照る日曇る日第1519~1521回

鴎外全集の「小倉日記」を読んでいて、ふと松本清張に「或る「小倉日記」伝」があったことを思い出した。
今では自由に読める森鴎外の「小倉日記」だが、原稿が長く行方不明になっていて、懸命の大捜索にもかかわらず、岩波の鴎外全集にも収録できない期間が続いたのである。
それで仕方なく、というか代替手段として、明治32年から足掛け3年間小倉に滞在した鴎外の事績を明らかにすることで、田上耕作という在野の研究者が身体に障害を持ちながら美貌の母親共々その穴を埋めようと、獅子奮迅の働きをしたのだが、遂に果たせず昭和25年の暮に逝去した。
そうしてその翌年の2月に、鴎外の子息が東京で「小倉日記」の原稿を発見したために、田上の努力は水泡に帰した。
これが松本清張の出世作「或る「小倉日記」伝」の主題である。
よって従来本作は実在した人物、田上耕作の伝記小説と受け取られていたのだが、書かれた内容はおおむね事実ではあっても、いくつかの点で清張の創作部分があることを明らかにしたのが、阿刀田高の「小説工房12ヵ月」であった。
阿刀田選手は、短編の名手、松本清張の特質は、該博な知識の裏づけ、取材の執拗さ、弱者へのいたわり、人間性への目配り、風土の描写、筋運びの巧みさにあるとしながら、「日記不在の小倉時代の森鴎外の暮らしぶりをフィールドワーク的な手法で再現しようと思いついたのは、ほかならぬ清張自身ではなかったか」と想像するのである。
その過程で先駆者田上耕作の存在を知った清張は、いったんは落胆したものの、耕作の研究成果が貧しかったと知って気を取りなおし、新聞記者の立場を利用して精力的な調査を開始する。そしてその蓄積が「或る「小倉日記」伝」の中身になっていくのである。
「或る「小倉日記」伝」で最も感動的なのは、鴎外の小説「独身」の中にも出てくる「でんびんや」の鈴の音だが、阿刀田選手は、「それは田上耕作の少年時代の思い出ではなく、清張自身の思い出ではなかったのか」と想像を膨らませているのである。
恐らくそうだろう。清張の「或る「小倉日記」伝」の主人公として描かれている田上耕作は、実在した田上耕作以上に、若き日の松本清張自身なのである。
いっぽう鴎外の「小倉日記」は、例によって漢文脈を生かした、永井荷風の日記よりも端正古雅な文語体で書かれているが、独逸に留学して独逸語をものにした鴎外が毎日のように仏人ベルトランの元に通って仏蘭西語をも体得したこと、当時独身だった鴎外が常に複数の女中を雇い、無用の誤解を免れたことなどが背筋をきちんと伸ばして縷々綴られている。
君たちの群れてるとこへは行かないからおらっちのとこへも来ないでね 蝶人