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何も考えずに、でも何かを求めて、鉄道の旅を続けています。今夜もmoonligh-expressが発車の時間を迎えます。

荒川放水路開削の歴史を語る「amoa」という資料館で

2023年03月14日 | 土木構造物・土木遺産


前回の岩淵水門をはじめ、江東デルタや荒川ロックゲートなどの関連施設を先に紹介してしまったが、あくまでも主役となるのは「荒川放水路」の掘削事業ということになる。
それまで荒川は、現・隅田川により東京湾に流れ出ていたが、人工の放水路を掘削して江戸・東京を守ろうというのが、これまで紹介してきた一連の記事の中でも最大のプロジェクト。1911年(明治44年)着工、1930年(昭和5年)完成、何と20年もの歳月を費やした。
隅田川(旧・荒川)の下流部沿川では、明治期に入って10回もの床上浸水を伴う洪水が発生し、特に明治43年の洪水は浅草、深川などの東京の下町を中心に甚大な被害を及ぼし、これがきっかけとなり荒川放水路の基本計画が策定されたという。



岩淵水門から隅田川の東へ放水路は開削され、延長は22キロ。工事期間中にも水害が発生するとともに、関東大震災(1923年・大正12年)もこの工事を難航させた。
ただ、開削面積も大きかったため、11平方キロメートルの土地買収と1300戸の移転が最も大変だったともいわれている。多くの方々の協力によりなし得た事業であり、おかげで安全が守られているとも言えるのである。
掘削・浚渫(しゅんせつ)、築堤という放水路の本体工事のほか、鉄道橋4橋、道路橋13橋、そのほかにも低地帯には以前紹介した閘門3か所や水門7か所が設置された(いずれも開削当時の数字)。



大事なことをまた後回しにしてしまったが、岩淵水門のある荒川と隅田川の分岐点には国土交通省の「荒川下流河川事務所」がある。荒川ロックゲートを含めて、荒川下流部の河川管理をする大役を担っている(写真最上段)。
そこに併設されているのが「荒川知水資料館・amoa」という荒川の歴史や役割を紹介する施設がある(写真最上段)。今回の記事は、ここamoaで収集したものを掲載しているといったところ。ぜひ一度訪ねていただきたい施設である。
そしてパワーアップしながら荒川放水路は、いよいよ来年開削100年を迎える。amoa管内にもカウントダウンの表示により、放水路の100歳の誕生日を祝い、移転住民や工事関係者を労う準備が進められている。
(写真と記事がバラバラに掲載されていることをお詫びする。amoa周辺・外観と内部の展示類を掲載する。下の写真は屋外に展示されている堀越閘門の頭頂部と、内部に掲げられている開削100周年カウントダウンの表示。)




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