こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

人生あっという間、私の時間もあと少し。
よりよく生きるにはどうしたらいい?

仕事ごときで悩む必要はあるのか

2018年03月16日 | 生き方について考える

悩みはじめるとキリがない。今、困っている仕事もそうで、引き受けた自分は果たしてふさわしかったのか、どうしたら理想的な(?)講演ができるか、とかそんなことを考え出すと、眠れなくなる。

ポジティブシンキングが上手にできたらいいのだろうけど、なかなかそうはいかない。せいぜい、もう引き受けてしまったものを取り消すことはできない、それでも頼んだ人からみれば私はその講演をするのにふさわしい、理想というのは誰も見たことが無いのだから、それほど頑張らなくてもいい。なんて、やや消極的な動機付けしかできない。

でも、考え方を変えないと、私自身が潰れてしまうし、それらの仕事がつまらない、私にとって意味のないことになってしまう。そんなことのために、私は私の貴重な時間を費やすのか?

今、仕事以外に抱えている悩み事はあるか?ほとんどない。経済的にはもっと楽をしたいけれど、限度というものがあるし、分相応に暮らしている。家族仲は悪くなく、犬たちもいまのところ元気。となると、いまの私の悩みをコントロールするのは仕事の比重をどの程度におくかということ。

仕事のプレッシャーで心を病むなんて、それこそ馬鹿らしい。何かで心を病むのなら、そこから退場すればいい。退場しても、生きていく場を見つけることはできる。引き換えにするものが、自分の持っているものに比べてどの程度のものなのか、よく考えてみたら意外と大したことは無い。たとえ一人になってしまっても、それは心を病んだり、命をかけたりするようなものであるか。

私利私欲、他人の目、自分の心を左右するものは色々あるけれど、そういったものに束縛されず自由に生きることで人生は、自分にとって楽しく有意義なものとなる。

自分で決めよう

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とてつもない質量に押しつぶされそう

2018年03月15日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと

子供の頃、すごく大きな壁に囲まれる夢を何度も見た。いまでも、目をつむるとその感覚が蘇ってくる。

いま、ちょうどそんな感覚だ。

今月中の締め切り原稿が二本。いずれも締め切りの猶予なし。どちらもそれなりに大きな仕事で、ものすごいプレッシャーだ。

文章のアイディアが湧いてこないで、四苦八苦。引き受けなければよかったと言っても、それは半年前のこと。どうしようもない。

とにかく今は、やるっきゃない。

感覚を研ぎ澄ませ

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女性への愛の言葉

2018年03月14日 | 愛と女性とジェンダーと

はじめに断っておくが、今日がたまたまホワイトデーという日だったというだけで、これに合わせて今日の記事を書いたわけではない。

おとといの夜中、ふと女性への愛の言葉というのが日本語に少ないと頭に浮かんだ。というのも、手首が痛くても家事を頑張ってくれている妻をねぎらいたくても、なかなかいい言葉が見つからないで困っていた。せめて妻への愛情を伝えようとしても「愛している」以外の言葉が見つからない。「愛している」以外にいい言葉がないのだ。どんな言葉がいいかというと、例えば英語だったら、”My honey!"とか、"My beauty!"とかいう気軽な、それでも気の利いた言い方。相手を呼ぶと同時に気持ちも伝わる呼び方。日本語には残念ながらそういう言葉が無いのだ。妻に向かって「マイハニー」はコロ健的には無い。

私は、妻のことを名前で呼んでいる。30年前に付き合いだした頃にはちゃん付けで呼んでいたこともあるけど、今は昔。それに名前もしくはそれを変形しただけの呼び方なんて能がない。さすがに、名前があるのに「おい」「お前」などという失礼な呼び方はしない。「ねえ」というのも似たようなものだ。何かないだろうかとあれこれ考えているうちに妻も目を覚まし、一体今度は何事かと聞いてきた。それまで考えていたことを(あくまで客観的に)話すと、「そうね」と言った後、「(コロ)健ちゃんは源氏物語を読破したんでしょ?光源氏はなんて言っていた?」と聞かれた(『201511月の読書記録・・・すべては君に会うためだった』)。でも、源氏は女性に対して歌をおくっていたし、匂宮が宮中でどうやってナンパしていたかが詳細に描かれているわけでもなかった。「でも、あれは和歌でしょ?いちいち和歌詠んで呼ぶわけにはいかないよ」と返事をしたら、もうその頃には妻は再び寝入っていて、私もあれこれ考えているうちに寝てしまった。

それでもやっぱり何かいい呼び方、愛情がこもっていて、気持ちが伝わりやすい呼び方がないか、考えてしまう。いつの間にか私が恋愛戦線から離脱してしまっているからそういう言葉が湧いてこないだけなのかもしれないが、それはそれで妻に失礼な話だ。そう考えていたら、日本人男性が女性に対して愛情を表す言葉が見つからなということはすごく深刻な問題なんじゃないだろうか。歴史的に男性ありきできていたことの表れのような気がする。そのせいか、優しくされることに慣れていない女性も多いように思える。もう少し、男女が仲良く暮らせる社会になって欲しいと思うけど、下手にそんなことをしたらセクハラだと誤解されかねない。難しいものだ。

その、愛情を示す呼び方、三日三晩考えたけれど、結局今日まで「愛している」以上の言葉は何も思い浮かばなかった。気持ちは言葉に出さなければ相手に伝わらない。寄り添っていたら、それで十分なんていうのは甘い。気がついたら、どちらかの愛情が消えているなんてことは大いにありうる。でもそれがなければ仕方ない。

