こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

人生あっという間、私の時間もあと少し。
よりよく生きるにはどうしたらいい?

アジサイとドクダミ

2012年06月15日 | 日々思うこと、考えること
バラの季節が終わり、今はアジサイの季節だ。梅雨といえばアジサイ。

この季節ほかにも美しい花がある。
たとえば、ビョウヤナギ。人目をひく黄金色の花を咲かせている。


そして、ほかにも美しい花がある。
ドクダミだ。

”毒痛み”という、名前が良くないのと、ひっそりと日陰に群生するからか人気はないが、花は意外と可愛いし、葉はハート形だ。

アジサイとドクダミを見比べれば、アジサイは色も姿も豊富で華麗で美しい。
だけど、ドクダミも、地味だがよく見てみれば美しい。


せめて、名前だけでも変えてあげられたらと思うが、ほかに良い名も浮かばない。ドクダミはドクダミ。いったんついてしまった名前、人と同じで、なかなか、改名は難しい。

アジサイの紫陽花という名、花の名前としては普通だが、名前を変えて欲しくはあるまい。
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日本というか、日本人て頑張ってるな。

2012年06月14日 | 日々思うこと、考えること
朝、6時過ぎ。家を出る。
歩く人を追い越しながら、自転車をこぐ。
鎌倉駅に着いて階段を上れば、ホームには逗子発の少し空いた横須賀線を待つ人が列を作っている。
東戸塚からはいつも通りたくさんの人が乗ってくる。横浜を過ぎれば、比較的早い時間のはずなのに、車内はほぼ満員だ。大学に勤めていた頃は、8時台の電車で、この倍くらい混んでいた。
ターミナル駅ではそれはもうたくさんの人が行き来している。

そのターミナル駅で、知り合いの病理の先生と偶然すれ違った。横須賀線が5分ほど遅れたためだろう、その先生とすれ違うなんて、始めてのことだ。気がついたのは、すれ違ったあとで、あちらは私に気がつかなかった。「ああ、あの先生も出勤か」と思ったと同時に、こんなことを思った。

通勤ラッシュというのはごく当たり前と言えば当たり前だが、あらためて考えてみると、私たち日本人の多くが”通勤ラッシュが当たり前”と受け入れている。
これって、すごいことだと思う。

政治家も企業も、”歴史的な円高”というなかで頑張っている。
ドルもユーロも頼りにならず、極東のこんな小さな島国の通貨が安全とされてしまっているが、ここで、日本が潰れたら大恐慌どころではあるまい。
だから、自分たちのためもあるが、世界のために頑張って、踏ん張っているのが、日本だと感じる。

「みんな真面目に、よくやっているよ」
日本を支えている日本人一人一人、よくやっていると、強く思った次第である。

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サッカーW杯 オーストラリア対日本 私の観戦記

2012年06月13日 | スポーツ・健康・ダイエット
 

今日はあまり気張らず、昨夜のサッカーの試合の観戦記など・・・


昨日のサッカーブラジルW杯アジア最終予選B組第3戦 オーストラリア対日本戦は1−1の引き分けに終わって残念でした。
私の観戦はスマホでした。
後半が始まった辺りで、病院を出て、ガードレールのある歩道を選んで歩き、傘と一緒にスマホを前に掲げながら観戦して駅まで。まあ、人から見たらとんでもない中年親父ですが、さいわいというか昨晩は結構な雨で、歩いている人はまばらで、すれ違う人はほとんどいませんでした。
本田の見事なアシストのあとの栗原のゴールの時には、夜道で思わず立ち止まって、「やった!」。


後半40分あたりで、駅についてしまい、ホームまでは真面目に歩いてのぼって、電車を待ち、乗って二駅目で、突然の試合終了。「お!いい距離のフリーキック。」と、喜んでいたら、いつのまにか本田が苦笑

