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kanekoの陸上日記

毎日更新予定の陸上日記です。陸上競技の指導で感じたことやkanekoが考えていることなどをひたすら書きます。

生きることの意味

2018-07-01 | 陸上競技
今、呼吸をしている。心臓が動いている。自分の意志で身体を動かし、やりたいと思ったことをやらせてもらっている。何気なく生活をしている時にはそれは「自然なこと」であり、特別何かを意識して「生きている」ということを感じることはない。「生きる」事を常に意識して呼吸をしている人がこの世にどれだけいるのだろうか。

今こうやってblogを書いている。自分が感じたことを記しておきたいと思っている。自分自身が考えをまとめるためにもこうやって何かに記しておきたいと思う。すでにblogを書き始めて4752日が経過している。13年経過していることになる。かなりの時間だと思う。毎日、何かしら感じることがあってそれをダラダラ書き続けているだけだが。何かを感じる。何かを想う。それは生きているからできること。どうでもいいと思われることをこうやってblogに書き続けることができるのは「生きている」からだという事実。目を背けているつもりはない。何気なく生活をしている中で「生」を感じる瞬間というのは綺麗事ではなくそれほど多くない。

自分よりも若い人が「死」に直面する。その中で感じること、思うことは私が想像するよりももっと深くて意味深いものになる。人は必ず「死」を迎える。絶対に避けられない事実。それが1週間後なのか、1年後なのか、10年後なのか。それは分からない。「生きている時間を最大限に使う」と言ってそれはいつ終わりを迎えるのか分からない。事実を突きつけられた時、人は何を想うのだろうか。今の私はまだ「なんとなく生かされている」という感じでしかないと思う。何か遺せるわけでもない。

何気なく生活をしていたら「生」は当たり前のように存在し、「死」はどこか遠くでおきている出来事でしかない。軽い人間だと思われるかもしれない。しかし、それは多くの人にとってありえることだと思う。特別「死」を意識して生活を送るのではなくなんとなく生きているという感覚でしかない。後先を考えない軽はずみな行動が目立つのはやはり「真剣に考えられない」という部分が多くあるのだと思う。

「死」に関して本当に考えさせられる出来事があった。細かいことは書けませんが。若くして「死」が隣にいる事を伝えられそれを感じながら生き続ける。最後まで強く生きたと聞いています。私が考えるよりももっともっと辛い出来事があったはずです。それでも前向きに生き続けた。少しでも多くの資格を取ろうと病床で勉強をし続けていたと。病と向き合いながら何を考えていたのか。

何も知らずに生活をしていた。その人が様々な苦しさと向き合っている中で私は「年長者」として本当に手本になる生き方をしてこれただろうか。一緒に過ごした時には一方的に伝えることが多かったのではないかと思う。会ってはいない時期に濃縮された多くのことを学んだに違いない。できれば話をしたかった。私の方が学ばせてもらうことが多くあったのではないかと感じる。

今私にできることは何か。これは10年前も今も変わらないと思う。目の前の子供達のためにできることを最大限にやる。それ以上でもそれ以下でもない。誰かの手本になるという生き方はできない。が、自分のためだけに生きるという生き方は私の生き方とは違うと思う。周りから何を言われようと信念を持って生きたい。それが教え子達に示せる唯一の存在価値だと思う。

うまく書けない。きっとうまく書く必要はないのだと思う。教え子達に恥じない生き方をしたい。完璧な生き方はない。失敗の方が多い。それでも私がやるべきことをやり続けたい。見守ってもらいたい。私にできることをやり続けることがその証明になると信じて。
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