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GOLDWIN(ゴールドウイン) |
幕末期における近代製鉄技術導入への挑戦を物語る『韮山反射炉』。
寛永 16(1639)年から嘉永 6(1853)年のペリー黒船来航まで続いた❝鎖国❞ 長崎「出島」のオランダ人との貿易関係を除く他の外国人の日本渡航禁止による孤立状態。
この状況の中、天保 11(1840)年のアヘン戦争(清朝のアヘン禁輸措置からイギリスと清国[中国]との間に起った戦争。清国が敗北し、列強との不平等条約締結、中国の半植民地化となった。)を契機に、日本では列強諸国に対抗するための軍事力強化が大きな課題となり、唯一外国との交流のある長崎の出島より西欧の文物(蘭学)を取り入れ、薩摩や佐賀などの各藩では、西洋の先進的な技術の導入が積極的に行われるようになりました。
幕府においても、韮山代官「江川太郎左衛門英龍(ひでたつ)」を始めとする蘭学に通じた官僚たちにより、近代的な軍事技術や制度の導入が図られはじめた。 江川英龍は西洋砲術の導入、鉄製大砲の生産、西洋式築城術を用いた台場の設置、海軍の創設、西洋式の訓練を施した農兵制度の導入など、一連の海防政策を幕府に進言した。
このうち、鉄製大砲を鋳造するために必要とされたのが「反射炉」であった。
嘉永 6(1853)年、ペリー艦隊の 来航を受け、幕府もついに海防体制の抜本的な強化に乗り出さざるを得なくなった。 そこで以前から様々な進言をしてきた江川英龍を責任者として、反射炉と品川台場の築造が決定されたとのことであります。
なぜ『反射炉』と呼ばれるのか
反射炉は、17世紀から 18世紀にかけてヨーロッパで発達した金属を溶かして大砲などを鋳造するための溶解炉で、内部の天井がドーム状になった炉体部と、煉瓦積みの高い煙突からなる。
石炭などを燃料として発生させた熱や炎 を炉内の天井で反射し、一点に集中させることにより、銑鉄を溶かすことが可能な千数百度の高温を実現する。 この様な、熱や炎を反射する仕組みから、反射炉と呼ばれているのだそうです。
反射炉は、当初 伊豆下田港に近い賀茂郡本郷村(現 下田市)で着工し、基礎工事などが行われていた。しかし安政元年(1854)3月、下田に入港していたペリー 艦隊の水兵が敷地内に侵入する事件が起きたため、急きょ海岸から離れた韮山の地に建設地を変更することとなった。
下田での築造のために用意されていた煉瓦や石材は韮山に運ばれ、改めて利用された。 また、千数百度という高温に耐える良質の耐火煉瓦は、賀茂郡梨本村(現 河津町)で生産されていた。 韮山での反射炉築造は順調には進まず、江川英龍は、その完成を見ることなく安政 2年(1855)に世を去っている。 後を継いだ息子の英敏が築造を進め、安政 4年(1857)、連双 2基 4炉の反射炉本体とその周辺の関連施設からなる韮山反射炉を完成させた。
世界文化遺産
『明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼・造船・石炭産業』
明治日本の産業革命遺産は、西洋から非西洋への産業化の波及を顕し代表する日本国内 8エリア、23資産から構成されており、平成 27年(2015)7月、世界文化遺産に登録された。
19世紀の半ばから 20世紀の初頭にかけ、日本は工業立国土台を構築し、製鉄・製鋼・造船・石炭産業という重工業分野において、急速な産業化を成し遂げた。 産業化の歩みは、蘭書 片手に試行錯誤での鉄製大砲鋳造への挑戦や、洋式船 の模倣から始まった。 次に、西洋技術の導入が行われ、専門知識の習得を行った。 明治の後期には、国内で人材が育ち、積極的に導入した西洋の科学技術を国内に適合するよう改良を加え、産業経済の基盤を築いた。 このようにして、日本は非西洋諸国で初めて産業革命の波を受容し、50年余りという短期間に、植民地にならず自らの手で産業化を成し遂げた。
ガイドの土屋様から詳しく解説して頂きました。 鎖国中に師もなく蘭書片手に試行錯誤の鉄製大砲造り、韮山反射炉では 4基しか製造できなかったそうです。出来上がった大砲は品川のお台場まで船で運ばれました。
「萩の反射炉」と共に現存する反射炉としては、歴史に残る貴重な遺産となっています。 ここ韮山反射炉は、実際に稼働し、ほぼ完全な形で残る世界唯一の反射炉とのことです。