先日の臨床細胞学会で、複数の臨床医がプレゼンテーションで”精検”という文字を使っていた。
どうやら”精密検査”を略していっているようだったが、まさか、”生検”のことをいっているとは思わなかった。だけど、”精検”で出てくる画像は”生検”でとられてきた組織でなので、やっぱり、”生検”のことかと理解した。
ステッドマン医学大辞典で調べると”精検”という言葉は無い。
”せいけん”は”生検”であり、英語表記のbiopsy(バイオプシー)に相当する。医学書院医学大辞典でも同様。ちなみに、“精密検査”という言葉はステッドマンには出ておらず、医学書院医学大辞典ではspecific test, farther investigationで、同義語としてsecond-stage investigationが挙げられていた。たしかに、細胞診断はスクリーニング的な検査であり、そこで陽性となって、組織を採取する“生検”は二次的な検査である。したがって、"生検"は“精密検査”である。だから、そういう意味での“精密検査”を”精検”と略して使っていたのだと思った。だが、公式の学会で略語を使ってしまうというのは、いただけない。おそらく、「細胞診断で疑わしい所見があり、それを精密検査する」ということを一般的に”精検”といい、それには病理組織診である”生検”も含まれているのだろう。”組織診”という語が別に用いられていたことから、おそらく、その領域では”当たり前”に使われている言葉なのだろう。
それにしても、知らない言葉が当たり前のように出てきて、私もずいぶんと不安に陥った。こういうプレゼンテーションがまかり通ってしまうところに、日本の医療レベルが垣間みえる。略語を平気で使う感覚、きっちりした言葉の定義無くして済ませていることに問題を感じてしまう。こういうことが続けば、略語がいつのまにか正式な用語にすり替えられてしまう。“生検”の字が一度も出てこなかったことからすると、その領域ではそのうちすべて”精検”に取って代わられてしまうような気がする。言葉は世につれ変わっていくというが、聞く人、見る人によっては、捉え方が異なる言葉、用語が平然と使われてしまうのは、科学的ではない。それも、略語でそうとは。それとも、それはそれでずいぶん困った話だ。病理診断は用語をきちんと使って、病気を定義する。人の病気を定義しようというのではない、ある状態を言葉によって定義するのが病理診断であり、検査とは一線を画すものだ。だから、病理診断である”生検”が数ある他の精密検査と同列に取り扱われると、病理診断は検査に逆戻りしてしまう。というか、臨床医にとっては、いつまでたっても、検査に過ぎないのだろう。
病理医がどんどん減っている。病理医が減ると、仕方ないので臨床医は自分で採取してきた組織を、自分たちで診断し、治療するようになる。それが悪いことというつもりは無いが、患者の立場に立てば、第3者的な立場で診断を行う医者の介在は、利益になるが、不利益にはならない。医師不足問題で、小児科医、産科医の人数はずいぶん増えたようだが、病理医は相変わらず人手不足だ。ちょっとずつ、プライドが傷つけられ、それが重なって病理医を辞めてしまったり、後輩に病理を勧めることができなかったりする。そんなこんなで、なかなか病理医が増えない。残念なことだ。
どうやら”精密検査”を略していっているようだったが、まさか、”生検”のことをいっているとは思わなかった。だけど、”精検”で出てくる画像は”生検”でとられてきた組織でなので、やっぱり、”生検”のことかと理解した。
ステッドマン医学大辞典で調べると”精検”という言葉は無い。
”せいけん”は”生検”であり、英語表記のbiopsy(バイオプシー)に相当する。医学書院医学大辞典でも同様。ちなみに、“精密検査”という言葉はステッドマンには出ておらず、医学書院医学大辞典ではspecific test, farther investigationで、同義語としてsecond-stage investigationが挙げられていた。たしかに、細胞診断はスクリーニング的な検査であり、そこで陽性となって、組織を採取する“生検”は二次的な検査である。したがって、"生検"は“精密検査”である。だから、そういう意味での“精密検査”を”精検”と略して使っていたのだと思った。だが、公式の学会で略語を使ってしまうというのは、いただけない。おそらく、「細胞診断で疑わしい所見があり、それを精密検査する」ということを一般的に”精検”といい、それには病理組織診である”生検”も含まれているのだろう。”組織診”という語が別に用いられていたことから、おそらく、その領域では”当たり前”に使われている言葉なのだろう。
それにしても、知らない言葉が当たり前のように出てきて、私もずいぶんと不安に陥った。こういうプレゼンテーションがまかり通ってしまうところに、日本の医療レベルが垣間みえる。略語を平気で使う感覚、きっちりした言葉の定義無くして済ませていることに問題を感じてしまう。こういうことが続けば、略語がいつのまにか正式な用語にすり替えられてしまう。“生検”の字が一度も出てこなかったことからすると、その領域ではそのうちすべて”精検”に取って代わられてしまうような気がする。言葉は世につれ変わっていくというが、聞く人、見る人によっては、捉え方が異なる言葉、用語が平然と使われてしまうのは、科学的ではない。それも、略語でそうとは。それとも、それはそれでずいぶん困った話だ。病理診断は用語をきちんと使って、病気を定義する。人の病気を定義しようというのではない、ある状態を言葉によって定義するのが病理診断であり、検査とは一線を画すものだ。だから、病理診断である”生検”が数ある他の精密検査と同列に取り扱われると、病理診断は検査に逆戻りしてしまう。というか、臨床医にとっては、いつまでたっても、検査に過ぎないのだろう。
病理医がどんどん減っている。病理医が減ると、仕方ないので臨床医は自分で採取してきた組織を、自分たちで診断し、治療するようになる。それが悪いことというつもりは無いが、患者の立場に立てば、第3者的な立場で診断を行う医者の介在は、利益になるが、不利益にはならない。医師不足問題で、小児科医、産科医の人数はずいぶん増えたようだが、病理医は相変わらず人手不足だ。ちょっとずつ、プライドが傷つけられ、それが重なって病理医を辞めてしまったり、後輩に病理を勧めることができなかったりする。そんなこんなで、なかなか病理医が増えない。残念なことだ。