いの後、上半身裸になって、ユニフォームの交換に応じていました。まあ、審判の決定ですから、どうともいえませんね。
素人目ですが、日本に有利な判定もあったように思えるし、なによりオーストラリアのサポーターはブーイングも少なく、良い試合でしたから、これはこれで受け入れるしか無いでしょう。

帰りの電車、結構空いていたように思えましたが、視聴率が30%をゆうに越えていたということと考えあわせると、相当数の人がサッサと帰って「ビール片手にサッカー観戦!」だったのでしょうかね。

予選はこれからもまだまだつづくわけで、ほかのチームもザックジャパンを研究して態勢を立て直してくるでしょうから、追い上げられる立場の日本にはますます頑張って欲しいものです。

サッカー日本代表がすっきり勝つと、翌日の朝は鎌倉の朝焼けが綺麗。などというジンクスを勝手に作っていますが、残念ながら今朝はどんよりした梅雨空でした。

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使われる器具、使われていない器具

2012年06月12日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと
病理組織標本を作るとき、手術検体を切り出すが、そのときによく使う器具と、あまり使わない器具とがある。
金属製の膿盆にピンセットだの、ハサミだの、ゾンデ(細い棒)だのをざらっと入れている。
切り出しを開始するときに使う器具をあらかじめこの中から取り出しておく。

最も使うのはこの鑷子(せつし)、オランダ語でPincet(ピンセット)。
英語ではtweezers。
前の前の病院にいた時から使っていて、今の病院まで連れてきた。

私とのつきあいは、15年以上。
未だかつてこれほどてにしっくり来る鑷子はない。
あまりの優れものなので、もったいないので隠居させようと、ほかの鑷子を探したが、あまり役に立たず、結局これを使い続けている。
マイ鑷子というのもおかしな具合なので、ほかの器具と一緒に出しているが、私以外の病理医がぞんざいに使っていたりするのを見るとちょっと悲しい。

さて、まあ、いつでも使えるようにと種々の用具を一緒くたにしているものの、ハサミにしてもゾンデにしても、いつも使うのは大体同じになってくる。
だから、おそらく、この中には使われていない器具、というのがいるはずだ。
だが、どれがそれなのかは、広げてみてもよくわからない。

どれも、少なくとも一度は使ったことがあるような気がしてしまう。
それに、「これ、使ったこと無い」と思っても、次の瞬間「あれ、これ使えるじゃない」と思う。

だから、病理診断科の膿盆の中の器具達は、エースがいる一方で、控えもたくさんいる。
だけど、どれもそれぞれ大切な器具達。
この間、先端部が錆びて、少し欠けていた古びた鑷子があった。
バカみたいに広がってしまっていたのだが、大きめの検体を挟んで持ち上げるのに重宝していたのに、ついに途中で折れてしまってなくなくサヨナラ(廃棄)した。
とても残念だった。

すっきりさせようとリストラを考えたこともあるが、どれにもそれなりに愛着があって、どうやらできそうにない。
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年金払わず生活保護

2012年06月11日 | 日々思うこと、考えること
払ってもらえるのかわからない年金は払わず、将来働けなくなり収入がなくなったら生活保護をもらえばいいと考える人がいるらしい。このことについては、以前よりあちこちで話題になっているようで、いまさら私がどうこう言うようなものではないのだが、いまの私(2012年、48歳)がこのことをどう考えていたかを振り返るために、記録しておきたい。

私は、サラリーマンなので、月々年金を払っている(らしい)。
払っているといったところで、天引きなので、手取りが減っているだけで、払っている感覚は乏しい。給与明細を見て、年金分がひかれている(らしい)ことをみて、「この額ももらえていたら、家のローンがたすかるのに」とは、いつも思うが、しょせんかなわぬこと、税金と同じだ。かくなる上は、年金を払う原資となる給料を月々もらえるだけで、十分幸せなのだと考えるようにしている。

