照る日曇る日第1759回
大河ドラマの人気に便乗したような鎌倉殿関連の新書が、雨後の竹の子の如く登場しているが、本書もそのひとつだろう。
作者によれば、前著(未読です)で弟の義時を書いたら、彼がいかにお姉さんの掌の上に乗っかっていたかが良く分かったので、このたび政子を取り上げたそうだが、「御台所の日々」、「頼朝の後家として」、「尼将軍の時代」、「後代の政子像」まで4つの章立てで、彼女の生涯と業績を丁寧に跡付けていて好感が持てる。(但し「あとがき」では、政子教の熱烈な信者が教祖様をいささか持ち上げ過ぎているようで、鼻白む。)
それはともかく網野善彦選手の書きものなどを見ると、中世の鎌倉時代では、近世と違って比較的女性の経済的、社会的地位が高かったようなので、源家の御曹司の貴夫人にして、天賦の才を備えていた彼女が、運と僥倖にも恵まれて、稀代の政治的指導者として活躍することもできたのだろう。
ただその活躍のエネルギーの大半が、北条一族の「私利」と鎌倉幕府の「公益」とを、意識的かつ無意識的に混同したり、本来は同列の仲間であったはずの御家人たちを次々に謀殺することに費やされたきらいがあるのは、北条贔屓の連中はいざ知らず、おらっちにとっては、嘆かわしくも唾棄すべき所業だったと、人っ子一人いない妙本寺を訪れるたびに思うのである。
7月1日の朝日新聞に出ていた歴史学者細川重男選手のインタビュー記事によれば、当時の鎌倉は、喰うか、喰われるか、殺すか、殺されるかの殺人都市で、かつての広島のような「仁義なき戦い」が、ヤクザより恐ろしい関東武士によって連日繰り広げられていたようである。
「頼朝の挙兵から死去までの約18年間で、彼の意思で殺害されたものは30人を超える」そうだが、その冷酷無惨な殺戮をじっと観察・研究していた時政、義時、政子があの世に送りこんだ死者たちの数は、比企一族だけでもその数倍を超えるだろう。
800年も経てば、「愛と慈悲と徳義ある治世」などと褒めたたえることも簡単にできてしまうが、ほんとは政子だって、夫の頼朝がそうであったように、毎日毎日の「暴力と死の時代」を、なんとかきゃんとか生き延びるので精いっぱいだったに違いない。
決断と実行力が欲しいので角栄なんかに憧れてしまう 蝶人