カンレの日記

還暦の年から始まったブログ、いつの間にか古希そして喜寿を迎えた日々のこと。思いのままに。

3.11大震災~11年 大川小学校の竹あかり・姪のこと

2022年03月12日 | 東北関東巨大地震

昨日は、3.11の大震災から11年がたった日で

あちこちで、慰霊の行事がされていました。

宮城県石巻の大川小学校の児童の7割74人の生徒が

津波の犠牲になった小学校では

そこの遺族や関係者、ボランティアで、竹あかりを作っていたそうです。

当日に間に合った竹あかりです。↓

美しいですねぇ。

この地域(長面地区)で亡くなった先生や子どもたちも

高いところから笑顔で見てくれているのではないでしょうか。

 

 

このプロジェクトは、だいぶ前から大勢の方が関わって

この道のプロの方のご指導の下に出来上がったとのことでした。

 ↓ 竹を山から切り出し

デザインした紙を貼って、穴をあけ、中に光をともすと言う

大変な作業だったようです。

以前にも話したかと思いますが

大川小学校は、じいちゃん(カンレ夫)の母校でもあります。

地形的に、切り出しやすいと言う事で

じいちゃんの実家の竹を使って頂けたようで

今では遠方に住んでいる私達でも

なんだか、役に立てて良かった気分になっています。

なので、この情報は三男を亡くした姪からの情報でした。

 

 

姪は、ずっと悲しみに暮れながらも今は

語り部として後世に伝える使命のもとで

気持ちはだいぶ癒されてきているのではないかと思います。

姪は三男が、避難する途中で亡くなったとずっと思っていたらしいのですが

10年後の昨年夏に、本当のことを知ったそうです。

今回、河北新報に姪のことが載った記事です。↓

本人から聞けない状況の中

それは、それで、また悲しみはいかばかりかと・・・

それでも、これからは自分のために

元気に生きてほしいと願っています。

 

暗い話になってしまいましたが

読んでいただきありがとうございました。

 

 

 

 

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石巻市長面地区のシジミとアサリ

2021年06月18日 | 東北関東巨大地震

東北関東巨大地震(3.11)の時に

海の底になってしまった、石巻市の長面地区

あの、大川小学校区域です。

そこに住んでいて生存した人達は、

今は、離れた地域に移住を余儀なくされました。

それでも、海では、蛎やアサリ・シジミが採れるまでになったようです。

 

 

その海で採れたシジミとアサリを、姪が送ってくれたのです。

粒が大きくて食べ応えがありました。

姪たちは、復興までの長い道のりを頑張りました。

悲しみを内に秘めて、今は、語り部として元気に暮らしています。

Sちゃん、ありがとう!

美味しかったよ! ごちそうさまでした。<m(__)m>

 

 

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語り部をして頑張っている母

2021年03月18日 | 東北関東巨大地震

母繋がりで、姪のことを書いておきます。

東北関東巨大地震から10年経った今

姪は、まだ悲しみくれながらも

あの教訓を後世に伝えていきたいと

石巻市で語り部として頑張っています。

 

あの日、姪の三男は18才

就職が決まり教習所通いをしていて

たまたま、家に一人でいたときに津波に飲み込まれてしまいました。

消息が分かるまでには

数日かかり、その間の姪夫婦や家族の気持ちは

想像を絶する状態だったことは言うまでもなく

悲しい悲しい時間だったと思います。

 

何せ、姪の地域一帯は地盤沈下で海の底になってしまったのですから・・・

多くの小学生がなくなった

今では知らない人がいないほど有名になってしまった

大川小学校(夫の母校)よりも、海岸沿いに数キロ行ったところでした。

大勢の犠牲者を出した

東北関東巨大地震(3.11)は、恐ろしい出来事でした。

 

あれから10年、3月11日から一週間が過ぎました。

亡くなった三男の誕生日は、3月14日だったことが

わかりました。

毎年、お仏壇にケーキと好きだった卵焼きを供えて

弔っているとのことです。

突然子供に先立たれた母の心境・・・

言葉にはなりません。

 

被災した辺り一面は、堤防ができ埋め立てら

10年前の故郷の風景はすべてなくなりました。

そして姪たちは、元の地域戻ることはできず

海岸からはだいぶ離れた土地に家を建て、頑張って、頑張って

やっと落ち着いて暮らせるようになりました。

 

 

すみません。

暗い話題になりました。

3,11から10年の節目でしたので投稿を

残してしておきたかったのです。

 

 

 

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昨夜の地震は怖かった!(福島県沖震度6強)

2021年02月14日 | 東北関東巨大地震

この頃、テレビを付けている時は

うとうと、うとうとうと眠いのですが

いざ電気を消して寝るぞ~!ってなると中々眠れない。

昨夜も、ちょうどそんな時でした。

ガタガタ、グラグラ、ズズズズッと揺れ始め

すぐには収まらないので、慌てて上着を着てとりあえず窓を開け

ベランダに出られる準備をして様子を見た。

ずいぶん長く感じたが、そのうち収まった・・・

それもつかの間、停電になった。

 

 

まだ寝ていなかったじいちゃんが

懐中電灯を持ってきてくれた。

息子夫婦から、大丈夫?とラインが入った。

北海道の娘からは、テレビの情報をラインから知らせてきた。

 

 

10年前の3,11を思い出し

宮城県に住む姪たちの無事も確認した。

私の実家も無事だと言うので、とりあえず一安心。

さてトイレに行って寝ることにしようと思いトイレに行ったら

トイレの便器が冷たい。

そうか停電なんだ?と瞬時に気が付く。

 

そうこうしているうちに、消防車、救急車のサイレンが遠くに聞こえた。

どこかで火事?誰かケガ?

那須塩原市から配信される「みるメール」で確認しようと思ったが

気が付けば、モデムもルーターも電気がないとネットは通じないことに気づく。

電気毛布も温まらないので

じいちゃんには湯たんぽがあることを提案した。

その後余震一回は感じた。

冷凍庫の食品も心配だ。

 

 

そして、深夜2:00頃だったか?電気がついた。

じいちゃんは、復旧後の電気系統の点検をしたらしい。

テレビは、消し忘れていて砂嵐画面だったとか。

停電復旧後は事故につながる可能性あり、点検は大事ですね。

じいちゃん、こう言うところは偉い。

ちなみに、栃木県は、震度5強とのこと

那須塩原市は、震度4と言うが・・・ずいぶん強く感じた。

 

 

次の日朝のニュース

10年前の巨大地震の余震だったとは、驚きです。

あ、もう一つ電気を使わないストーブは、心強かったなぁ・・・

老夫婦、昨夜の行動の記録を、長々と失礼しました。<m(__)m>

 

 

深夜の地震対応、皆さんどうされていたでしょうか?

 

 

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東日本大震災から9年後の石巻市長面海岸

2020年09月06日 | 東北関東巨大地震

あら、今日は、9月6日でしたね。

5日も投稿を無断で休んでしまい、すみません<m(__)m>

実は、急用のために夫の実家に行ってきました。

 

用事の合間に、思い出の場所を撮ってきたので

良かったら見てください。

我が家が、カヤノミにこだわっている訳は

夫の実家に、樹齢500年ほどになる↓このカヤノキの大木があるからなのです。

我が家のカヤノキは、この木の実から芽が出た子孫と言うわけで・・・

樹齢40年です。

 

思い出の地ドライブ

津波が押し寄せてきた北上川

今では何事もなかったように穏やかに流れていました。

そして、震災の時、家が立ち並んでいた長面地区は

地盤沈下で海の底になってしまいましたが

堤防ができて今は、陸になっていました。

シラサギが舞う田園風景になっていたのは驚きました。

稲穂も付けて秋を待っているようでした。

 

そして、長面湾は

奥の方に白い線に見えるのが、新しくできた堤防です。

ここは、湾になっていたのですが

何だか大きな湖のように見えています。

美味しいで有名な、カキの養殖も始まっていました。

方や、まだ工事中のところもありましたが・・・

実家に行くたびに、子どもたち遊んだ「松原海水浴場」もありません。

 

ただ、懐かしい昔の橋(海にかかっている)が、残っていました。

新しい橋は、まるで高速道路?新幹線の鉄橋?と間違いそうな

立派な橋が架かっていました。

 

当時、多くの子どもたちが犠牲になった大川小学校は

何やら工事中でした。撤去になるのでしょうか?

