こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

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『医療』の定義、治す・・・医療を哲学的に考えてみる(4)

2013年08月14日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと
ちょっと、しんどくなって休んでしまったが、広辞苑で『医療』を説明する際に使用する語、“医術”、“病気”、“治す”のうち、今回は最後の“治す”について定義する。

“治す”というのは“直す”と同義で、曲がったものをまっすぐにする、というような意味である。
すなわち、体の曲がったところ、調子の良くないところをまっすぐにするというわけである。

病気になった人を、病気になる前の状態に戻すこと

が、“治す”ことの最もわかりやすい表現であるが、みんながみんな、そう簡単に元に戻るわけではない。とすると、戻す、というよりは近づける、ということの方がいいかもしれない。

病気になった人を、病気になる前の状態に近づけること
となる。

だが、先天的な病気を持った人も多い。こういった人たちにとって、病気とは一体なにかということになる。
心臓疾患をもって生まれたような人に対しては、酸素の多い血液を、上手に体中に送ることができるような手術をする。これも“治す”である。
染色体異常をもって生まれた人に対しては、残念ながらそれに伴って生じた不具合を“治す”ことはできるものの、染色体異常そのものを“治す”ことはできない。

医療を考える上で、“治す”対象は“病気”であるが、前回、“病気”とはただ単に“病気”としているので、対象が漠然としたまま、“治す”ということになってしまう。

ここでも、どこかに落としどころを見いださなくてはならない。

病気になる前、という状態は、常に変化する生体においてはあり得ない状態である。
そうすると、病気でなかったらという状態もしくは病気を取り除いた状態、とかになるのだろうか。

難しい。

“病気”という、定義の定まらないものを軸にして考えるから良くないとすると、“病気”という言葉を除外して考えてみよう。

そうすると、

生物が不快な感情を起こすことの無いような状態にすること

とでもなるであろうか。だが、デカルト的に考えると、生物一般が“不快な感情”を有するかどうかは不明であるし、人間の間でもたとえば、「肩凝り」という概念の無い国もあるほどで、不快、不愉快という言葉も怪しくなる。

とどのつまり、自分だったら、と主観的に考えるしか無い。

“先生、この(痛み、熱、不調、不快、etcを)どうにかして!”
と医者に頼み込み、“どうにかする”のが、医療における“治す”ということになる。

そのようなわけで、医療におけるという狭義の“治す”という言葉を定義することが精々で、全体的なことは、うやむやなまま先に進むことにする。なにせ、考えることが最終的な目的なのだから、そのうち、いい考えが浮かんでくるかもしれない。

次回は『用語の定義』前半のヤマ、『医療』の私なりの定義に挑戦する。