以前よりよくコメントを投稿していただくお二方から不肖コロ健の日本における英語教育に関する記事に、最近相次いでコメントをいただいた(いつもありがとうございます)。
今回は、そのコメントを引用させていただき、私の思うところを記事にする。
9月16日の『
言語教育』に対する、きらきら星さんからのコメントの一部「中学高校の6年間父親に一日2時間くらい英語を叩き込まれ、大学入試には全く不自由しなかったけど、英会話はまったくだめ。(以下略)」
もう一つは9月20日の『
日本語バンザイ(万歳)!』に対する、nogaさんの「(前略)我が国においては、どんなに英語が堪能であっても就職先に困る。それは、人々が英語を使わないからである。これでは、暮らしそのものが成り立たない。日本の学校で6年間英語の授業を受けてもまず話せるようにならないのは、英語環境が整わないからである。一歩学校の外に出ると英語を使わないのでは、せっかく習った英語も錆ついてしまう。日々の学習努力も賽の河原の石積みとなっている。(以下略)」
(コメントを下さった方について詮索するのはよしとしないのだが、きらきら星さんは超難関大学ご出身のお医者さま、nogaさんは英語教育に深くかかわっておられる方、と思っている。)
お二方のコメントを並べて、強烈だったのがnogaさんの「日々の学習努力も賽の河原の石積みとなっている。」である。ほとんどの日本人がこの無益な時間の浪費の犠牲となっている。
「私は英語が話せません」ではなく、「私は普段英語を使っていないので、忘れました」というのが本当のところだ。
だから、駅で外国人に英語で道を尋ねられたら、"I can't speak English."ではなく、"I forget how to speak English."と応えるべきだと思う。
だが、英語ができないというだけで、英語で話しかけてくる人が英語の教師に見えてしまい、どうしても”英語できません”→”できなくてすみません”、そして”英語の点数が思うように伸びなかった私はダメな人間だ”となる。英語ができないだけなのに、勉強ができないように扱われる。大学入試でも大きな比重を占めるので、英語ができるできないで人間のレベルまで決められているような気になる。
これでは英語がかわいそうだ。
かくいう私の英語環境は、年に1度程度の国際学会がせいぜいで、たどたどしく発表、ディスカッションを行い、フロアでほかの人と話す機会は少ない。それでも多少は話せるようになるが、慣れてきたところで帰ってくる。そして、また1年。
この繰り返しである。
あとは、英語を話す機会はない。先日、渋谷駅で地図を片手に困っている外国人がいたので、英語で案内してあげたが、せいぜいこんなものだ。
きらきら星さんのように、一日2時間”叩き込まれ”なくても、一日2時間英語のネイティブをしゃべっているだけで、英語はずいぶん上達するに違いない。
nogaさんはそういった英語環境の整備が必要だとおっしゃっている。
英語を社内公用語とする会社が評判となったことがあるが、これはこれでグローバル化に対応するために必要なことだろう。さらには、英語が公用語であれば、英語の話せる外国人が日本に来てくれる。少子高齢化の時代、英語が話せれば、日本で働くハードルを低くするのはどうだろうか。
私は、英語を礼賛するつもりはない。ただ、英語が世界の公用語となりつつある今日、英語を用いてのコミュニケーションを避けて通るわけにはいかない。
夏休み、オーストラリアへのホームステイに行っていた娘の帰国時の第一声が「この英語力、どうやって持続すればいいのかわからない」と真顔で悩んでいた。
わが家で英語を公用語にしてみてはどうかと、一計を案じ、一昨日、「グッドモーニング!」と、声をかけたのだが、応じてくれなかった。私の発音がひどすぎたのだろうか。