照る日曇る日第966回
1961年に出された「三つの場合」「当世鹿もどき」の2冊を軸に、同時期の単行本未収録作品の「老後の春」「残虐記」などを収録した作家晩年の集成であるが、この後に「瘋癲老人日記」と「台所太平記」がどどっ、と来るのである。
「三つの場合」は寄せ集めの雑文集であるが、「細雪」のモデルと(作家を含めた)彼らの後日談がかなり詳しく語られている(1959年以降の彼の作品はすべて口述筆記である)ので面白い。
けれどももっと面白いのは、谷崎が落語家の口調で喋り下ろした「当世鹿もどき」で、女優、高峰秀子や淡路恵子の手紙が飛び出してきて、読者の意表をつく。
「広辞苑」の新村出博士とデコちゃんへの熱愛ぶりも微笑ましい。
「がめつい」などという菊田一夫がはやらせた大阪弁は、大阪では使われていないとか、「がしんたれ」は大阪では使われているが、京都では聞かれない、などいう興味深い実例が飛び出す「関西語」の蘊蓄、上京、下京、芝白金、鳥越、本銀町、井ノ頭、もちぐされ、初恋、高利貸、こりごりなどの用例における濁音ばやりを戒める1文などは、谷崎の真骨頂だろう。
雑文の「あの頃のこと」は、国語学者の山田孝雄の追悼文である。
山田は前後2回に亘って谷崎源氏の翻訳を手伝ったが、旧訳のときの条件は、「臣下たる源氏の皇后との密通、その子が天皇となり、源氏が太政天皇に準ずる地位に登ったこと、に関わる個所を完全に削除する」ということだったそうだ。
ところが戦後になると、そんな条件などおくびにも出さずに、2回目の新訳にも参加して、平然と原文通りに復元している。三百代言、曲学阿世とはこういう手合いのことを指すのだろう。(それに加担した谷崎も同罪だが。)
雑文の「細雪を書いたこと」は、もっともっと興味深い。
「細雪」は、最初の計画では「三寒四温」という題名で、昭和17年、大東亜戦争勃発当時の「蘆屋夙川付近の上流階級の腐敗し廃頽した方面を描くはずだったが、軍部やその筋の眼が光り出し、さう云ふ題材を選ぶことが危険になってきたので、已むを得ず、彼等に睨まれないやうな方面だけを描くことになってなってしまった。「細雪」と云ふ題は、さうなってから雪子を女主人公にするつもりで思ひついた」のである。
もしも谷崎の当初の構想が実現していたら、彼の最高傑作と称される「細雪」は、果たしていかなる相貌で我々の前にその威容を現したことだろうか? 思うだに夢躍る話ではないか。
韓ドラを愛する人はおそらくは嫌韓派ではないのだろうが 蝶人