意地悪な言い方になってしまうが、頑張り、というか努力というか、こういったものには、
やれる頑張り、と、本当の頑張りがある。
どちらも、当人にしてみればけっこう頑張っているのだが、これら2つの違いは大きい。
”やれる頑張り”というのは、自分の手持ちの能力、時間、気力でもってやれるもので、例えば、時間いっぱいそのことだけをやることで、つらい思い、というのはそこには存在しない。
いっぽう、”本当の頑張り”というのは自分の手持ちの能力以上のものに挑戦し、ほかにしたいことがあってもその時間を削り、これらのことを遂行しようという気力を持ってやることだ。つらい思いを多くした上で、行っていく頑張りである。
どちらが”正しい”頑張りということを決めることはできないが、一般に後者の方が人に尊敬される。
世の中、“やれる頑張り”しかしない人がほとんどで、不肖コロ健も当然そのうちの一人だ。歯を食いしばって、とか臥薪嘗胆とか、そういったことができない。
そして、“やれる頑張り”しかしない人、というかできない人は自分が「やれることしかやっていないこと」を十分自覚しているので、まあ、せいぜい「自分で自分を(人には内緒で)ほめる」くらいだ。
ところが、世の中には”やれる頑張り”しかしていないのに、それをあたかも、”本当に頑張った”かのように勘違いしてしまう人がいる。
「あんた、それ違うよ、頑張っているいる振りだけじゃない」と、喉まででかかることがあるが、それを口にはできない。
人それぞれの価値観と言ってしまえばそれまでだし、自己肯定感がつよいだけ、で、片付けることもできる問題なのかもしれない。
先日、あるひとが「夜郎自大(自分の力量を知らずに威張ること)」を戒める話をしていたが、自分の力量、努力、といったものを客観的に評価することというのはとても難しい。