kanekoの陸上日記

毎日更新予定の陸上日記です。陸上競技の指導で感じたことやkanekoが考えていることなどをひたすら書きます。

感覚の差

2020-06-17 | 陸上競技

このことも何度も書いています。人それぞれによって「感覚の差」がある。これは如何ともしがたい事実。本人の感覚が他者と異なる場合、話をしても平行線をたどることが多々あります。

 

「自分はこんなにやっているのに顧問が認めてくれない」という話がよくあります。別にどうでもいい話です。「認めてもらうため」に練習に参加するのかどうか。ここは考えるべき必要があります。前も書きましたが「雨が降ったので練習ができない」ことを喜ぶという者。それならやらなければいいのにと思っています。時間を有効に使うという感覚が持てるかどうか。練習ができないことを喜ぶのであれば最初からやらなければいい。そこに尽きると思っています。

 

「自分なりにやっている」という言葉。これもかなり嫌いです。いやいや、「100」段階で今まで「1」しかやってこなかった者が「10」やり始めたら「自分はこんなに頑張っている」という話になる。もともとやっていないに等しかった者が10倍やっているのですから。しかし、目標到達点は「100」です。そこに向けて「10」なのに「自分はやっている」と思うのは明らかに違う気がします。それでも「感覚の差」がありますから気づきません。そのことを指摘しても「自分はやっている」という思いがありますからそこに対して「違う」という指摘は聞き入れることができません。最初から「やっている」と思っているのですから。

 

毎回毎回このようなことが起きます。時代の問題ではない気がします。私自身が「聖人君子」だとは思いません。かなり遠い場所にいると思っています。それでも「いやいや違うだろう」ということに関しては話をします。例えば課題を忘れて出さない者。提出を促して翌日に出しに来る。その時に「これ」と言ってだけ渡そうとするものも出てきます。そこに意味はないなと思っています。「課題を出しに来ました。遅れてすみませんでした。」の一言がいえるようにならなければいけない。それが本当に難しいことなのか。それさえ「課題を出せと言われたから持ってきた」というだけになってしまうのか。ここは「教育」というか「しつけ」というか。我々が本当にやらなければいけないことなのか。それでも言いますが。

 

「問題点」を「問題点」として明らかにする。そこは必要だと思っています。指摘されなければこれから先もずっと気づかない。高校生です。分かっているようで分かっていないことも多い。というか、大半のことが分かっていません。その中でなにをするのか。誰かがきちんと教えていかなければ何も成長しません。指摘はします。それを受け入れる度量があるのかどうか。話がきちんと聞けるかどうか。ここも含めて考えるべきだと思います。

 

練習中。「だらだらする」ことを許しません。これも「やり方が間違っている」と言われたらそうなのでしょう。しかし、「きちんとやる」と宣言して取り組んでいます。それができないというのはどうなのか。1年前のこと。県総体前日。練習をやる予定でした。場所は競技場で。16時半からスタートにしていましたが当時の1年生が数名来ません。もう構わず始めていると17時半くらいに来る。あまりにも遅いので話を聞くと「友達の家に寄っていた」「コンビニでジュースを買っていた」という話をする。これはどうなのか。そんなことで遅れる人間に合わせてやっていくことが誰のためになるのか。「感覚の違い」とはいえあまりにも違いすぎないか。

 

これも1年前。「足が痛い」と言って本当に何もしない集団が。足が痛くてもできることはある。ずっと座ってみているだけであればその空間にいる必要はないと思います。誰のためにもならないから。補強もしない。トリガーポイントを使いながら時々筋肉を緩める。それが「練習」となる。あまりにもひどいなと思ったので「補強部のメニュー」としてハードな補強だけのメニューを作る。すると、「今日からは走れます」と言い出す。こんな失礼なことがあるのか。それは「権利」なのか。違うと思っています。

 

「補強をする」ということ。これは「できる範囲でやる」ので十分だと思います。しかし、通常の練習をしている者とどうやって差をつけていくのか。単純にやればいいのか。走っている選手よりもきちんとしたトレーニングを積み重ねて走れるようになったときに「勝つ」ことが重要です。「やることがわからない」という者も出ます。いやいや、それなら聞けばいい。わからないから「グダグダ」やるというのは全く違うと思っています。批判を受けるのかもしれません。しかし、「方針」があって「集団」もある。そのなかで「やることがわからないから自分なりにやっている」というのは違うのではないか。

 

もちろん、指摘を受けてそれに対して「反発」もあると思います。言い分もある。しかし、100人がみて98人が「もう少しきちんとやろうよ」といっても残りの2人が「やっているではないか」と主張したらそれは「やっていること」になるのか。ノイジーマイノリティという言葉がある。小数でも声が大きければそれが「正義」のようになる。大半は「サイレントマジョリティ」だから。本当にそれがまかり通るのか。人は波長が合えば自然と群れ始める。「少しくらいいいんじゃないか」という感覚のものが増えれば当然集団は成長を止めることになる。それはだれにとって幸せななのか。

 

「やりたくない」という感覚の中でそれを押し通そうとすれば「顧問を排除する」という方法もある。何度かそれにあったことあある。事実ではないことを「集団」で事実として作り上げ、相手に対して攻撃を始める。それによりどうやって収めるのかという流れになる。間違っている。が、それがまるで事実のようになっていく恐ろしさがある。体験してみないと分からないことなのかもしれない。


感覚の差を埋めていく。これがどれくらいできるのかは分かりませんが。我々がグランドレベルでなにをするか。何ができるか。その辺りも含めてしっかりとかんがえていきたいですね。毎回ですがなかなかです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする