息子も大学生になり、それなりに忙しそうに過ごしている。
たまに、話す機会があると、「大学はどう?部活はどうした?」なんていうことを聞く。
勉強しろとはさすがに言わないが、家で食事をしないときは連絡をしろとか、少しは家の手伝いをしろとか言ったりする。
フラットコーテッドレトリバーのナイトの散歩にしたって、名付け親なのだからして当然である。
子供扱いと言えば、それまでだが、言った後で気がついたことがあった。
息子に何か言う資格が私にあるか、ということ。
そもそも私と言う人間、人様になにか言えるようなものを持ち合わせてはいない。
そうすると、息子に対してだって何か言ってやれるようなものは無い。
これから先、なにかしら名を残すようなことができれば多少はそんなこともできるかもしれないが、難しそうだ。
とすると、そもそも私には子供にあれこれ言う資格などそもそも無かったのではないかと思う。
「いや、小さい子供にはそれなりに必要だ」という考えもあるかもしれないが、その時々に親は子供に差し出せる語ることのできる“何か”がなくてはいけないように思う。
そしてそれは子供が小さくても同じである。
幼い子供のことをしつけだ指導だと、虐待するような親に“何か”があるとはとても思えない。
これが子供のことを叱る資格が自分にあるか、ということだ。
だが、私をはじめ、世の親の誰がどれほどのものを持っているだろう。
可能性が無い、という点からすれば子供たちの方がよほど大きな“何か”を持っている。
だから、子供にあれこれ言う前に、私は私で”何か”を持っているかを確認し、もし何も無ければ自分自身が“何か”を持った上で、子供と対峙なければならない。そうでなければ、子供を馬鹿にしていることになる。