記録として。
以前のように私が主になって組織作りをするのをやめようと思っています。そこに意味があると感じないからです。「やりたい」と思えばやればいいし、「やりたくない」と思えばやらなければいい。そこだけかなと感じています。また、「競技力を高めたい」と思って所属するのか、「何となく入っているのか」でもそこにある「目的意識」が大きく異なります。「競技力を高めたい」と思って「やりたい」者に練習と場所を提供する立場で向き合いたい。
これも何度か書いています。「青春ごっこ」はしたくないなと思っています。「何のためにやるのか」という部分が明確ではないのであればやる必要はない。先日、3年生が「引退する」と申し出た。これは「県総体」「中国大会」「インターハイ」がなくなったため「目指すものがなくなった」のです。必死に目指してきたものが完全に失われたときに「何のためにやるのか」という部分が大きくなったのだと思います。「みんながやっているからやる」というレベルであればそういう考え方にはなりません。
世の中では「3年生のための大会」というものが開催されつつあります。7月下旬や8月に「3年生が引退するための大会」を開く。素晴らしいですね。「こんなに頑張ってきたのだから最後に競技する場所を与えてあげよう」という「子供たちのため」を思った発案。
が、本当に3年生がそれを望んでいるのでしょうか。大学に進んで競技をするという選手であれば大きな意味があると思います。継続するための足掛かりです。が、「高校で競技をやめる」という選手にとって「8月」に競技会をやるという意味がどれだけあるか。進路に向けての「準備」が本格的に始まっている。それなのに「3年生のための大会」と謳って試合をする。「感動的」だと思われるかもしれませんが、本当に子どもたちがそれを望んでいるのかどうか。疑問が残ります。
1・2年生が試合がないので「3年生のための大会」を実施してそれに参加するという考えの人はいないか。「子供たちのことを考えています」というのを前面に出してアピールすることに使っていないか。本当に求められていて子供たちから「ぜひとも代わりの試合を開催してほしい」という思いがあったのか。多くの3年生はすでに引退しています。続けていない者が多い。そのなかで「3年生のための大会」と銘打って開催する意味は??
そう考えると「競技会に出る」ことに意味があるのかどうかです。そこに向けて様々な準備をしてきて最大のパフォーマンスを発揮する。相手がいてその選手に勝ちたいと思って走る。負けたくないから「最大限の努力をする」という意識になる。そこがなければ「単純に体を動かすだけ」になってしまうのではないか。強くそう思っています。
そうであれば「普段の練習」も同じではないか。「速くなりたい」「成長したい」「負けたくない」と思って取り組むから意味がある。単純に参加して何となく時間を過ごすことに意味があるのかどうか。みんながいるから練習に参加して嫌だけど身体を動かす。別に成長する必要はないけど「保護者」が続けろと言っているからやっている。そうであれば「もっと幸せな生き方」があると思います。やりたいくないことを他の人から強制されて続けることに意味はない。
「ブラック部活」のような言い方をされますが「やりたいくない」と思っているのであれば「そこまでしてやる必要はない」と思っています。クラスでは「自ら命を絶つくらいなら学校に来る必要はない」と言っています。攻める話ではない。「やりたくない」と思うならそこまでしてやる必要はないのです。もちろん、「やりたくてもできない」という部分もあると思います。色々な角度から物事を考えていく必要はある。一方向からだけではない。
先日からの「練習中の様子」に関して指摘しました。変化がない。やろうとしない。それなのに集団に属して活動をする意味がるのか。「中学時代にやっていたから」とか「せっかく入ったのだから最後までやる」というのは違うのではないかなと。
「やることに意味がある」と考える人もいると思います。が、「嫌なのにやる」とか「目的なくやる」ことを強制する必要があるのか。何を生み出すのか。それは「指導者のエゴ」だと思うし。「最後まで続けることは素晴らしい」という間違った価値観を植え付けられていないか。「嫌だけどやる」ということは「美学」でもなんでもない。
「嫌々やる」とか「やらされている」のであればもっと「有効な時間の使い方」がある。「放課後、部活動をしていなければ問題行動につながる」という部分も以前はあったと思います。しかし、このご時世「お世話をするために部活動をやる」というのは違うのではないか。「部活動をさせていないと生活リズムが崩れる」というのを全て顧問が引き受けるというのも違うのではないか。強くそう思っています。
月曜日。練習に関して、すべてに関して私は何も言わず。「話すことが必要だ」と感じたようなのでそちらをさせました。ある集団は練習をする。そこに3年生がサポートをする。それでいいのかなと。「変化する気がない」状況では何を与えても変化はしません。当然のことだと思います。
「変わろうとしているけど変われない」ことと「変わろうとしていない」ことは同じ「変わらない」ことであっても「意味」が全く違います。そうであれば「選択」する必要がある。何でもかんでも同じではない。そこは考えてもらいたい。
色々なことがあります。真剣であること。そこがベースになる。幸い、複数の者が「真剣だからこそ生まれる葛藤」を抱えています。「温度差」も感じながらやっていく。それでも必ずいい方向に進む。もちろん何でもかんでも「許す」というスタンスではありません。そこだけは譲れません。
堅苦しい内容です。が、これまでとは大きく違います。こちらの「生きる権利」も大切にしたいと思っています。まとまりませんが。