社会というシステムがあるから、働く場があり、対価としての給料がある。これだけだと、税金と同じだが、年金についての考え方としてはこれに加えて、上の世代の人たちに育ててもらったので、働けなくなった人を支える。ということなのだろう。
この場合、少子化、産業構造の変化による就職難等は除いているのは言うまでもない。

一方、生活保護。厚生労働省の定義では「資産や能力等すべてを活用してもなお生活に困窮する方に対し、困窮の程度に応じて必要な保護を行い、健康で文化的な最低限度の生活を保障し、その自立を助長する制度」である。受給者は200万人を超えて過去最高とのこと。こうなってくると、この制度を”利用しなければ損”と考える人が出てきてもおかしくない。制度がある以上、それを使う権利はすべての国民にある。そして、その制度を本当に必要とする人がいるが、では、その“本当に必要”とは、どんな人たちに当てはまるのだろうか。
引用した朝日新聞の社説(後記)にあるとおり、問題は一筋縄ではいかない状況にまで追い込まれている。

戦争という不幸な時代のあとに訪れた幸せな時代に設計されたシステムは、すでに破綻している。
だからといって、大転換できるかといっても、容易ではない。
現首相は社会保障と税の一体改革を目指している。たしかに、素人目にもそうしないといけない状況だ。
結局、いろいろ考えても私には解決策も何も見えてこない。
聖域なき構造改革では、みんなで郵政民営化になだれ込んだ。その結果はまだ総括されていない。
こんどの、社会保障と税の一体改革は果たしてどうなるか。
政治の試行錯誤の一つではあるが、(民主主義なので)大多数にとって
良い結果となって欲しい。
10年後、このブログのこのページを見つけることがあれば、コメントを入れてみたい。

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生活保護―たたくだけでは無責任(朝日新聞 2012年6月3日付 社説)
 人気お笑い芸人の母親が、生活保護を受けていたことをきっかけに、大量の報道がテレビや週刊誌にあふれている。息子が高収入なのに、その親が困窮して保護費を受け取ることが、道義的な責任を問われるのはやむをえまい。
 だが、「親族の扶養義務をもっと厳しく履行させよ」と行政を批判するだけでは、本質的な改善は望めない。生活保護の行政は、世間の厳しい目と、「最後のセーフティーネット」を運用する重責にはさまれ、困難さを増している。要員不足や弱体化を直視し、強化策を探るべきだ。生活保護は、自治体の福祉事務所が担当する。ケースワーカーが本人の収入や資産、親族による扶養可能性などを調査したうえで受給資格を判断する。ただし、明らかに扶養できそうな親族がいても、「できません」と断られたら、それ以上の調査はできない。そこで厚生労働省は、扶養義務者に「できない」理由を説明させることを検討する。家庭裁判所の調停や審判によって扶養料の支払いを求める方法も、使いやすくする意向だ。
 しかし、行政の権限を強化しても、機械的な運用はできないし、やるべきでもない。困窮している人は、すでに親族とのあつれきを抱えている場合が多い。扶養義務のある息子が日頃から母親との仲の良さを公言していた今回は、珍しい例と考えるべきだ。扶養を求められた親族との関係が悪化する可能性も高いだろう。そのために、困窮した人が保護申請をためらう副作用も予想される。申請を無理に門前払いする「水際作戦」が、餓死や孤独死を生んできたことを忘れてはならない。
 核家族化など血縁関係が薄まるなかで、どこまで身内に頼れるのか。一律の基準はなく、これまでの交際など様々な事情を考慮して慎重に判断する必要がある。ケースワーカーに経験と熱意が必要であるゆえんだ。だが実際は、肉体的・心理的な負担から公務員の間で希望者は少なく、若手がいきなり配置されることも多い。しかも受給者の急増で、1人あたり平均96世帯も担当する(09年度)。不適切な受給をさせず、かといって本当に困っている人を見逃さず、受給者の自立も支援する――。現場への要求を膨らませるばかりでは無責任だ。貧困層が増えるなか、ケースワーカーが置かれている状況を改善しない限り、適切な保護行政など望むべくもない。

ドッグランに青森のヒバチップ

2012年06月10日 | 犬との暮らし

昨日、梅雨入り宣言があったものの、今日の関東地方は晴天だった。


午前中から始まった緊急手術も意外と早く終わり、病理の仕事も無事こなし、日の高いうちに鎌倉に戻れた。紫陽花渋滞といっても、北鎌倉だけの話のようで、朝比奈からはすんなり戻れた。

さて、鎌倉市の規定で、家は隣家との境界から1.5メートル離れていないといけない。
したがって、ここが通路となっていて我が家の場合、フラットコーテッドレトリバーのナイトのドッグランとなっている。

Berfore


After



当初より、ここには青森のヒバチップを敷いてドッグランにしていたのだが、2年ほどたってずいぶんと痩せてしまい、ところどころで地面も見えるようになってしまったので、追加しようと少し買い求めた。


そして今日、天候に恵まれ撒くことができたというわけだ。
梅雨本番の前にすませることができて、よかった。


ヒバの匂いは、新築でもないのにあたりにとてもいい香りが漂っている。
この通路ではナイトが用を足す。お隣には迷惑な話で、臭いがする。1年ほどは効果があったのだが、最近はこちらの方も少し効き目が薄れていたということもあり、撒いたというのが実情だ。

いずれにせよ、今夜は安眠できそうだ。

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雨の日、おやすみ

2012年06月09日 | 鎌倉暮らし

ここ1週間、いま一つ体調がすぐれない。
のどがいがらっぽく、どうやら、風邪をひいてしまったようだ。
熱が出るほどではないのだが、だるい。

明日は、緊急手術が入ってしまい、病理も待機で出勤となってしまったこともあるし、折からの雨、一日あまり動かないことにした。

6月に入って家の周りの緑がどんどん育っている。この家に越してきて2年半。
庭木も落ち着いてきたところなのだろう。
   


草花も根がついたようで、多年草は今年もきれいに咲いている。
    


我が家の裏の、崖、といってもお隣の庭先だがそこの紫陽花もきれいに咲いてきた。ついでにきれいにさせてもらった崖の下に植えたミントや山アジサイの苗もついたようだ。
  



今日から梅雨入り。フラットコーテッドレトリバーのナイトにとっては、つまらない季節だろう。


ところで、お隣との隙間に植えたショウガが、どんどん広がっている。
かつてのミントを思い出す勢いだ。そろそろ、地下茎を切らないとならない。

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霧の中の鎌倉

2012年06月08日 | 鎌倉暮らし
今朝の鎌倉は濃霧に包まれた。朝、5時半の時点ですごいことになっていた。
二階から朝比奈の方を見渡すとほとんど何も見えない。
多少もやがかかっていることは多いが、これほどの霧はこれまで見たことがなかった。



まるでどこかの山奥だ。私のところもある谷戸の奥だが、ここでこんななのだから、扇ガ谷の奥辺りはもっとすごいことになっていそうだ。

ちなみに、晴れた日の景色はこんなである。




毎朝、FMヨコハマを聞いているが、神奈川の天気予報で、濃霧警報は出ていなかった。

6時過ぎて、急速に霧は晴れていった。

とても、幻想的な一瞬でした。

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あぶないあぶない

2012年06月07日 | 日々思うこと、考えること
先日、「夜中に書いた手紙をそのまま出したりしないように」と記事にして、勢いにまかせた文章を不用意に出したりしないよう戒めたつもりだったが、あやうく、自分でその轍を踏みそうになってしまった。

というのは、昨日の記事を読み直し、「これには続きが必要だな」と考え「やれる頑張り、本当の頑張り。(つづき)」というタイトルで記事を書き始めたまではよかったのだが、気がついたらいつの間にやら誰とも知れない人に向かっての批判を、なんとなく気分だけで書いている、なんとも空虚で片意地の悪い文章になっていた。

もしかしたら、ここ数日、ほかにもそのような記事があったかもしれない。あぶないあぶない、勢いにまかせての文章など、そもそもろくなものは無いし、人の共感を得ることもできない。

まだまだ、修行が足りません。

件の記事については、しばらく経ったら読み直して、書き直すことにした。

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やれる頑張り、本当の頑張り。

2012年06月06日 | 生き方について考える
意地悪な言い方になってしまうが、頑張り、というか努力というか、こういったものには、

やれる頑張り、と、本当の頑張りがある。

どちらも、当人にしてみればけっこう頑張っているのだが、これら2つの違いは大きい。

”やれる頑張り”というのは、自分の手持ちの能力、時間、気力でもってやれるもので、例えば、時間いっぱいそのことだけをやることで、つらい思い、というのはそこには存在しない。
いっぽう、”本当の頑張り”というのは自分の手持ちの能力以上のものに挑戦し、ほかにしたいことがあってもその時間を削り、これらのことを遂行しようという気力を持ってやることだ。つらい思いを多くした上で、行っていく頑張りである。

どちらが”正しい”頑張りということを決めることはできないが、一般に後者の方が人に尊敬される。

世の中、“やれる頑張り”しかしない人がほとんどで、不肖コロ健も当然そのうちの一人だ。歯を食いしばって、とか臥薪嘗胆とか、そういったことができない。
そして、“やれる頑張り”しかしない人、というかできない人は自分が「やれることしかやっていないこと」を十分自覚しているので、まあ、せいぜい「自分で自分を(人には内緒で)ほめる」くらいだ。
ところが、世の中には”やれる頑張り”しかしていないのに、それをあたかも、”本当に頑張った”かのように勘違いしてしまう人がいる。
「あんた、それ違うよ、頑張っているいる振りだけじゃない」と、喉まででかかることがあるが、それを口にはできない。

人それぞれの価値観と言ってしまえばそれまでだし、自己肯定感がつよいだけ、で、片付けることもできる問題なのかもしれない。

先日、あるひとが「夜郎自大(自分の力量を知らずに威張ること)」を戒める話をしていたが、自分の力量、努力、といったものを客観的に評価することというのはとても難しい。

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”生検”が”精検”?

2012年06月05日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと
先日の臨床細胞学会で、複数の臨床医がプレゼンテーションで”精検”という文字を使っていた。
どうやら”精密検査”を略していっているようだったが、まさか、”生検”のことをいっているとは思わなかった。だけど、”精検”で出てくる画像は”生検”でとられてきた組織でなので、やっぱり、”生検”のことかと理解した。

ステッドマン医学大辞典で調べると”精検”という言葉は無い。
”せいけん”は”生検”であり、英語表記のbiopsy(バイオプシー)に相当する。医学書院医学大辞典でも同様。ちなみに、“精密検査”という言葉はステッドマンには出ておらず、医学書院医学大辞典ではspecific test, farther investigationで、同義語としてsecond-stage investigationが挙げられていた。たしかに、細胞診断はスクリーニング的な検査であり、そこで陽性となって、組織を採取する“生検”は二次的な検査である。したがって、"生検"は“精密検査”である。だから、そういう意味での“精密検査”を”精検”と略して使っていたのだと思った。だが、公式の学会で略語を使ってしまうというのは、いただけない。おそらく、「細胞診断で疑わしい所見があり、それを精密検査する」ということを一般的に”精検”といい、それには病理組織診である”生検”も含まれているのだろう。”組織診”という語が別に用いられていたことから、おそらく、その領域では”当たり前”に使われている言葉なのだろう。

それにしても、知らない言葉が当たり前のように出てきて、私もずいぶんと不安に陥った。こういうプレゼンテーションがまかり通ってしまうところに、日本の医療レベルが垣間みえる。略語を平気で使う感覚、きっちりした言葉の定義無くして済ませていることに問題を感じてしまう。こういうことが続けば、略語がいつのまにか正式な用語にすり替えられてしまう。“生検”の字が一度も出てこなかったことからすると、その領域ではそのうちすべて”精検”に取って代わられてしまうような気がする。言葉は世につれ変わっていくというが、聞く人、見る人によっては、捉え方が異なる言葉、用語が平然と使われてしまうのは、科学的ではない。それも、略語でそうとは。それとも、それはそれでずいぶん困った話だ。病理診断は用語をきちんと使って、病気を定義する。人の病気を定義しようというのではない、ある状態を言葉によって定義するのが病理診断であり、検査とは一線を画すものだ。だから、病理診断である”生検”が数ある他の精密検査と同列に取り扱われると、病理診断は検査に逆戻りしてしまう。というか、臨床医にとっては、いつまでたっても、検査に過ぎないのだろう。

病理医がどんどん減っている。病理医が減ると、仕方ないので臨床医は自分で採取してきた組織を、自分たちで診断し、治療するようになる。それが悪いことというつもりは無いが、患者の立場に立てば、第3者的な立場で診断を行う医者の介在は、利益になるが、不利益にはならない。医師不足問題で、小児科医、産科医の人数はずいぶん増えたようだが、病理医は相変わらず人手不足だ。ちょっとずつ、プライドが傷つけられ、それが重なって病理医を辞めてしまったり、後輩に病理を勧めることができなかったりする。そんなこんなで、なかなか病理医が増えない。残念なことだ。

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夏の空がやってきた

2012年06月04日 | 生き方について考える
空がいよいよ青くなってきた。
夏空の色だ。

土日と、学会に出たあとの月曜朝の通勤。
鎌倉を出るときの気温はそう高くなかったが、東京で電車を降りると日も高く、気温も上がっている。10分も歩くと、汗ばんでくる。そろそろ半袖のシャツにした方がいいだろうか。
さらに、今日は、週末の学会の抄録だのが入っていて、カバンもずっしりと重くて、つらい。

でも、途中で美しい花に出会うと、思わず立ち止まって見とれてしまう。
   

こういう瞬間を持つことができることこそが幸せなのだろう。

昨晩、とても美しい月を見ることができた(今夜の月食は、雲で見えなかったけど・・・)。
   


人の数だけ幸せがある。一人一人の幸せを数え上げれば、それは数えきれないほどとなる。

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横須賀線から京葉線…東京駅の大変身

2012年06月03日 | 日々思うこと、考えること

昨日、今日、第53回日本臨床細胞学会へ。

会場は幕張メッセ。

幕張メッセの最寄駅は京葉線の海浜幕張。

総武線からのアクセスもいろいろ考えたがやはり東京駅で乗り換えるしかない。

 

東京駅で、横須賀線のホームは丸の内側の地下5階総武線乗り場(なぜ、横須賀線乗り場でないのだ?)。

 

 

2つエスカレーターを乗り継ぐと地下2階?

 

 

ここから、中央線、山手線、京浜東北線へと乗り換えるのは、いつものことなので、慣れているが、京葉線はよくわからなくなる。

 

 

その最大の理由が東京駅構内の激変だ。

以前は、本屋とCDショップとがあったくらいだが、最近は行くたびに様子変わっている。

とくに、この12年の変化はすごい。

お気に入りだったCDショップはいつの間にか消えてしまい、本屋も以前のものと同じか

よくわからない。

 

 

駅前の地下街がそのまま駅の中にできたようなものだ。

というか、これぞ”エキナカ”。

うーん。すごい。

客の取り込みもここまで来ると、周囲の店舗は大打撃だろう。

大丸なんか、大丈夫か?と心配になる。

かつては、共存共栄だっただろうに。

そんななか、案内板を頼りに京葉線に向かう。

 

 

地下5階を出発して45分だろうか、やっと、京葉線ホームまで400メートルとかでてくる。

 

 

ごった返す人混みのなか、延々、商店街(Keiyo street!!)の中を進んでいき、やっと店が途切れると、動く歩道。

これを3つだか、4つだか乗り継いでやっと八重洲口側の端にある、京葉線の入り口にたどり着く。

 

 

京葉線のホームは、地下4階。

上下8階分くらい上がったり下がったりしてきたことになる。

端から端までこれほどとは。

これほど、巨大な駅であれば、エキナカも十分成り立つ。

まだ、上が空いているが、そのうち、何か作るのだろうか?

 

 

蛇足;

毎度のことながら、専門医会の出席登録のための数百メートルに及ぶ列。

自分で並んでいながら、笑える。

 

 


十分満足できました。・・・2012年5月の読書記録

2012年06月02日 | 読書、映画、音楽、美術
怒涛の病理学会をなんとか乗り切り(?)、先月は読書解禁!
構造主義、古典から恋愛小説まで。十分読むことができ、幸せな1か月間だった。
今月はまた、ちょっと読めないなー。
それにしても、読みたい本のなんと多いことか。

5月の読書メーター読んだ本の数:9冊読んだページ数:1935ページナイス数:41ナイス陽だまりの彼女 (新潮文庫)陽だまりの彼女 (新潮文庫)”女子が男子に読んでもらいたい恋愛小説No.1”という帯に惹かれて手に取ってしまった、colocolokenta 48歳、情けなし。竹取物語がベースだと思っていたのだが…見事に外れ。浩介君の抑えた語り口はよかった。でも、この小説、私にはとっても素晴らしいことをもたらしてくれて、なんとなく、ファンタジー恋愛小説の不思議さを感じてしまった(詳細はわたしのブログに)。新婚時代を思い出せたという意味でも、結構いい話だった。読了日(5/28)の今日は、妻の誕生日。読了日:05月28日 著者:越谷 オサム
君たちに明日はない (新潮文庫)君たちに明日はない (新潮文庫)面白かった。さらりと読めた。プロの物書きが書く娯楽小説。時間つぶしにはいいが、あまり残るものがない。読了日:05月26日 著者:垣根 涼介
人間的人間的「だから、日本はダメなんです。」と、米国在住のある日本人が言っていた。その人は結局文句ばかり言って、なにもなすことなく過ごした。外山氏も、文句ばかりで、「ならば、どうすべきか?」という意見は少ない。「火事とケンカは大きいほどおもしろい」、ほかでも書いておられるが、みながみな、そんなことを思っているわけではない。先の震災でのことを心痛めていた人もいる。先達がこういうことを喧伝して、人心を不安に陥れるのは、老害に近い。『読者のご賛同を得たいという気持ちは無い』とのこと。こうなると言いたい放題である。読了日:05月25日 著者:外山滋比古
やってはいけない風水---「気づいて、直す」これだけで幸運体質にガラリと変わる!やってはいけない風水---「気づいて、直す」これだけで幸運体質にガラリと変わる!風水とは、自然界の理に従って生きること。それは昔も今も変わらない。生活のちょっとした整理整頓、メリハリが人生を豊かにする。 あれもこれもというよりは、まずはやれる範囲のこと、基本的なことが書かれていて、とても楽にはじめられる。風水に興味があるけど、何となく難しそうと思っていた私にとってはとてもよい入門書となった。読了日:05月21日 著者:
考えるとはどういうことか (知のトレッキング叢書)考えるとはどういうことか (知のトレッキング叢書)キーワードを検証しながら読んでみた。日本人は考えることをしない民族なのか、それとも長い歴史のうちに考えることをしてきた民族なのか。歴史(=経験)と文化、論理、いろんなことがごちゃごちゃになって錯綜してしまい、ちょっと収拾がつかなくなってしまっている。外山氏をもってしても考えるということは大変なことだ。それとも、口述筆記ということで、十分に考えることもないまま、文章にされてしまったか。そうだとすると、とても残念。他人に書かせているからか、文章そのものが粗雑な感じでもある。人間安易に走ってはならないのは、大家読了日:05月19日 著者:外山 滋比古
旅のラゴス (新潮文庫)旅のラゴス (新潮文庫)素晴らしい作品。筒井ファンを自認していたのだが、これまで読んでいなかったとは情けない。個人的には『俗物図鑑』を超える感動。朝日新聞で連載されていた『漂流 本から本へ』で、筒井の読書歴が書かれていたが、ドームの中でのラゴスは筒井自身であったか。 転移は『郵性省』、スカシウマ、ミドリウシなどのわけのわからない動物たちは、『ポルノ惑星のサルモネラ人間』を想起させたが、まあ、それはご愛嬌だろう。 それにしても、わずか1行半ですぐに筒井ワールドに引き込まれてしまった。楽しかった。読了日:05月12日 著者:筒井 康隆
春琴抄 (新潮文庫)春琴抄 (新潮文庫)読み終わって、しばらくの間目を閉じてみた。 佐助も暗闇の中に春琴の世界を求めたが、かなわなかった。そして、美しい春琴を脳裡にとどめることとした。視力が残っているのかどうかなど、確かめようも無いのに、春琴は佐助の言葉を信じて疑わなかった。二つの別れ別れの物語が、一つに重なり合ったのが、あの鏡の前の瞬間であった。読了日:05月10日 著者:谷崎 潤一郎
午後の曳航 (新潮文庫)午後の曳航 (新潮文庫)海に疲れたニヒルな船乗りが陸に上がる話と、アイデンティティの確立を目論む子供たちの話という、二つのテーマを一緒くたに描いた贅沢な小説だ。ただ、テーマが大きすぎ、これらを描きだすために、リアリティが失われてしまったことが、とても残念。竜二はあれほど急激にジジ臭くならないはずだし、人を傷つけてまで、自らのアイデンティティを確立しようなどという子供は居ない(これついては解説でも述べられている)。横浜の風景はとても良く細かく“映画的に美しく”描写されている。読了日:05月07日 著者:三島 由紀夫
寝ながら学べる構造主義 (文春新書)寝ながら学べる構造主義 (文春新書)それでも難しかった構造主義。1、2ページ読むと、すぐ眠くなってしまって、さながら「眠りながら読んだ構造主義」。果たしてどれほど学べたか?一番よく理解できたたとえは、「あとがき」にある「年を取るのも捨てたものではありません。」。哲学って、人生を達観した年寄りが悩み多き若者に世の中の道理を教えることか。そして、私もそろそろ年寄り。読了日:05月06日 著者:内田 樹

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悩みも願いも人の数だけある

2012年06月01日 | 日々思うこと、考えること
悩みも願いも人の数だけある。

これまで、どうしてこんな当たり前のことに気がついていなかったのだろう。
今朝、駅を出て私の方へ向かってくる人たちの顔を見て初めて実感した。

人の数だけ悩みはあるのだ。ネガティブ思考のコロ健、まずはそのことに気がついた。私だから、“悩み”という言葉を思ったが、いつもネガティブではいけない。これをポジティブ思考に立てば、“悩み”は“願い”に言い換えられよう。だから、人の数だけ願いはある。

みんな、様々な悩み、様々な願いをもって日々生きている。
悩みにくじけるか、願いを実現するために頑張るか。
すべては表裏一体。

実際は、悩みも願いも、人の数どころではない。それぞれの人が様々な悩みや願いを持っている。だから、悩みにしても願いにしても、この世には数えきれないほどある。


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