大川小学校は、夫の母校でもありました。

同じ母校の大川中学校も、今

太陽光発電の基地になっていましたし

なんとも・・・複雑な思いでした。

 

 

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3.11追悼の意味で

2018年03月11日 | 東北関東巨大地震

今日は、3.11の地震があって7年。

被災地では、あちこちで追悼式が行われたようです。

石巻に住む姪は、三男を失った遺族なので遺族代表として行事に参加して

何か話を頼まれたらしく緊張しているとのメールが来た。

 夫は、あの地震の時、東京に住む友人と矢板市内のお蕎麦屋さんにいたらしい

毎年震災の3月11日には、友人とおそばを食べにその店に行くのが恒例でした。

しかし今年は、友人が来れないと言うので私が駆り出されて付き合ってきました。

私は、卵とじ蕎麦を

夫は、揚げ蕎麦のあんかけを食べてきました。

そして、私が3.11震災のときいたところは

フィットネスジム(Bライン)でしたので、そこにも行ってきました。

その時の場所での恐怖の思い出をたどって・・・どうということはないのですが

我が家の、追悼の意味を込めての行動でした。

あの時、姪や、兄弟たち、その他親戚の身をどれだけ案じたことか・・・

数日後にわかった悲惨な結果。

夫の母校(大勢の子どもが亡くなった大川小学校)のこと

姪の三男は、一人家にいて津波に飲み込まれ亡くなったこと

病弱な義姉と別の姪は、全身びしょびしょのまま一夜を明かし何とか命はとりとめたこと

いろんなことが思い出されます。

 

 

 

 

 

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被災から5ヶ月半経った石巻は

2011年08月26日 | 東北関東巨大地震

H23年8月23日のこと

被災地の石巻の親戚(兄姉)のところへ行って来ました。

こうして穏やかに流れる北上川を見ていると

Photo

あの津波の惨事は嘘のようですが

まだまだ復興はされていないところばかりです。

Photo_2

瓦屋根の家は津波で流されないで残っているものの

家の中の物はすべて流されてそのまま無残に残っていました。

↓ 壊れた堤防も作り直されてはいましたがこの先に・・・

Photo_4

すっかり有名になってしまった大川小学校があります。

行方不明の子ども達の手がかりの

どんな小さなものでも見つかることを信じて

↓ がれきや土の撤去作業に神経を遣っている様子が伺えました。

Photo_8

重機の奥のほうに見える茶色の建物が大川小学校です。

夫の母校である小学校ですが

ここから海まで数キロ、街が開けておりました。

子ども達を連れて何度海水浴に行ったことか・・・

娘の安産祈願、出産報告と安全祈願を

亡き義母と一緒にお参りしたお寺さんも

この奥のほうにありましたが

今では、だれもが住めない海と地域になってしまいました。

悲しいことです・・・これを書いていてもまた涙があふれそうです。

↓ 少し視線をずらすと

震災前は、穏やかな田園風景だったところ

5ヵ月半経った今は、草が生えて一見緑になっていますが

Photo_5

ここは、ずいぶん遺体が見つかったところでもあったそうです。

ただ、この辺りは車もたくさん流されていたところでしたが

車やがれきだけは、何とか片付けがしてありました。

しかし、稲作はまだまだ無理のようです。

一方、海抜0メートルになった渡波地区も

Photo_6

とりあえず道路兼堤防を作り、土嚢での防波堤は出来て

満潮時の浸水はなくなったとのことです。

Photo_7

いつ漁が出来るのか?

ずうっとここに住めるのか?