以前のように私が主になって組織作りをするのをやめようと思っています。そこに意味があると感じないからです。「やりたい」と思えばやればいいし、「やりたくない」と思えばやらなければいい。そこだけかなと感じています。また、「競技力を高めたい」と思って所属するのか、「何となく入っているのか」でもそこにある「目的意識」が大きく異なります。「競技力を高めたい」と思って「やりたい」者に練習と場所を提供する立場で向き合いたい。
これも何度か書いています。「青春ごっこ」はしたくないなと思っています。「何のためにやるのか」という部分が明確ではないのであればやる必要はない。先日、3年生が「引退する」と申し出た。これは「県総体」「中国大会」「インターハイ」がなくなったため「目指すものがなくなった」のです。必死に目指してきたものが完全に失われたときに「何のためにやるのか」という部分が大きくなったのだと思います。「みんながやっているからやる」というレベルであればそういう考え方にはなりません。
世の中では「3年生のための大会」というものが開催されつつあります。7月下旬や8月に「3年生が引退するための大会」を開く。素晴らしいですね。「こんなに頑張ってきたのだから最後に競技する場所を与えてあげよう」という「子供たちのため」を思った発案。
が、本当に3年生がそれを望んでいるのでしょうか。大学に進んで競技をするという選手であれば大きな意味があると思います。継続するための足掛かりです。が、「高校で競技をやめる」という選手にとって「8月」に競技会をやるという意味がどれだけあるか。進路に向けての「準備」が本格的に始まっている。それなのに「3年生のための大会」と謳って試合をする。「感動的」だと思われるかもしれませんが、本当に子どもたちがそれを望んでいるのかどうか。疑問が残ります。
1・2年生が試合がないので「3年生のための大会」を実施してそれに参加するという考えの人はいないか。「子供たちのことを考えています」というのを前面に出してアピールすることに使っていないか。本当に求められていて子供たちから「ぜひとも代わりの試合を開催してほしい」という思いがあったのか。多くの3年生はすでに引退しています。続けていない者が多い。そのなかで「3年生のための大会」と銘打って開催する意味は??
そう考えると「競技会に出る」ことに意味があるのかどうかです。そこに向けて様々な準備をしてきて最大のパフォーマンスを発揮する。相手がいてその選手に勝ちたいと思って走る。負けたくないから「最大限の努力をする」という意識になる。そこがなければ「単純に体を動かすだけ」になってしまうのではないか。強くそう思っています。
そうであれば「普段の練習」も同じではないか。「速くなりたい」「成長したい」「負けたくない」と思って取り組むから意味がある。単純に参加して何となく時間を過ごすことに意味があるのかどうか。みんながいるから練習に参加して嫌だけど身体を動かす。別に成長する必要はないけど「保護者」が続けろと言っているからやっている。そうであれば「もっと幸せな生き方」があると思います。やりたいくないことを他の人から強制されて続けることに意味はない。
「ブラック部活」のような言い方をされますが「やりたいくない」と思っているのであれば「そこまでしてやる必要はない」と思っています。クラスでは「自ら命を絶つくらいなら学校に来る必要はない」と言っています。攻める話ではない。「やりたくない」と思うならそこまでしてやる必要はないのです。もちろん、「やりたくてもできない」という部分もあると思います。色々な角度から物事を考えていく必要はある。一方向からだけではない。
先日からの「練習中の様子」に関して指摘しました。変化がない。やろうとしない。それなのに集団に属して活動をする意味がるのか。「中学時代にやっていたから」とか「せっかく入ったのだから最後までやる」というのは違うのではないかなと。
「やることに意味がある」と考える人もいると思います。が、「嫌なのにやる」とか「目的なくやる」ことを強制する必要があるのか。何を生み出すのか。それは「指導者のエゴ」だと思うし。「最後まで続けることは素晴らしい」という間違った価値観を植え付けられていないか。「嫌だけどやる」ということは「美学」でもなんでもない。
「嫌々やる」とか「やらされている」のであればもっと「有効な時間の使い方」がある。「放課後、部活動をしていなければ問題行動につながる」という部分も以前はあったと思います。しかし、このご時世「お世話をするために部活動をやる」というのは違うのではないか。「部活動をさせていないと生活リズムが崩れる」というのを全て顧問が引き受けるというのも違うのではないか。強くそう思っています。
月曜日。練習に関して、すべてに関して私は何も言わず。「話すことが必要だ」と感じたようなのでそちらをさせました。ある集団は練習をする。そこに3年生がサポートをする。それでいいのかなと。「変化する気がない」状況では何を与えても変化はしません。当然のことだと思います。
「変わろうとしているけど変われない」ことと「変わろうとしていない」ことは同じ「変わらない」ことであっても「意味」が全く違います。そうであれば「選択」する必要がある。何でもかんでも同じではない。そこは考えてもらいたい。
色々なことがあります。真剣であること。そこがベースになる。幸い、複数の者が「真剣だからこそ生まれる葛藤」を抱えています。「温度差」も感じながらやっていく。それでも必ずいい方向に進む。もちろん何でもかんでも「許す」というスタンスではありません。そこだけは譲れません。
堅苦しい内容です。が、これまでとは大きく違います。こちらの「生きる権利」も大切にしたいと思っています。まとまりませんが。