実はもう少し話をしておきたいことがあったのです。まー諸事情によりそれは不可能となりましたが(笑)。せめてこのblogに話したかったことを書いておきます。卒業生と保護者の目に届くと良いなと思います。
実はこの卒業生の中に兄弟でうちの陸上競技部に入ってくれた子がいます。ちょうど入れ替わりとなりましたが。姉は400mHの選手。これも県を代表する選手でした。弟はその影響を受け(入れと言われた?)うちの部に入ってくれました。「うちの部を選んで入ってくれた」という部分があるのでこれは本当に幸せなことだと思います。
で、この姉の話をしたいと思っていたのです。姉の話だけではなく当時の話なんですが。先ほどの「死」という部分とも重なる部分があるのですが。この姉は2年生で県総体を制しました。圧倒的な力でした。3年生の春先にはうちの400mのエースとほぼ互角。どちらが強いか分からないというレベルまで来ていました。かなりの確率で「県記録更新」という競技力。が、支部大会の1週間前に4継の練習中に肉離れをしてしまいました。これも「圧倒的なスピード」に耐えられなかったという感じでした。とにかくすごいスピードが出ていたのです。
1週間後の支部大会。出場する必要性は0。県総体への出場権は得ています。無理をする必要はない。が、「どうしても走りたい」と本人が言います。何度も何度も「走る必要はない」と言ったのですが「インターハイに行くために走っておきたい」と懇願していました。ここで私が「絶対に出さない」と決めて強い態度で本人を納得させれば良かったのですが結局走ることに。本当に軽度の肉離れだったので問題ない状態でした。それでも「万全を期す」ために休ませればよかった。
その故障により少しバランスが崩れました。痛めた足の反対側の足首が痛くなったのです。これが大きく走りに影響する痛み。とにかくできることは全てやりました。治療という治療は全てやり、師匠に頼んで治療してもらったり。「良い」という場所には全ていく。それでもなかなか改善されません。県総体はなんとか通過。走れさえすればインターハイに届くと信じていました。中国大会に行くバスの中でも師匠に治療してもらいながら移動。奇跡的に当日の朝、痛みが全くない状態まで戻りました。走っていてもすごいスピードが出る。本人も「行ける」と確信したようですが、直前の走りで再び足を痛める。とても走れる状況ではありませんでした。それでもレースには出場。持っている力を出すことなくインターハイへの道は閉ざされました。
更にマイル。この子が走っていれば・・・という部分がありました。それを本人が感じている。レースが終わり7位となった瞬間、立つことができない状態で泣き崩れていました。なんと声を書けたら良いのかも分からない状態。とてもかける言葉がありませんでした。「自分が走っていたら・・・」と言葉にならない声で泣いています。この時ほど自分が情けないと感じたことはなかったですね。だからと言って何ができるのか・・・。完全に放心状態でした。
「インターハイに行く」という「夢」はその場で終わっていました。が、本人たちは「どこに向かっていけばいいのか分からない」状態でした。インターハイだけを見てきた。そのエネルギーを向ける場所が分からないのです。「死に場所を探そう」という話をした記憶があります。「やり切れない想い」をぶつける場所を探す。それが中国選手権でした。中国選手権で賞状をもらう。上手くいけばリレー選手権で全国に行ける。これがモチベーションとなりもう一度動き始めることができました。「突然やってきた出来事」により「時間」が止まったままになっていた選手たちも少しずつ前に進めるようになりました。中国選手権3位。しかし、これでも「不完全燃焼」でした。
結局、秋まで続け県体でトラック総合優勝。200m、400m、400mH、4継、マイルで優勝。少ない人数ながら圧倒的な勝利でした。本当に素晴らしい選手たちでした。しかし、結局は「不完全燃焼」で終わった感じが本人たちにありました。この子たちにとって「中国選手権」も「県体優勝」も「インターハイ」の代わりにはならなかったのです。当然と言えば当然。3年間の全てを「インターハイ」に向けていたのです。どんなことをしても「インターハイに届かなかった」という「現実」は変わることはない。記録を出してもそれが「代わり」にはならないのです。
もちろん、その取り組みの中で獲たものは大きなものです。「勝つ」ことだけを目標にやってきたわけではありません。しかし、「結果」を追い求めていたという事実はあります。「結果」を求めていたからこそここまで必死になれた。「届かなかったけど仕方ない」という気持ちは一切ないと思います。何をやっても「インターハイの代わりにはならない」のです。もちろん、高校を卒業したら他の部分で「代わり」は見つかるかもしれませんし、見つけなければいけません。しかし、高校時代に目指した「インターハイ」は他の何を持っても「代わり」にはならない。そ
これから先、「夢」や「目標」を持つと思います。その「夢」や「目標」を必死に追い続けてほしい。達成できない可能性だってあるのです。しかし、その「夢」に進む中で自分自身が大きく変わる。成長する。その目標には届かないかもしれない。もちろん、その「代わり」になるものなんてない。だから必死に持っている力を使ってその「夢」をつかむ。インターハイは高校時代の3回しかチャンスはありません。しかし、それ以外のことは何度かチャンスがある。「代わり」になるものを探すのではなく「なんとしても達成するのだ」という気持ちを持つことが大事なのです。最初から「代わり」を探すのではない。あと時の選手たちが「代わり」を追い求めていたが結局何をやっても「インターハイ」の「代わり」にはならないのです。諦めない限り「夢」に向かい続けることができる。
繰り返しになりますが「インターハイ」は3回しかチャンスがありません。2年生は次のチャンスが最後。「インターハイ」の「代わり」になるものはない。それが分かれば毎日を大切にできる。卒業していく卒業生は社会人となり新たな「夢」や「目標」を設定してほしい。それが生きていくエネルギーとなる。社会人の「夢」や「目標」は3回のチャンスではないはずです。だからこそ「代わり」を探さず真っ直ぐに目指して欲しい。そう思います。
また分かりにくい内容ですね。話さなくてよかったかもしれません(笑)。前の日に姉に「最後の晴れ舞台だから見に来るの?」と聞いたら「仕事です」と一蹴されました。本当はこの子の前でこういう話ができたらいなと思う部分もあったので(笑)。まー卒業して3年経過していますから「インターハイに行けなかった」話をこの子にしても意味はないのかもしれませんが、弟や保護者には感じてもらえる部分があったかなと思います。自己満足かもしれないんですけどね。
「ドライになる」という「目標」があるのですが全く駄目ですね。完全に「ウエット」のまま。感情移入してしまいます。これが「私」なのかもしれません。この話は卒業生にも在校生にも聞かせたかった。まー長くなるので絶対に無理だと思いますが(笑)。
意味の分からない文章をダラダラとすみません。結局、自己満足の文章しか書けないですね・・・・。
実はこの卒業生の中に兄弟でうちの陸上競技部に入ってくれた子がいます。ちょうど入れ替わりとなりましたが。姉は400mHの選手。これも県を代表する選手でした。弟はその影響を受け(入れと言われた?)うちの部に入ってくれました。「うちの部を選んで入ってくれた」という部分があるのでこれは本当に幸せなことだと思います。
で、この姉の話をしたいと思っていたのです。姉の話だけではなく当時の話なんですが。先ほどの「死」という部分とも重なる部分があるのですが。この姉は2年生で県総体を制しました。圧倒的な力でした。3年生の春先にはうちの400mのエースとほぼ互角。どちらが強いか分からないというレベルまで来ていました。かなりの確率で「県記録更新」という競技力。が、支部大会の1週間前に4継の練習中に肉離れをしてしまいました。これも「圧倒的なスピード」に耐えられなかったという感じでした。とにかくすごいスピードが出ていたのです。
1週間後の支部大会。出場する必要性は0。県総体への出場権は得ています。無理をする必要はない。が、「どうしても走りたい」と本人が言います。何度も何度も「走る必要はない」と言ったのですが「インターハイに行くために走っておきたい」と懇願していました。ここで私が「絶対に出さない」と決めて強い態度で本人を納得させれば良かったのですが結局走ることに。本当に軽度の肉離れだったので問題ない状態でした。それでも「万全を期す」ために休ませればよかった。
その故障により少しバランスが崩れました。痛めた足の反対側の足首が痛くなったのです。これが大きく走りに影響する痛み。とにかくできることは全てやりました。治療という治療は全てやり、師匠に頼んで治療してもらったり。「良い」という場所には全ていく。それでもなかなか改善されません。県総体はなんとか通過。走れさえすればインターハイに届くと信じていました。中国大会に行くバスの中でも師匠に治療してもらいながら移動。奇跡的に当日の朝、痛みが全くない状態まで戻りました。走っていてもすごいスピードが出る。本人も「行ける」と確信したようですが、直前の走りで再び足を痛める。とても走れる状況ではありませんでした。それでもレースには出場。持っている力を出すことなくインターハイへの道は閉ざされました。
