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kanekoの陸上日記

毎日更新予定の陸上日記です。陸上競技の指導で感じたことやkanekoが考えていることなどをひたすら書きます。

想うこと

2014-03-12 | 陸上競技
3月11日。この日は日本にとって決して忘れられない日です。今現在も避難生活を強いられている人が多数。一瞬の出来事で多くの命が失われました。それだけではなく「生きている人たち」にも大きな傷跡を残している。復旧のめどは3年たってもまだまだ・・・。その中で何ができるのだろうか??

そう考えていたらyahooニュースに「北野武」さんが震災直後にコメントした内容が再アップされていたのでその記事を少しだけ紹介したいと思います。


NEWS ポストセブン 3月11日(火)7時6分配信

~略~

常々オイラは考えてるんだけど、こういう大変な時に一番大事なのは「想像力」じゃないかって思う。今回の震災の死者は1万人、もしかしたら2万人を超えてしまうかもしれない。テレビや新聞でも、見出しになるのは死者と行方不明者の数ばっかりだ。だけど、この震災を「2万人が死んだ一つの事件」と考えると、被害者のことをまったく理解できないんだよ。

 じゃあ、8万人以上が死んだ中国の四川大地震と比べたらマシだったのか、そんな風に数字でしか考えられなくなっちまう。それは死者への冒涜だよ。

 人の命は、2万分の1でも8万分の1でもない。そうじゃなくて、そこには「1人が死んだ事件が2万件あった」ってことなんだよ。

 本来「悲しみ」っていうのはすごく個人的なものだからね。被災地のインタビューを見たって、みんな最初に口をついて出てくるのは「妻が」「子供が」だろ。

 一個人にとっては、他人が何万人も死ぬことよりも、自分の子供や身内が一人死ぬことのほうがずっと辛いし、深い傷になる。残酷な言い方をすれば、自分の大事な人が生きていれば、10万人死んでも100万人死んでもいいと思ってしまうのが人間なんだよ。

 そう考えれば、震災被害の本当の「重み」がわかると思う。2万通りの死に、それぞれ身を引き裂かれる思いを感じている人たちがいて、その悲しみに今も耐えてるんだから。

 だから、日本中が重苦しい雰囲気になってしまうのも仕方がないよな。その地震の揺れの大きさと被害も相まって、日本の多くの人たちが現在進行形で身の危険を感じているわけでね。その悲しみと恐怖の「実感」が全国を覆っているんだからさ。

 逆に言えば、それは普段日本人がいかに「死」を見て見ぬふりしてきたかという証拠だよ。海の向こうで内戦やテロが起こってどんなに人が死んだって、国内で毎年3万人の自殺者が出ていたって、ほとんどの人は深く考えもしないし、悲しまなかった。「当事者」になって死と恐怖を実感して初めて、心からその重さがわかるんだよ。

 それにしても、今回の地震はショックだったね。こんな不安感の中で、普段通り生きるってのは大変なことだよ。原発もどうなるかわからないし、政府も何考えてるんだかって体たらくだしさ。政治家や官僚に言いたいことは山ほどあるけど、それは次回に置いとくよ。まァとにかく、こんな状況の中で、平常心でいるのは難しい。これを読んでる人たちの中にも、なかなか日頃の仕事が手につかないって人は多いと思うぜ。

 それでも、オイラたちは毎日やるべきことを淡々とこなすしかないんだよ。もう、それしかない。

 人はいずれ死ぬんだ。それが長いか、短いかでしかない。どんなに長く生きたいと思ったって、そうは生きられやしないんだ。「あきらめ」とか「覚悟」とまでは言わないけど、それを受け入れると、何かが変わっていく気がするんだよ。

~略~

「死」について考える。我々が住んでいる県では大きな地震を経験していません。時間がたつにつれて少しずつ当時の悲惨さも薄れていく。24時間365日、私たちが「なんて辛いことがあったんだ」と考え続けることは不可能です。「死」を迎えた人たちのことを悲しみ続けることはできない。多くの人の「死」があったから我々は生きてはいけないのか?それは違うと思います。我々には我々の「生」が存在する。そこから目をそむけてはいけない。そう思っています。

一人の「死」の周りには何百もの「悲しみ」が生まれる。それがどのような形で迎えた「死」であってもです。この震災では多くの人の命が失われそれに伴って日本中に「悲しみ」が生まれた。それが日本中を包み込み、「喜んではいけない」「笑ってはいけない」という風潮があった。それは違うと思う。自分たちにできることはいつまでも「悲しみ」に包まれていることではない。自分の「生きる道」を進むことです。

人をだまして生きる。不正行為を続けながら生きる。それも「生」です。しかし、それが本当に良いことなのか?生きているからには自分の人生を一生懸命に生きる必要があると思います。若い年代は「死」について考えることはたぶんないと思います。ずっとずっと生き続ける。だから「時間」を適当に使ってもいいと感じる。いや、正確にはそんなに先のことまで考えて生きていないと思います。本当は終わりが来るのにそこに目を向けずに生きている。高校生にそのような考え方を身に付けるなんてことは不可能かもしれません。「楽しい時間が永遠に続く」という感覚でしょうから。それでもことあるごとにそういう話はしていかなければいけないと思っています。いつか「終わり」が来るのだから。

他者の「死」に触れることで考えることが増えます。これも「感覚」ですが。

上手く書けません。すみません。

コメント
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