不安はいっぱいのようです。

一時元気なった義姉も

今回はとても元気なくなっていました。

気がかりです。

街の復興はもとより、心身ともに復興するのは

まだまだ時間がかかるようです。

こう言う体験を風化せずにこれからも

援助の手を出来る範囲でさしのべていきたいと思います。

でも、兄姉たちは古い人間ですので

その度に、気を遣ってくれるのが心に残ります。

互いに思いやることは

お互いに気を遣い大変なことかもしれませんが

続けていかなければならないこと

そんなことも感じながら、兄姉宅訪問の日でした。

間接的な援助も考えていきたいですね。

間接的な援助と言えば

今回は高速道路が平日にもかかわらず混雑していました。

経済効果などの援助も考えてのことかもしれませんね。

それに、あれだけのトラックの往来は、復興に向けて

活気がでてきたとも思えました。

こうして車が多くなると、交通事故が怖いと思っていましたら

その帰り道、案の定交通事故の為の渋滞にあいました。

交通事故も気をつけたいですね。

厳選ブログ集「ひととき」 OCNブリエ認定ブロガー

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被災地石巻行きでの想い

2011年05月17日 | 東北関東巨大地震

石巻の被災地の親戚に

私も、やっとお見舞いに行くことが出来ました。

まだまだ、手付かずのところは沢山ありますが

急を迫られている

義姉の家の近くは、復旧工事が始まっていて活気がありました。

Photo

潮が満ちると浸水してしまう地域です。

一方、北上川の決壊した堤防の復旧工事もずいぶん進んでいました。

Photo_2

以前の、堤防も一目でこのくらいの高さの堤防の感じでしたが

今回行ってみて、もともとあった堤防 ↓ が

Photo_3

なんと低く感じたことか・・・

それもそのはず、地盤沈下したからなのです。

・・・そのために、海ではなかったところが海になってしまい

復旧は、皆無状態の場所も・・・

その場に立った瞬間、涙が止まらなくなったところも・・・・

・・・・

でも、会う人々が思いのほか元気に活動を始めていたことが救いでした。

義姉も自分の家に戻ることが出来て元気でした。

病弱な義姉は、なぜこんなに元気になれたのかと

不思議に思うくらいでした。

私なりに考えたのですが・・・これって・・・

周りに人々からの優しさを

た~くさん頂いたからなのではないかと・・・・

☆被災して、びしょぬれで二晩を過ごし

助けられた時に負んぶされたその時のこと

☆避難所で受けた皆さんの親切

☆その後、親戚に避難して親戚の優しさにも触れたこと

☆沢山の物資を頂いたこと

☆また、泥だらけになった家の泥出しに来てくれた

ボランティアの皆さんが見ず知らずのところに来て

一生懸命やってくださった優しい姿に感謝したことなど

☆世界中の人たちからの救いの手が差し伸べられたことなど

書きつくせないほどの優しさを受けたことが

皆を元気に・・・

それも被災する前よりも元気になれたのではないかと・・・

カンレなりに想ってきました。

まだまだ、これからも大変かと思いますが

人間の助け合いの心が、人を元気させることがわかったような気がします。

亡くなった人の分まで、心豊かで元気になっていくのでは・・・

そんな、明るい兆しを感じてきた石巻行きの報告でした。

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偶然にも

2011年04月10日 | 東北関東巨大地震

被災して石巻市の避難所にいる姪からのメールで

那須塩原から来た方たちにニジマスの塩焼きを

ご馳走になったとのことでした。

那須塩原って・・・どこのどなたたちなのかしら?

と思っておりましたら

なんと塩原の漁業組合の方たちが行ってくださったそうです。

川魚はあまり食べなかった姪も

熱々のニジマスの塩焼きはとっても美味しかったとのことでした。

石巻市といっても沢山の避難所がある中

たまたま姪のところだったこの縁に驚きました。

そして、とてもありがたいと、私も感謝した日でした。

先日、夫が被災地の親戚を見舞った時にも

一様に申しておりました。

救援物資が沢山届いて、とても助かっているとの事で

皆さんの暖かい心に感謝しておりました。

世界各国からも、救援の手が差し伸べられているし

皆さんの暖かい心を頂いて

きっと元気が出ていることでしょう!

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被災した親戚へのお見舞いは

2011年04月05日 | 東北関東巨大地震

いよいよ、夫が被災した親戚へのお見舞いに行く事を決断。

4月4日、夫は東京に住む長男と二人で

朝7時に家をでました。

たまたま、決断したその日は

なくなった姪の三男(高校生)の火葬の日でした。

真っ先に火葬場へ行くことに・・・

11時到着・・・悲しみの中のお見送り・・・・・・・・・・

その後実家に・・・・・今まで広々とした田園風景だったところが

海と化して、母校の小中学校は水に浸かり

停電はまだ続き、いつ復旧するか見通しがつかないという。

自衛隊の方の捜索が続いていて

仮設の道路も、潮が引いている時じゃないと

実家にたどり着けない状態だったという。

幸い兄姉の家4軒は、すぐそばまで水は来ていたが

浸水することなく無事で

沢山の救援物資も届いていて感謝しているとの事でした。

その後、急ぎ、石巻市中心街の方の姉のところへ

そこもまた、満潮時には道路まで水が上がり通れなくなっていて

遠回りして、避難先の知り合いの家にやっとたどり着いたという。

ここもがれきの山にあ然としたらしい。

それから被災地塩釜の姪を見舞って一日フル回転。

予定していた親戚(9軒)の災害見舞いを済ませて

23時、無事帰宅しました。

かなり疲れていた様子の二人でした。

それでも、次の日、朝一番の新幹線で息子は会社に直行しました。

写真はありませんでした。

「写真を撮るために駐車している車で渋滞を招く」

そんな報道も聞いていたし

故郷のあまりにも衝撃的な景色が目に飛び込んできて

写真を撮る、そんな心境でもなかったようですのです。

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先ずは自分が元気でいなければ

2011年03月30日 | 東北関東巨大地震

私の実家は、福島県

夫の実家は、宮城県そんな組み合わせで

このところ、ふさぎがちなカンレ家族

ガソリン問題もあったりして、家から出ることがめっきり少なくなっていました。

お見舞いに行くこともできず

いろいろと考えていましたが、これといってできる年齢でもなく

この歳になると、とにかく自分が元気でいること

高齢化社会に向けて

健康で現状維持をすることが

国のお金を出来るだけ使わせないようにすることが

きちんと納税して、少しばかりの義援金を出させてもらうことが

今、できることなのかも知れない

そんなところに到達(大げさかな)したのです。

ということで

今日は、久しぶりにリフレヨガといつもフィットネス30分をしてきました。

Photo

体全体に血液が循環して、すみずみまで酸素が送られた感じがしました。

少し元気が出てきました。

通常保育サポーターも開始出来そうです。

被災者の皆さん、また、被災した親戚の皆さんも

今は、何も出来ませんが

心からお見舞い申し上げます。

先ずは、私なりに頑張ります。

被災していない皆さんも

一人一人が元気なって、日本を元気にしましょう!

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ほうれん草と三陸ワカメを食べて

2011年03月27日 | 東北関東巨大地震

福島原発事故で、ほうれん草を食べない方が良いとか

出荷停止とか言われている最中

実は、出荷停止寸前の茨城産ほうれん草を食べておりました。

Photo

ちょっと勇気が要りましたし、ブログ投稿もためらっていましたが

「水洗いをして、茹でれば大丈夫」という

ある専門家の話を信じたのです。

そして、わかめは日頃から食べているものですが

Photo_2

我が家の常備わかめは、三陸産なのです。

安心してほうれん草を食べられる時が

そして、新しい三陸わかめが食べられる時が

早く来ますように・・・(私には祈ることしか・・・)

菜園には、小松菜がすくすくと育っています。

多分、カンレはそれも食べることでしょう

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やっと被災地(夫の実家)の周辺がテレビに

2011年03月26日 | 東北関東巨大地震

東北関東大震災から二週間後の昨夜

テレビで、やっと主人の実家の方の映像が公開されました。

北上川の河口付近の映像でした。

今回の、津波は北上川をさかのぼり49キロにもおよんだそうです。

河口から6キロ辺りまでは

堤防が崩れ、橋が流され

この一帯は、海と化しているそうです。

Photo_3

( ↑ この写真は、一昨年引潮のときの北上川)

多分、ヘリコプターの上空からの見た景色は

海にしか見えなかったのでしょう。

だから、被災地という認識が薄く

特に問題のない地域とでも思ったのでしょうね。

やっと、その事情が飲み込めました。

いや、これは推測ですが・・・

始めて見る夫のふるさとの映像、すっかり景色が変わっておりました。

姪の家は流され姪の子ども(高校生)がなくなり

近くの小学校ものみこまれ74人が犠牲になったところです。

かろうじて山側だった実家には水が上がることなく

すぐ家の前まで水が来たそうですが

ぎりぎり助かったそうです。

しかし、道路が寸断され、海と化したふるさとは

今だに、電話も通じず

陸の孤島になっているようです。

東北自動車道は通れるようになっても

まだまだ会いに行ける状態ではないことがわかりました。

すみません。

このところくらい話が多いですが

私の毎日の日記ですので

その日の印象に残ったことを投稿していると

こうなってしまいます。お許し下さい。

平穏な時(一昨年帰省の時)の投稿)は←ここ、いい景色でした。

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ボランティアの考え方・義姉の声

2011年03月23日 | 東北関東巨大地震

ブログ友達のバジルさんのページで

ボランティアについての考え方の投稿がされていました。

私自身も、考え方の一つとて、とても勉強になったので

リンクをしておきます。

読んでみてください。

バジルさんのページは ↓ こちらです。

Boke帽子・「こうめ」の「布ぞうり」

そんなことを考えていた今日

突然電話のベルがなって・・・震災後初めて聞く義姉の声が聞こえてきました。

私は、声を聞いたとたんに涙声になっていましたが

義姉はしっかりとしたいつもとかわらぬ声で

津波を受けた当時のことを語ってくれました。

あの日は、病院に行った帰り石巻市内に住む娘のところに寄って

お茶を飲んでいた時だったそうです。

突然の地震、そして間もなく津波が押し寄せてきて

二階の物干しに避難して

保冷車などが流されていくのを目の当たりにして

それはそれは恐ろしい光景だった。

もうこれでおしまいかと思って

義姉(73歳)と娘(45?)は抱き合って

「お母さんと一緒でよかった・・・」と娘は話したという。

そして、ずぶぬれになった状態の二人は

そのまま二晩を、そこで過ごしたあとに助けられたという。

奇跡としか言いようのない現状だったと思う。

でも、助かってよかった。

夫と義姉は、初めて兄弟の声を聞いたと喜んでいた。

同じ市内に住むほかの兄姉とは

近くても、まだ電話が通じない状態のようです。

今は、親戚の家にお世話になっていて自家発電もあるので

不自由はしていない。安心するようにとのことでした。

とにかく、助かってよかった。

そんな、不幸中の幸いを確認しあった感動の日でもありました。

まだまだ現地に行くことはできません。

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復旧に向けて働いている方々

2011年03月21日 | 東北関東巨大地震

めっきりと震災ニュースが少なくなったテレビ版分組み

私はまだ、時間があれば、震災関連の番組を選んで見ています。

その中でも、公務として復旧に携わっている方々には感謝しています。

夫の兄姉は、元気なことはわかったが声はまだ聞いていない。

小さな集落で道路が壊れ孤立状態だと聞いている。

幹線に繋がる道路が寸断され、まるで海の状態だとも聞いた。

次なる心配は

いまだに停電の中、どうして暮らしているのかとか?

食べ物はあるのか?

皆、高齢なため体調はくずしていないか?

等々気なっていました。

でも、昨日、甥がやっとの想いでたどり着いたところ

自衛隊の方が船で移動させてくれて

集落の公民館では、年寄りが集められて

自衛隊のお医者さんが診察をしてくれていたそうです。

姪や甥、数人とは携帯電話もずいぶん繋がるようになって

それぞれにいろいろ報告が入るようになりました。

避難所も食べ物は不自由ないというし

小さな集落にも、きめの細かい手をさしのべてくださっていたのです。

自衛隊の方、原子炉の復帰に向けて現場で命がけで仕事を

してくださっている方々にとても感謝した日でした。

また、小学生が津波にのまれ80人も亡くなったとの事

こんな悲惨な話しにも胸が痛んでいます。

ただ、ただ、ご冥福をお祈りするしかできません。

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