通勤電車内でのマナーの悪い人の多さに連日閉口していることは、こんきもで私の愚痴にお付き合いいただいている方はご承知と思うが、あらためてどうしてこんな動物園の動物の檻の中のようなところに入ってまでして、日々通勤しなくてはならないのかと、悩んでしまう。
このあいだの朝も、横須賀線の中で、私と同じくらいの年、すなわち50前後のいい年をしたおじさんたちが喧嘩していた。先に乗って立っていた人と、後から乗ってきた人とが、次に座れるように自分の前のスペースの取り合いをしたのだった。
なんで、電車の車内が動物のような感情であふれるようになってしまったのだろうか。原因を考えてみると、社会システム(さっきの場合は満員電車)の高度化、複雑化もあるだろうが、社会の持っていた相互監視の機能が消失してしまったからではないかと思った。
マナーの悪い人に対して、誰も注意しないものだから、注意されないのが、マナーの悪い人にとってはそのことが当たり前になる。マナーの悪いことが悪いと感じられない社会。
さらに、人間としての価値観はそれぞれ異なるということが明らかになってきたので、一つの価値観を押し付けることはできない。すなわち、悪いことが本当に悪いことかわからなくなってきた。
結果として、悪い(と思われること)をしても、誰も注意されない社会が生じる。
別に、通勤電車に限った話ではない。
地域でもそうだ、カミナリオヤジなどは絶滅危惧種である。
子供が悪いことをして、というか、大人から見て眉をひそめるようなことをしても、その親がいいと思えば、叱られることはない。
近所のオヤジが怒ったころで、その子らの親が逆切れしてくるだけだ。
何が悪くて、何がいいのか、わからない。だから、人を正すという行為がどうあるべきか、不明になってきている。そして、誰にも注意ができない社会が生まれている。
そして、自分自身がどうあるべきか、注意してもらうこともできなくなっている。
耳に痛いことであっても、他人から忠告を受けられなくなるというのは、残念なことだ。
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このあいだの朝も、横須賀線の中で、私と同じくらいの年、すなわち50前後のいい年をしたおじさんたちが喧嘩していた。先に乗って立っていた人と、後から乗ってきた人とが、次に座れるように自分の前のスペースの取り合いをしたのだった。
なんで、電車の車内が動物のような感情であふれるようになってしまったのだろうか。原因を考えてみると、社会システム(さっきの場合は満員電車)の高度化、複雑化もあるだろうが、社会の持っていた相互監視の機能が消失してしまったからではないかと思った。
マナーの悪い人に対して、誰も注意しないものだから、注意されないのが、マナーの悪い人にとってはそのことが当たり前になる。マナーの悪いことが悪いと感じられない社会。
さらに、人間としての価値観はそれぞれ異なるということが明らかになってきたので、一つの価値観を押し付けることはできない。すなわち、悪いことが本当に悪いことかわからなくなってきた。
結果として、悪い(と思われること)をしても、誰も注意されない社会が生じる。
別に、通勤電車に限った話ではない。
地域でもそうだ、カミナリオヤジなどは絶滅危惧種である。
子供が悪いことをして、というか、大人から見て眉をひそめるようなことをしても、その親がいいと思えば、叱られることはない。
近所のオヤジが怒ったころで、その子らの親が逆切れしてくるだけだ。
何が悪くて、何がいいのか、わからない。だから、人を正すという行為がどうあるべきか、不明になってきている。そして、誰にも注意ができない社会が生まれている。
そして、自分自身がどうあるべきか、注意してもらうこともできなくなっている。
耳に痛いことであっても、他人から忠告を受けられなくなるというのは、残念なことだ。
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