更にマイル。この子が走っていれば・・・という部分がありました。それを本人が感じている。レースが終わり7位となった瞬間、立つことができない状態で泣き崩れていました。なんと声を書けたら良いのかも分からない状態。とてもかける言葉がありませんでした。「自分が走っていたら・・・」と言葉にならない声で泣いています。この時ほど自分が情けないと感じたことはなかったですね。だからと言って何ができるのか・・・。完全に放心状態でした。
「インターハイに行く」という「夢」はその場で終わっていました。が、本人たちは「どこに向かっていけばいいのか分からない」状態でした。インターハイだけを見てきた。そのエネルギーを向ける場所が分からないのです。「死に場所を探そう」という話をした記憶があります。「やり切れない想い」をぶつける場所を探す。それが中国選手権でした。中国選手権で賞状をもらう。上手くいけばリレー選手権で全国に行ける。これがモチベーションとなりもう一度動き始めることができました。「突然やってきた出来事」により「時間」が止まったままになっていた選手たちも少しずつ前に進めるようになりました。中国選手権3位。しかし、これでも「不完全燃焼」でした。
結局、秋まで続け県体でトラック総合優勝。200m、400m、400mH、4継、マイルで優勝。少ない人数ながら圧倒的な勝利でした。本当に素晴らしい選手たちでした。しかし、結局は「不完全燃焼」で終わった感じが本人たちにありました。この子たちにとって「中国選手権」も「県体優勝」も「インターハイ」の代わりにはならなかったのです。当然と言えば当然。3年間の全てを「インターハイ」に向けていたのです。どんなことをしても「インターハイに届かなかった」という「現実」は変わることはない。記録を出してもそれが「代わり」にはならないのです。
もちろん、その取り組みの中で獲たものは大きなものです。「勝つ」ことだけを目標にやってきたわけではありません。しかし、「結果」を追い求めていたという事実はあります。「結果」を求めていたからこそここまで必死になれた。「届かなかったけど仕方ない」という気持ちは一切ないと思います。何をやっても「インターハイの代わりにはならない」のです。もちろん、高校を卒業したら他の部分で「代わり」は見つかるかもしれませんし、見つけなければいけません。しかし、高校時代に目指した「インターハイ」は他の何を持っても「代わり」にはならない。そ
これから先、「夢」や「目標」を持つと思います。その「夢」や「目標」を必死に追い続けてほしい。達成できない可能性だってあるのです。しかし、その「夢」に進む中で自分自身が大きく変わる。成長する。その目標には届かないかもしれない。もちろん、その「代わり」になるものなんてない。だから必死に持っている力を使ってその「夢」をつかむ。インターハイは高校時代の3回しかチャンスはありません。しかし、それ以外のことは何度かチャンスがある。「代わり」になるものを探すのではなく「なんとしても達成するのだ」という気持ちを持つことが大事なのです。最初から「代わり」を探すのではない。あと時の選手たちが「代わり」を追い求めていたが結局何をやっても「インターハイ」の「代わり」にはならないのです。諦めない限り「夢」に向かい続けることができる。
繰り返しになりますが「インターハイ」は3回しかチャンスがありません。2年生は次のチャンスが最後。「インターハイ」の「代わり」になるものはない。それが分かれば毎日を大切にできる。卒業していく卒業生は社会人となり新たな「夢」や「目標」を設定してほしい。それが生きていくエネルギーとなる。社会人の「夢」や「目標」は3回のチャンスではないはずです。だからこそ「代わり」を探さず真っ直ぐに目指して欲しい。そう思います。
また分かりにくい内容ですね。話さなくてよかったかもしれません(笑)。前の日に姉に「最後の晴れ舞台だから見に来るの?」と聞いたら「仕事です」と一蹴されました。本当はこの子の前でこういう話ができたらいなと思う部分もあったので(笑)。まー卒業して3年経過していますから「インターハイに行けなかった」話をこの子にしても意味はないのかもしれませんが、弟や保護者には感じてもらえる部分があったかなと思います。自己満足かもしれないんですけどね。
「ドライになる」という「目標」があるのですが全く駄目ですね。完全に「ウエット」のまま。感情移入してしまいます。これが「私」なのかもしれません。この話は卒業生にも在校生にも聞かせたかった。まー長くなるので絶対に無理だと思いますが(笑)。
意味の分からない文章をダラダラとすみません。結局、自己満足の文章しか書けないですね・・・・。