こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

人生あっという間、私の時間もあと少し。
よりよく生きるにはどうしたらいい?

私を取り巻くすべての出来事の集束と拡散

2013年04月18日 | 日々思うこと、考えること
連日の通勤ストレス、いまだに投稿できない英文抄録、なかなかまとまらない剖検報告書、そして、腰痛に膝痛。ざっと挙げてもこれだけのトラブルを私は抱えている。
これに加えて各種の欲望、願望などを挙げていった日には、孤独と戦いながら顕微鏡など覗いていることはできない。
こういった、私を取り巻くすべての出来事というのは、私という“点”に集束してきているものなのか、それとも私という“点”から時間的、空間的に拡散していっているものなのか、どちらなのかと悩んでしまう。

私を取り巻くすべての出来事というものが、私に集束してきているものと捉えれば、観念的には私という存在がこれらのことの良し悪しを決定できるということになり、評価する視点は自分のものだけでいいこととなる。
逆に、すべての出来事が私を起点として私から拡散しているもの、と考えた場合、私という存在は拡散されたものを受け止める側によって評価されることになる。そして、言い換えれば私は周囲のあらゆるものの目にさらされているということになる。

もちろん、どちらも極端な捉え方であり、現実はその中間か、それよりは自分寄りということになるだろう。
こういったことが自分の中から出たり入ったりして、あるときは人とかかわり、あるときは自省する。

すべてのことは、一塊になっているのかバラバラなのかもわからない。おそらく、一部でくっついていて一部ではほつれているだろう。

こうやって、毎日いろいろ考えて、書き出していると、だんだんと同じようなことに集束してきているような気がする。
それが真理であるのか、思い込みなのかはわからないが、私という存在を規定するものであることは間違いない。

ただ、私という存在がDNAのキャリアに過ぎない(ヒトにおける身体の存在意義・・・ヒトはどこから来てどこへ行くのか(3)2012年08月04日)ということを思い出すと、私を取り巻くすべての事象のどれもこれも、深刻に考え込むほどのことではないといことは確かである。
だから、もう少し、気楽にやりたいのだが、生きている場面にストレスは溢れている。
一体、どういうことなのだろう。


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