こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

人生あっという間、私の時間もあと少し。
よりよく生きるにはどうしたらいい?

泣き面に台風

2013年10月15日 | 通勤・交通・旅行
大型で強い台風が来るらしい。10年ぶり級らしい。
昨日からの鼻風邪はそのまま増悪して、普通の風邪になった。

低気圧のせいで、頭痛も増強する。
幸い、昨日が休みで、急ぎの標本が少なく、早めに仕事を切り上げた。
帰るために19時前に病院を出るというのも、たまにはいい。

駅まではいつもどおりに歩いた。
病院を出た時、雨足はそれほどでもなかったのだが、時々急に強くなる。
台風だから、暖かいと思っていたら、風は冷たい。
泣き面に蜂ならぬ台風である。風邪の体には決してよくない。

駅に着いた時にはズボンは膝下までびしょびしょになってしまった。
靴もぐじゅぐじゅ。紳士用のかっこいい雨靴というのはどうしてないのか。

早めに帰宅しようという人が多いのか、電車は混んでいた。

わが家の裏山も心配だが、災害が起きないことを祈って寝ることにする。

鼻かぜ

2013年10月14日 | 日々思うこと、考えること
今年は残暑がひどい、というか秋分をとっくに過ぎて10月に入っているにもかかわらず暑さが収まらない。台風のせいとはいうものの、異常である。

そして、このため、かえって体調を崩す人が多いらしい。

かくいう私も朝から鼻水がつーっと・・・。

夜になってからは、頭痛も加わってきた。

寒気もする…ぶるぶる。

参った。
昨日の同窓会ではしゃぎすぎたわけではないはずだけど。


今日は、コメントのお返事を書たらおしまいにしよう。あれこれ考えようにも、頭が働かない。
早めに夕食を済ませて明日に備えることにする。

明朝、この鼻かぜが、本当の風邪、すなわちひどくなっていないといいのだけど。
やっぱり年だからな・・・。

男子校の同窓会

2013年10月13日 | あの頃のこと…思い出話
年をとると、昔を思い出したくなるのだろうか?それとも、ただ単に心細いだけか。

三年前に開いたばかりというのに、また同窓会を開いた。

コロ健は中高一貫男子校の出身なので、参加者は全員男である。
最近は女の先生もいるようだが、私たちの頃は先生も全員男。

すなわち来賓、参加者、全員男となった。


今回の同窓会のサブタイトルは、「50歳になりました祝」。
したがって、参加者はおじさん、来賓はおじいさん(先生、ごめんなさい!)の集まりとなった。

これは相当むさくるしい。
こういう会を催すとき、かつては女性のいないことが少々残念な気もしたが、不思議と今日はそういった気分が全く起きなかった。

これも年のせいか。

もちろん、話題となるとあのころのすったもんだもあって、そんなことを大笑いしながら話したが、それも今は遠い昔の話になっていた。

私から見ると、みんな立派になって落ち着いてしまっているようにさえ見えたのだが、そんなことはなかった。
みんなたくさんの夢を持ってそれぞれ進んでいた。
どうやら、私だけが勝手に老け込んでいたようだった。

数年後の再会を約束して別れた。
皆、元気でいてくれたら、それだけで嬉しい。

夢を探す

2013年10月12日 | 生き方について考える
昨晩、以前私に夢を持てと言った病理の先生にお会いした(『夢を持ち、夢に向かって進め』)。

そこで彼に言った。
「先生。この前、先生が私に夢を持てと言ったものだから、あれ以来、夢を持とうと思って探しているけど、なかなかみつかりませんよ。」



そうしたら、こう返された。
「それはそれで(そうやって、夢を探している今)、結構たのしいんちゃいまっか?」



幸せを描けない、夢を持てない。そんな時代だなどと、嘆いてあきらめたりせず、夢を探し、夢を持ち、夢に向かって進む。そうやって生きていくことが、人生なのかもしれない。

つらい、時代

2013年10月10日 | 日本のこと、世界のこと
連日、これほどまでにつらいニュースが続くと心が折れそうになる。
枚挙にいとまが無いとは、まさにこのことで、つい先日記事にしたばかりなので、今日ここでそれらを列挙するのは止める。
一方、明るいニュースといったところで、何があるだろう。

今週はノーベル賞週間で、連日その話題がでるが、科学技術、文明の進歩が人類に必ずしも幸福をもたらすものではないことは、ずいぶん前から誰もが感じている。
頑張った先、努力した先には必ず幸せがあると信じていた時代があった。
何のため頑張るのか、努力したらどうなるかなど、どうでも良かった。

だが今は、頑張ってもその目的はわからないし、努力の先に何があるかわからない。
幸せというものの輪郭が、ぼんやりしている。

それともそれこそが本当なのかもしれない。

いずれにしても、幸せ(もしくはそう考えられていたもの)の価値観が大きく変化している。
この人の幸せはあの人の不幸せ。
個人と個人、地域と地域、国と国。

全部幸せ、なんてことがないのは当たり前だけど、皆それぞれが、けっこう大きめの不幸を感じている時代。
今はそんなつらい時代になってしまっている。



よい人になりたい

2013年10月08日 | 生き方について考える

今朝、美しい夜明けに心動かされた。

出勤の途中、肩が当たったか何かで、大声で言い争う男女を見て心が沈んだ。

山のような仕事を片づけていたら、いつの間にか昼だった。

昼食時、昨日発表されたノーベル医学生理学賞の話を同僚達とする。村上春樹は今年こそ文学賞を受賞できるだろうか。

午後もひたすら標本を診る。爪の先ほどの大きさしかない組織の診断に悪戦苦闘する。

会議で心を削ったあとはカンファレンス。いつまでたってもプレゼンテーションが上手にならない。

ヘトヘトになって病院を後にする。
夜道を歩きながら、ふと思った。

よい人になりたい。
すべてをこころよく受け入れ、笑顔でいることができるような人でいたい。

今の私はよい人ではない。
ささいなことが気になり、受け入れられなくなる。
狭量な人間だ。


バイト代が入ったのだろうか、昨晩息子がThe Rolling StonesのTシャツをくれた。
私はストーンズのファンだ。Miss you もいいが、一番のお気に入りはやっぱりSatisfactionだ。
帰りの電車でそのことを思い出したら、心が和んだ。

今夜はあれを着てビールを飲もうと思った。

あちら立てればこちらが立たず

2013年10月07日 | 日々思うこと、考えること
通勤時の服装の調節が難しい季節になってきた。
朝、家を出る時は少し涼しく、都内の駅を降りて歩いて病院まで行くときは汗をかく。
涼しさに対応すべきか、暑さに対応すべきか、難しいところだ。

それでも、あの夏の日々を思い返せば、あれこれ考えながら気持ちよく歩いている。
ここのところ、重厚長大な文ばかり書いていたので、少々Lightにしようと思う。
軽い話題を簡潔に書けば、読みやすくなるが、そんなことだとつまらない。
身の回りには重厚長大な問題は沢山ある。
身近なことだけでも、福島第一原子力発電所、消費税増生、少子高齢化、北朝鮮拉致問題、アメリカの財政、中国の大気汚染、日中・日韓外交問題、TPP・・・。
それぞれについて、国民一人一人が真剣に考えなくてはいけないのに、多すぎて考えることができない。

政治家が手分けしてやっているのだろうけど、それぞれことが大きすぎて対応に苦慮しているのが目に浮かぶ。

どの事項も、ほかの事項と関連しており、あちら立てればこちらが立たずというようなことも少なくない。

私の通勤同様、世の中も難しいし、話を軽くするのも考えものである。

私の英語環境

2013年10月06日 | 日本のこと、世界のこと
以前よりよくコメントを投稿していただくお二方から不肖コロ健の日本における英語教育に関する記事に、最近相次いでコメントをいただいた(いつもありがとうございます)。
今回は、そのコメントを引用させていただき、私の思うところを記事にする。

9月16日の『言語教育』に対する、きらきら星さんからのコメントの一部「中学高校の6年間父親に一日2時間くらい英語を叩き込まれ、大学入試には全く不自由しなかったけど、英会話はまったくだめ。(以下略)」

もう一つは9月20日の『日本語バンザイ(万歳)!』に対する、nogaさんの「(前略)我が国においては、どんなに英語が堪能であっても就職先に困る。それは、人々が英語を使わないからである。これでは、暮らしそのものが成り立たない。日本の学校で6年間英語の授業を受けてもまず話せるようにならないのは、英語環境が整わないからである。一歩学校の外に出ると英語を使わないのでは、せっかく習った英語も錆ついてしまう。日々の学習努力も賽の河原の石積みとなっている。(以下略)」

(コメントを下さった方について詮索するのはよしとしないのだが、きらきら星さんは超難関大学ご出身のお医者さま、nogaさんは英語教育に深くかかわっておられる方、と思っている。)

お二方のコメントを並べて、強烈だったのがnogaさんの「日々の学習努力も賽の河原の石積みとなっている。」である。ほとんどの日本人がこの無益な時間の浪費の犠牲となっている。


「私は英語が話せません」ではなく、「私は普段英語を使っていないので、忘れました」というのが本当のところだ。
だから、駅で外国人に英語で道を尋ねられたら、"I can't speak English."ではなく、"I forget how to speak English."と応えるべきだと思う。
だが、英語ができないというだけで、英語で話しかけてくる人が英語の教師に見えてしまい、どうしても”英語できません”→”できなくてすみません”、そして”英語の点数が思うように伸びなかった私はダメな人間だ”となる。英語ができないだけなのに、勉強ができないように扱われる。大学入試でも大きな比重を占めるので、英語ができるできないで人間のレベルまで決められているような気になる。
これでは英語がかわいそうだ。

かくいう私の英語環境は、年に1度程度の国際学会がせいぜいで、たどたどしく発表、ディスカッションを行い、フロアでほかの人と話す機会は少ない。それでも多少は話せるようになるが、慣れてきたところで帰ってくる。そして、また1年。
この繰り返しである。
あとは、英語を話す機会はない。先日、渋谷駅で地図を片手に困っている外国人がいたので、英語で案内してあげたが、せいぜいこんなものだ。

きらきら星さんのように、一日2時間”叩き込まれ”なくても、一日2時間英語のネイティブをしゃべっているだけで、英語はずいぶん上達するに違いない。
nogaさんはそういった英語環境の整備が必要だとおっしゃっている。

英語を社内公用語とする会社が評判となったことがあるが、これはこれでグローバル化に対応するために必要なことだろう。さらには、英語が公用語であれば、英語の話せる外国人が日本に来てくれる。少子高齢化の時代、英語が話せれば、日本で働くハードルを低くするのはどうだろうか。
私は、英語を礼賛するつもりはない。ただ、英語が世界の公用語となりつつある今日、英語を用いてのコミュニケーションを避けて通るわけにはいかない。

夏休み、オーストラリアへのホームステイに行っていた娘の帰国時の第一声が「この英語力、どうやって持続すればいいのかわからない」と真顔で悩んでいた。

わが家で英語を公用語にしてみてはどうかと、一計を案じ、一昨日、「グッドモーニング!」と、声をかけたのだが、応じてくれなかった。私の発音がひどすぎたのだろうか。

思索の秋

2013年10月05日 | 日々思うこと、考えること
街に、キンモクセイの甘い香りが満ちてきた。
季節は秋。今年の夏は畳み掛けるように仕事が重なった上、少々つらいこともあり、慌ただしく過ごしてしまった。いつもその時が、スタートだから、それまでのことはくよくよせずにしようといっても、変わってしまったことに沿ってやっていかなくてはならないのは、少々つらい。それでも、今が、スタートなので、やっていくしか無い。


いやなことがずいぶん重なっているものの、こんきもの方は順調だ。
連続投稿はすっかりやめてしまったし、ランキングもいまだに気にはなるものの、遠ざかっているので、ストレスは以前より少ない。
今は、好きなテーマを好きな時に投稿している。

ここのところ、連作が多い。これは、一回で全部を言い尽くすのが無理になってきていることの表れだろう。
世の中のこと、すべて、一言で片付けるのは容易ではない。

『医療を哲学的に考えてみる』は用語の定義で終わっているし、『学校教育』にしても尻切れトンボでこの先どうしたいのか、自分でもわからない。早くしないと子供達が卒業してしまって、リアル感が無くなってしまう。
恋愛論についても、今までほとんど触れていないので、挑戦してみたい。
『こんな気持ちでいられたら』というこのブログのタイトルなんか、いまやいったいどう説明すればいいのかわからない。
それぞれのテーマについて、何日もかけて考えて、自分で答えを導きだしたいと思うのだが、残念ながら考える時間はない。それに、これまで生きてきた中で、考えるための材料がどれほどあるだろうと考えると、その少なさにがっかりする。

話を分けて書いているが、それでも内容はまとまりなくあっちこっちに飛んで行ってしまう。推敲したいところだが、これまた時間がない。
昨日までの話題も支離滅裂で終わってしまった。

文章家というのは、きちんと推敲した文章だけを世に残すからこそ、文章家たるのだろう。私はいつまでたっても、そうなれそうにない。


思索の秋である。学会シーズンでもあり、これまた大騒ぎになるのだろうがあまり浮足立たないで、いろいろと物事を考えることを楽しみながら過ごしてみたい。
それにしても、世の中の人は、このとめどない思いをどうやって片づけているのだろう。

まとめ・・・なにが書いてあるのか、誰が書いたものか(4)

2013年10月04日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと
私たち病理医は、病理に関連した知識を、すぐれた教科書(項目数が多く、正しく書かれている)やすぐれた参考書(理解し易く書かれていて、実践的)から得る。
だが、今日、一日に生産される情報量、知識量はきわめて膨大で、これは病理学の世界も例外ではない。

これらの書物をひも解くよりもGoogleでキーワードをググる方が便利なことが多くなってきた。単語そのものをピンポイントで解説してくれるという点で、書物の索引はかなわなくなってきた。
辞書は電子辞書、知らない疾患については、PubMedとなる。
さて、こうなってくると、書物の存在意義そのものが怪しくなってくる。
もう、書物は不要かということだが、私はそうは思っていない。
紙の媒体である書籍は、紙であるがゆえに内容の如何に関わらず存在意義はある。

私が紙の媒体に慣れ親しんでいたから愛着があってこういうのではない。書籍には書籍のいいところがある。
燃やさなければ残るし、それは外から見える。Black boxであるハードディスクはいくら頑張っても外からはわからない。ネットでは解説や画像だって希望のものが必ず出てくるわけではない。

というわけで、出版社さんには踏ん張ってもらって教科書、参考書といった書籍を発行してもらいたい。
ただ、あの、”自炊”?とかいう行為はまずいんじゃないか。あれが、野放図に行われるようなのは、出版業界が気の毒だ。
インターネット上のデータは多くが断片化している。教科書はそれらを編集、統合しているわけで、そういう”人間にしかできない作業”には価値がある。何とかならないだろうか。


とりとめのない話になってきてしまったので、まとめ、という本題に戻る。
教科書にしても、参考書にしても、何が書いてあるかということは大事で、これらは目次、索引に相当する。
だが、どんな立派な項目立てでも、用途に応じていなくては意味がない。誰が書いたかが最後にはものをいう。
学生向けなら、勉強好きで論文を書くのがすきな医者が書いた教科書がいいだろう。だが、日々の診断業務に追われる病理医向けなら、勉強好きだが論文は少ないが、豊富な経験を有する医者が書いた教科書がいいだろう。

いずれにせよ、勉強をよくしている医者であることは前提となる。
この先の医者人生、それほど長くはないが、なにか残せるものが書けるといいと思っている。
その時には、是非ご一読いただきたい。

誰が書いたものか・・・なにが書いてあるのか、誰が書いたものか(3)

2013年10月03日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと
書物に限らず、およそ文章というもの、誰が書いたものか、ということは大変重要である。
小説、評論はいうにおよばず、新聞記事だって署名記事の方がよほど価値がある。

病理に限っていうと、教科書は共著なので誰が書いたかというよりは、なにが書いてあるのか、のほうが大事になる。
ところが、参考書の場合は、誰が書いたものか、というほうが大切である。
最近、数多く出版されている参考書、執筆者は私ぐらいの世代の病理医が多い。外科病理学が(病理医の)社会で認知され始めたころに病理医になった世代で、効率のよい診断方法がないか四苦八苦して考えていた世代のような気がする。
というのも、われわれより上の世代にはカリスマ病理医というのがいて、その先生がそういえばそう、みたいな時代だった。

時は下って、いまではEBM(evidence based medicine)である。確証の無い診断、治療は許されない時代となってきている。

そういう流れの中で、われわれ日本の病理医もハンディーな参考書が必要となり、今やたくさんの数の参考書が世に出ている。


そこで、教科書にある項目ごとに参考書がある。
となると、今度は誰が書いた本なのか、ということが問題となる。

研究論文をたくさん出しているその道の権威よりも、学会/研究会の診断セミナーのようなところでしょっちゅう話している先生なんかの出した本の方が、実戦的でわかりやすかったりする。
実際の診断にたずさわったことが少ない先生の書いた本は意外と実例写真が少なくて、字ばかりになってしまう。学生ならともかく、忙しい一般病理医にとって、一字一字追っていく時間はない。
一方、日々標本を診ている先生が書いた本だと写真が豊富でわかりやすい。

ただ単に、有名な先生が書いているからといって、購入すると失敗することがあるので注意が必要だ。

この話、次回はまとめ。

グローバル化で日本は・・・2013年9月の読書記録

2013年10月02日 | 読書、映画、音楽、美術
犬の本はどれを読んでも楽しい。わが家の二匹、マルチーズのコロとフラットコーテッドレトリバーのナイトも、もう少しお利口だったらいいのに、などと思っていたけど、それは人間の勝手。仲良く遊んでくれる犬達に感謝しなくてはいけない。
グローバル化が言われて久しいが、日本人一人一人が現実問題として直視しなければならない時代に突入している。これまでの遺産を少子高齢化時代にどのように使っていくか。日本で働きたい人は世界中にまだまだいる。その人達に国の維持を手伝ってもらうわけにはいかないか。
だけど、国の借金を考えるとそのこと自体が不安になる。


読んだ本の数:4冊
読んだページ数:876ページ
ナイス数:59ナイス

二冊一緒に購入したが、一冊目(『犬に言いたいたくさんのこと』)は楽しく読めたが、これは”わんちゃん可愛い、大好き”本かな。
読了日:9月29日 著者:阿部智沙子


人間、自分のことが一番だから、マスコミはじめ他人のいうことは鵜呑みにするな。グローバル化で生き馬の目を抜く度合いは余計に加速していく。日本の外に目を向けよ。日本式システムは少子高齢化により維持が困難になる。といったところか。日本社会の問題点をクリアに述べている。こういった問題に気がついている人は、すでに行動にうつしているが、著者を含めまだ少数。男女関係なく、半分くらいの日本人にグローバル化による危機について気がついて欲しい。あえて、日本のいいところには触れていないけど、日本と日本人が大好きなんでしょう。
読了日:9月19日 著者:谷本真由美(@May_Roma)


犬を客観的かつ温かい目で見守っている。そうだよね、そうだったのか、という内容が、読者と同じ目線で書かれている。こういう時は、こうしなさい、ではなく、こういう時ってこういうことが多いですよ、犬にだって個性はありますから、という感じがこれまでのペット本とは大きく異なる。ただ、犬を初めて飼う人には内容を理解するのは意外と難しいかも。見開き2ページで、ワンテーマというのも読み進めやすい。続編も購入したので早速読まなくっちゃ。
読了日:9月15日 著者:


こんな本、金出させて買わせるなと言いたい。ただの「私の印象に残った、”いいとも”でのタモリの思い出シーン」じゃない。このタイトル、詐欺に近い。もっとも好きな”タモリ倶楽部”については二カ所だけって、一体・・・。くやしい。だいたい、これじゃあタモリの厚みもへったくれもないじゃないか。あんまり悔しいので、こうやって地団太踏みながら悪態をついている私を、タモリだったらいつものとても醒めた態度で、”へへっ”とかいいながら、憐れむように眺めてくれるであろうことを思い浮かべてみる。おお、私だけのシーンがここに。
読了日:9月14日 著者:樋口毅宏



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