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何も考えずに、でも何かを求めて、鉄道の旅を続けています。今夜もmoonligh-expressが発車の時間を迎えます。

「戦争を知らないトンネルたち」弥彦の山を抜ける隧道式放水路

2022年04月29日 | 土木構造物・土木遺産


新潟平野は、何千年も前は海の中だった。6000年前頃から沖合にできた砂州がやがて新潟砂丘となり、信濃川・阿賀野川を日本を代表する二つの大河が水や土砂を砂州の内側に運び込んだことで形成された。先にも触れたとおり、ここには古くから水との戦いがあって、それは現在においても続いている。
砂丘に行く手を阻まれた川は、砂丘の開削は1700年代から行われ、北は地元の胎内川をはじめ、南は落水放水路(島崎川)まで17本の放水路が造られている。大河津分水や関屋分水もその中の一つだ。もちろん、西川や新川のように圃場整備とともに排水機だらけの土地でもある。
以前紹介した土木遺産の「円上寺隧道」は完成後100年を経過したが、大河津分水の工事と同時期にトンネルを掘って排水することをよくも考え付いたなっと思っていたら、まだまだあったんです隧道式の放水路が。
(写真上:新潟空港着陸前の飛行機から撮影した北蒲原地方。左手に日本海、砂丘があり、水田に張られた水がその地形を示す。もう一枚は、北陸地方整備局信濃川下流河川事務所の資料から、新潟の放水路銀座を示すもの。)



西蒲原には弥彦山・角田山という火山現象から生まれた山地が存在する。フォッサマグナの端の部分で、太古には海の中に浮かぶ感じだでそそり立つ。この山地の内側にできた西蒲原地域の排水は困難を極め、大河津分水や新川・西川の排水機場の完成後も、洪水を引き起こすことが度々。
円上寺の隧道もそうだが、この山を掘って排水するという計画は意外に最近の話である。トンネルの掘削技術の発達向上もあるのだろうが、この地には水と戦う強い意志を持った人多いということではないかと思う。
古い順から、樋曽山隧道(1939年、L=2300m)、新樋曽山隧道(1968年、L=3075m)、国上(くがみ)隧道(御新田放水路、1990年、L=3659m)、新々樋曽山隧道(1999年、L=3029m)、なんと矢川放水路にいたっては2005年(平成17年、L=4083m)に完成したばかり。樋曽山隧道以外は、「戦争を知らないトンネルたち」なのだ。
(写真上:新々樋曽山隧道を挟むように、樋曽山隧道、新樋曽山隧道の三本が並んで、弥彦山と角田山の間を貫通している。新樋曽山隧道の吞み口の上には竣工記念碑が立つ。)



弥彦・角田の産地に降り注ぐ雨は、西川の更に西を流れる「矢川」に集まる。矢川は西川の支流なのだが、大量の雨が降ると川床が高い西川にこの水が排水されるのは難しい。その末に隧道・トンネルによる方法で放水・排水することになったのだろう。
なお、新々樋曽山隧道は大通川の放水路として、新川と同じく西川を交差して排水しているし、国上隧道は御新田川の排水も担っている。このことから西蒲原の上郷(南部)全体の排水を担うことで、北部の下郷や新潟市西区の市街地を洪水から守っているのである。
開削による放水や排水機場のポンプアップによる排水設備は目にすることができるが、円上寺隧道をはじめ弥彦・角田を突き抜ける放水路はあまりに地味で一般には目に付きにくい。せめて矢川放水路は県道のすぐそばにあるので、弥彦詣で際には足を止めてみてほしい。
(写真上:弥彦山をバックに北に流れる矢川と矢川トンネル放水路の吞み口。写真下:県道2号線のすぐ脇のポケットパークには矢川放水路を説明する看板がある。一方は、国上山に向かって流れる国上隧道(御新田放水路)は、同じ県道の手前で暗渠状態になる。)


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