先日からひたすら本を読んでいるとblogに書いている。ありがたいことにtnk先生が「好みであろう本」を見繕って貸してくれる。絶妙に私の好みを把握している(笑)。今は本を読むために仕事に集中して可能な限り早く処理して自分の時間を作っている。「やる気」になっているときの集中力は自分でも驚くくらい(笑)。
今回は「論語」から。「論語」に出てくる言葉を漫画の中で紹介している。単純に漫画仕立てというのではなく孔子が「魯」を出て13年後に再び戻ってくるまでの概要が書かれている。歴史にさほど興味がない私は「論語」に関しては知っているがその背景に関してはほとんど知らない。いや、これは非常に面白い。
簡単に話すと「理想」と「現実」のギャップがあるというのが事実。「仁」によって国を治めようとする。それが孔子の「理想」で人として生きていくために最優先すべきはやはり「仁」で教育の力で国民に「仁」を理解させそれをもとに統治をしていく。それが国の安泰につながっていく。「武力」による統治は最も避けるべきである。「武力」による統治はさらなる争いを生み出す。
が、「理想」を掲げて国を出た孔子はどこの国でも「士官」されない。志高く「仁」による統治を掲げるのだが治世者にはそれを受け入れられない。孔子が言うように国を治めていくことができれば安泰だとは思う。しかし、「現実」はそれほど簡単なものではない。「理想」が高すぎてその考えをもとに「統治」をしようとするのは難しい。誰かに仕えて国政を司るという部分を目指すがなかなか受け入れられない。
こういう部分は何となく感じていたが、実際のその背景を見てみると孔子自身はかなり「生きづらい」人生を歩んでいたのだろうと思う。「理想」があり、それに向けて進む。「仁」の修養をめざし、「君子」になる道を進み続ける。その意に沿わない場合は妥協しない。そうなると「あいまいさ」が明らかに不足する。人付き合いというのはやはり「微妙なさじ加減」というのも必要になる。それが「こうでなければいけない」と型が決まっているのだからしんどい。
周りの人もよくそれに従って行動できたなと思う。「学ぶ」ことを最優先事項にする。それ以外は「認めない」というスタンスで進んでいく。もちろん。多くの門下生が国政に携わり結果を残しているのだが「孔子」のガチガチの思想とはやはり違う部分もある。
「論語」は目指す場所を明確にしてそこに進むための指針となる。が、いつの間にかそれが中心になってしまうことで「生きづらくなる」可能性はある。「こうでなければいけない」という型から外れてしまうと「愚かだ」という形になる。人は物欲もあれば私欲もある。その欲を持ってしまえばやはり「仁」から遠ざかる。学ぶことは多い「論語」の言葉。今回本を読むことでその「背景」を知り、「理想」を高く掲げすぎることで「現実」から離れてしまう「危うさ」を抱えていることを感じる。
今まで自分が感じていた「生きづらさ」はこういう部分にあるのだろうなと思う。自分自身も「こうでなければいけない」という考えの中で生活し他者にも「こうでなければいけない」というのを求める。目を通す本が偏っていたのもあると思うがもともと「幅のない生き方」をしている。自分で言うなという話ですが。
「理想」はあくまで「理想」。それに向かう必要性はある。が、それだけでは生きていけない。前の記事にも書いたが「お金のために働いているのではない」という「理想」がある中で「お金」がなければ生きていけないという「現実」がある。「武士は食わねど高楊枝」では生きていけないのである。自己犠牲をして世のため人のために働くことが「仁」だとしてもそれだけでは生活が成り立たない。
見返りを求めない「無償の愛情」というのが存在する。それはそれだと思う。だからといって「ずべ手の部分で見返りを求めない」というのでは「理想論」にしかならない。美徳とされる部分。私自身大切にしていきたいと思うがそれだけではない。「義」に関してはやはり大切。お世話になっている方に恩返しをするという考え方は持ち続けている。「仁」の感覚も持ち続けたい。
自分の中で多くのことを感じる。それが正解かどうかはわからない。それでもそういう感覚が足りなかったなと。大切にしたいものは大切にしつつも自分自身の「価値観」だけで物事を考えない。絶対的に正しいものなんて存在しないのだから。表面的なものだけを追わずもう少しいろいろ学びたいなと改めて思った。
日々勉強(笑)。真面目か!?(笑)。
今回は「論語」から。「論語」に出てくる言葉を漫画の中で紹介している。単純に漫画仕立てというのではなく孔子が「魯」を出て13年後に再び戻ってくるまでの概要が書かれている。歴史にさほど興味がない私は「論語」に関しては知っているがその背景に関してはほとんど知らない。いや、これは非常に面白い。
簡単に話すと「理想」と「現実」のギャップがあるというのが事実。「仁」によって国を治めようとする。それが孔子の「理想」で人として生きていくために最優先すべきはやはり「仁」で教育の力で国民に「仁」を理解させそれをもとに統治をしていく。それが国の安泰につながっていく。「武力」による統治は最も避けるべきである。「武力」による統治はさらなる争いを生み出す。
が、「理想」を掲げて国を出た孔子はどこの国でも「士官」されない。志高く「仁」による統治を掲げるのだが治世者にはそれを受け入れられない。孔子が言うように国を治めていくことができれば安泰だとは思う。しかし、「現実」はそれほど簡単なものではない。「理想」が高すぎてその考えをもとに「統治」をしようとするのは難しい。誰かに仕えて国政を司るという部分を目指すがなかなか受け入れられない。
こういう部分は何となく感じていたが、実際のその背景を見てみると孔子自身はかなり「生きづらい」人生を歩んでいたのだろうと思う。「理想」があり、それに向けて進む。「仁」の修養をめざし、「君子」になる道を進み続ける。その意に沿わない場合は妥協しない。そうなると「あいまいさ」が明らかに不足する。人付き合いというのはやはり「微妙なさじ加減」というのも必要になる。それが「こうでなければいけない」と型が決まっているのだからしんどい。
周りの人もよくそれに従って行動できたなと思う。「学ぶ」ことを最優先事項にする。それ以外は「認めない」というスタンスで進んでいく。もちろん。多くの門下生が国政に携わり結果を残しているのだが「孔子」のガチガチの思想とはやはり違う部分もある。
「論語」は目指す場所を明確にしてそこに進むための指針となる。が、いつの間にかそれが中心になってしまうことで「生きづらくなる」可能性はある。「こうでなければいけない」という型から外れてしまうと「愚かだ」という形になる。人は物欲もあれば私欲もある。その欲を持ってしまえばやはり「仁」から遠ざかる。学ぶことは多い「論語」の言葉。今回本を読むことでその「背景」を知り、「理想」を高く掲げすぎることで「現実」から離れてしまう「危うさ」を抱えていることを感じる。
今まで自分が感じていた「生きづらさ」はこういう部分にあるのだろうなと思う。自分自身も「こうでなければいけない」という考えの中で生活し他者にも「こうでなければいけない」というのを求める。目を通す本が偏っていたのもあると思うがもともと「幅のない生き方」をしている。自分で言うなという話ですが。
「理想」はあくまで「理想」。それに向かう必要性はある。が、それだけでは生きていけない。前の記事にも書いたが「お金のために働いているのではない」という「理想」がある中で「お金」がなければ生きていけないという「現実」がある。「武士は食わねど高楊枝」では生きていけないのである。自己犠牲をして世のため人のために働くことが「仁」だとしてもそれだけでは生活が成り立たない。
見返りを求めない「無償の愛情」というのが存在する。それはそれだと思う。だからといって「ずべ手の部分で見返りを求めない」というのでは「理想論」にしかならない。美徳とされる部分。私自身大切にしていきたいと思うがそれだけではない。「義」に関してはやはり大切。お世話になっている方に恩返しをするという考え方は持ち続けている。「仁」の感覚も持ち続けたい。
自分の中で多くのことを感じる。それが正解かどうかはわからない。それでもそういう感覚が足りなかったなと。大切にしたいものは大切にしつつも自分自身の「価値観」だけで物事を考えない。絶対的に正しいものなんて存在しないのだから。表面的なものだけを追わずもう少しいろいろ学びたいなと改めて思った。
日々勉強(笑)。真面目か!?(笑)。