照る日曇る日第968回
神社の近くの森の地下に広大な鍾乳洞があって、何世紀にも亘っておよそ50万人の小人たちが3つの国に分かれ、彼らなりの文化と文明を育みながら天上界の人間族を岩の隙間から仰ぎ見つつ暮らしている。
そして彼らに命の糧を与え続け、生殺与奪の神のような、リリパット国の小人たちに対するガリバーのような役割を果たしてきたのは、この神社の先祖代々の宮司であった。
かくして物語は、天と地、人間(神)と小人、マクロとミクロの決死圏を舞台に、大勢の個性的な人物(小人)が陸続と登場し、時空を隅々まで駆け巡るような気宇壮大なロマンが繰り広げられ、なにゆえに神が自殺を選んだのか、その曰く因縁が最後の最後についに解き明かされるのであるが、そのプロットの雄大、全体構成の強靭、デテールの緻密、その登場人物の造型の鋭い切れ込みには感嘆の他ない。
「わたしも民主主義を超える思想が探し出せなかったことが、心残りです」p326
「下手な民主主義よりも、正義の独裁者のもとの君主制の方がましなのだと考えてしまいます」同
「どうだっていいんだ。もう、どうだっていいんだ。わたしも、死にます。わたしにはもう帰るべき場所がありません。わたしは、日本では生きていけません。(中略)それにわたしが本気になって話ををすると、日本人にはその意味が解せない」p333
スイフトが「ガリバー旅行記」を通じて18世紀の英国社会を俎上に載せたように、著者もまた野心的な実験小説という道具をもちいて、この国の来し方行く末を、その原点にまで遡って考察し、骰子一擲、新しき時代への跳躍を試みたともいえよう。
が、そういう教条的な視点からはどうしようもなくはみ出してしまう憤出のエラン・ヴィタール、物語が物語を自動的に生み出してしまうカタリの快楽、世界大乱のカオスをほんの一瞬にせよ金魚鉢の中に閉じ込め、呵々大笑してしてやろうとする石田選手の悲愴な文筆家根性に、読者は大いに動かされるのである。
鎌倉の風来坊として卒りたり太田先生さようなら 蝶人