧/温度、高度計測が可能。
CASIO

地獄 が覗けるという『鋸山』(のこぎりやま)を歩いて来ました。                                  鋸山は鋸の歯 の様な険しい稜線をし房総半島の南部、千葉県安房(あわ)郡 鋸南(きょなん)町と富津(ふっつ)市の境に位置する標高329.4mの山です。

標高は低いが、海岸 から聳えているので堂々として見え、古くから房総の山として親しまれている。 また南面の日本寺境内にはおびただしい石仏が祀られています。         金谷港と東京湾フェリーを俯瞰す。

山は凝灰岩からなり、建築などの資材に適しており、古くから房州石と呼ばれ、良質石材の産地として、江戸時代から盛んに採石が行われたようです。                          その結果、露出した山肌の岩が鋸の歯状に見えることからこの名で呼ばれるようになった。

採取された石材は、幕末から明治、大正、昭和にかけて、主に横須賀軍港や横浜の港湾設備、東京湾要塞の資材として利用された。                                                                                                また、靖国神社や早稲田大学の構内にも利用されているようです。                                                   その後、自然保護規制の強化により 1985年を最後に採石は終了し、現在 鋸山は観光資源として利用されています。 歩く途中でコゲラを発見しました。 コンコンコン 

鋸山の南側斜面 10万坪余りを境内とする乾坤山(けんこんざん)日本寺」(にほんじは今から約 1300年前、聖武天皇の勅詔と光明皇后の御言葉を受けて、神亀 2年 6月 8日(725)高僧行基菩薩によって開かれた関東最古の勅願所だそうです。

境内には日本一の大仏様『薬師瑠璃光如来』。                            原型は天明 3年(1783)に大野甚五郎英令が門弟 27名と共に 3ヵ年を費やして現在の地に彫刻完成したものです。                                            当時は御丈八丈、台座とも九丈二尺あり、天下にその偉観を知られていましたが、江戸時代末期になって、自然の風触 による著しい崩壊があり、昭和 41年に4年にわたり修復されました。

                         

昭和 35年から 6年の歳月をかけて、昭和 41年にかつての石切場跡に彫刻された『百尺観音』。 高さ 30.3m。

                                              発願の趣旨は、一つには 世界戦争戦死病没殉難者供養のため、また一つには、近年激増する東京湾周辺の航海・航空・陸上交通犠牲者供養のためだそうです。                      当山山頂に切り立つ、険しい崖に囲まれた雄大な勝地に安置される大観音像は、交通安全の守り本尊として、多くの人々の尊崇を集めています。

 

『東海千五百羅漢』                                            当山曹洞第九世、「高雅愚伝禅師」の発願により、上総(かずさ)桜井(現:木更津市)の名工「大野甚五郎英令」が安永 8年(1779)から寛政 10年(1798)に至る前後 21年間、門弟 27名と共に生涯をかけて1553体の石仏を刻み、太古よりの風蝕 によってできた奇岩霊洞の間に安置し奉ったものです。

                                                    これは実に、比べるものがないと言われた中華民国懐安大中寺の八百羅漢をしのぐもので、鋸山は世界第一の羅漢霊場として遠く海外にも知られているとのことです。

鋸山で現在一番有名なのは『地獄のぞき』 

                                           建築資材に適している凝灰岩という事で、古くから盛んに採石が行われ、現在残存する石切り場跡から見ても石切り職人さんによる人工的な工作物と思います。

                                           でも、初めて写真を拝見すると「エッ こんな所があるの 」とビックリします。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

🌸 春 🌸

2019年03月15日 | 春景色
DABADA(ダバダ) SG承認品 軽量アルミ製 トレッキングポール 2本セット Amazon限定キット付 アンチショック機能付 【軽量220g コンパクト最少56.5cm】
季節・気候により道がぬかるんでいたり、落ち葉が積もっていたり、凍結して滑り易くなっているなどで体のバランスが取り難い時、危険が回避できると共に体の軸をぶれにくくさせ、足首、ふくらはぎ、膝、太もも、股関節、腰への負担軽減ができます。
使用時は前後の方に接触しないよう、気配りも必要です。

はあけぼの。や(よ)うや(よ)うしろくなり行く、山 ぎは(わ)すこしあかりて、むらさきだちたる雲のほそくたなびきたる。                                          《枕草子》  清少納言

口語訳 ⇒ 春は曙。しだいに空が白(しら)み、稜線に紫の雲がなびくのがよい。

日本の春といえば、お花見だろうと思います。                              全国各地の人気お花見スポットでは、の木のたもとに陣取り宴会をする人々でごった返す。 外国人観光客の増加に伴い、「春に日本を旅するならば見逃せないイベント」と認知されるようになっているようです。

ドンチャン騒ぎの無礼講のように思われがちな花見ですが、その昔は神聖な儀式であったようです。 歴史は遠く、はるか古代に遡る。

                                           日本人が田畑をはじめ自然と密接に関わって、ささやかに生きていたその時代。       山神として古代人に崇められていた「サ神」「サガミ様」が宿る「座(くら)こそがサクラであったとのことです。

 

サクラは、過酷な冬 が終わり暖かい季節と農作の開始を告げるものであり、五穀豊穣の象徴と思われていた。                                                人々は桜が咲くと、山神が降りてきたことに感謝を捧げ お供え物をし、その年の豊作を祈った。この儀式こそが、花見の起源だそうです。

その後、奈良時代に入ると、宮中や貴族の行事として、を愛でながら酒宴を開く現代の花見の原型がつくられていったようです。                           中国の影響が色濃かった背景もあり、好まれていたのは大陸伝来の梅であったが、これも平安時代に入ると桜に戻っていく。

                                           江戸時代には一般庶民にも花見の風習が広がり、江戸幕府は上野公園や隅田川など各地で桜の名所を整備し花見を奨励したが、大多数の庶民にとってはそれこそ高嶺の花だった。      それでも春の訪れを楽しもうと、長屋暮らしの人々も「貧乏神を祓うため」に、精一杯の宴を楽しむことがあったようです。                                       そんなエピソードがもとになったのか、いまでも「長屋の花見」という落語の演目があります。

貧しいながらユーモアたっぷりに花見をする江戸庶民の様子が活写されるが、その姿にはどこか格差が広がるばかりの現代社会が重なります。

      ※参考図書⇒ 彩図社「日本のしきたり」

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする