今年は、コロナ禍でお彼岸でも
みんなで集まれないし
ひと足先に実家に行くことにした。
相変わらず気まぐれなので
連絡もせずに訪問したら、案の定誰もいなくて
それでも、玄関は開いていたから不思議。
お仏壇に、手土産とお線香を供えて
故郷の山々(田畑)を散策してきた。
庭の花々も、咲き誇っていて春を感じた。
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小学生の頃の道草をした場所も歩いてみた。
小さい頃は、ガードレールもなかったし、道も砂利道だった。
この石仏は、もう少し小高いところにあったきがする。
その土手で、連日ともだちが持ってきたイチジクを食べた。
その時の、まったりとした時間と味が忘れられない。
この石仏は、馬頭観音?とか言っていたっけ。
横から見ると馬の顔に見えた。
あちこち歩いて4000歩
フキノトウを取って、ヨモギを摘んで最高の癒しだった。
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父や母が農作業をする傍らに、何時もついて歩いて
幼い私の、質問にも丁寧に答えてくれた母。
その中の一つに
田植えの時、綱を貼るのは(寸法を決めるゲージがあった)
子どもの仕事だったとき、初めて直角を教わった。
今思えば、毎日の生活の中には、教材がいっぱい転がっていたのだ。
貴重な生活の知恵を教わっていたのだ。
昔のことなので、母は、朝から晩まで働いていたのに
丁寧に教えてくれたことは、今でも忘れない母の偉大さを今感じる。
母の汗臭い臭いも、いい匂いに感じた。
田畑の畔で、こじはん(おやつ)も楽しい時間だった。
ふるさとは、何とも言えない安らぐ場所となっている。
父母兄弟や、幼い頃の友達の想い出がよみがえった日は
カンレ74歳の一コマとなった。
子どもにとって親の存在は
一生忘れられないものになること。
どんな環境でも、両親の無償の愛は
子どもに伝わることと信じている。
そして、無償の愛は、子どもの無限の可能性につながること
身をもって感じている。
果たして我が子には、無償の愛をふんだんに注いだか?
は、数値で表せるものではない。
反省点もいっぱいだ・・・
今日は、老婆の思いを伝えたいと思った日ともなった。