今夜の夕食は私が用意しよう。

せめて態度で示そう

 

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日本がつまらないことで失ってしまったもの

2018年03月13日 | 日本のこと、世界のこと

天網恢々疎にして漏らさず、以前、このブログの中でこの言葉を使ったのは、2年半前(『プロの仕事というもの』2015年10月23日日)、フォルクスワーゲンの排ガスの偽装横浜のマンションの手抜き工事がバレたときのことだった。

”天網恢恢疎にして漏らさず”とは「天の網は広大で目が粗いようだが、悪人は漏らさずこれを捕らえる。悪いことをすれば必ず天罰が下る」(広辞苑)という意味。

今回の、財務省の文書書き換え問題、結局、最初からわかっていたことばかりだった。多くの政治家やその関係者が教育に目をつけた実業家に利用され、”口利き”して”便宜”を図り、財務省の役人が”気を利かせて学校用地を”安く譲った”という構図だろうか。そして、その経緯が怪しいとなって騒がれて、最終的には役人がそのことをもみ消そうとして文書を書き換えた。そんなところだろうか。最終的に書き換えた文書が流出したということはやはり役人の誰かから手に入れたわけで、誰かが良心を持っていて、悪事を明らかにしたということだ。早い段階で、事実を認め、頭を下げていたらここまでこじれることはなかっただろう。とんだ茶番劇だったけど、人の命が失われたということは事態を真摯に受け止め正直に対応してほしい。もう、ここまできたのだから全てを明らかにしてもらいたい。でも、次は四国初の獣医学部の問題が残っている。これまたどうなることやら。でももううんざりだ。

問題はこれらのことに関与した政治家とかその周りの人だけのことでは済まない。この問題に関連して空転した日本の政治そのものが問題だ。この問題を精算しようと訳のわからないまま総選挙までやられたのだから私たちはたまらない。この問題を些細なこととして片付けておく勇気があれば、めまぐるしく変わる世界の動きについていけただろうに、北朝鮮問題でも日本は遅れを取ってしまったように見える。他にも取り組まなくてはいけない国内外の問題は山ほどあるのに、それらがどんどん先延ばしになってしまった。

野党が妨害するからいけない、という考えがあるかもしれないが、不正を放っておくわけにはいかないので、野党を責めるわけにもいかない。与党からも声が上がり始めたけれど、では、代わりになる人がいるのかというといないので、その声も尻すぼみ。日本の政治の劣化はどうしたら止められるのだろうか。そして、劣化しているのは政治だけではなくて、大企業でも同じ(『日本企業の金属疲労』2018年3月1日)。

自分が日本という、自然に恵まれ、穏やかな人が住む国で育ってきて、いろいろな人が手抜きをしたりサボったりして、日本がだんだんと斜陽となるのを目の当たりにするのはとても残念な気持ちだ。戦争に負けて、一からやり直した国だけど、昨日書いた『人生プラスマイナスゼロ』の法則に従うと、この国はこの先、マイナス局面に入っていくような気がする。まずは、この国で生きる人、一人一人が自らを律し、この国を愛し、この国を誇ることができるようになって欲しい。

こんなに長く書いている場合ではないのだが

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人生プラスマイナスゼロ

2018年03月12日 | 生き方について考える

自分は何のために生きているのだろうと考えることがある。生きる目的、目標があればそれに向かって頑張ることもできるだろうが、それらがぼやけてしまうと頑張ろうとする気力も失われてしまう。昨日の夜中も急に目が覚め、そんなことを考えた。これまでに何かを成し遂げたというほどではないが、自分ができることはせいぜいこの程度だろうと考えてしまうと、もうこの先はどうでもいいような気もする。でも、人生はこの先も続くので、どうでもいいわけではない。世の中、明日何が起こるかわからないとはいっても、何も起こらなければまだまだ生きていかなくてはいけない。命あるものは命を粗末に扱ってはいけないからだ。

若い頃求めていた人生への夢が、いつの間にか生きがいさがしへと変貌して来たのだろうか。そうすると、いよいよ私も”シニア”世代に足を突っ込み始めたということだろう。

 

人生はこの先もいろいろなことが起こるに違いない。それにはいいこともあるだろうし、悪いこともあるだろう。でも、これまでの自分のこと、自分以外のいろいろな人のことを考えると、いいことと悪いこと、最終的には人生はプラスマイナスゼロになるということもわかって来ているので、この先の人生悪いことが起こったら、それはこれまで貯めて来たいいことを払い戻しているようなものだと考えられる。逆に、この先いいことが続けばそれはこれまでそんなに苦労してきたのかと、自分自身を慰めてやればいい。

プラスとマイナスといっても、では一体何がプラスで何がマイナスかなんてこともよくわからない。幼くして失われた命、戦争で失われた命、災害で失われた命に対して、プラスマイナスの結果だなどとはとても言えない。結局のところ、いま生かされていることに感謝し、人生なるようにしかならないと、目の前にあることに対して誠実に対応していくために生きていくしかない。

欲張りは禁物

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静かな海を見て思う

2018年03月11日 | 自然災害・事故・感染症

変わりやすい春の天気。朝のうちは少し雲が多かったけれど、昼前には綺麗な青空となった。

ナイトを連れて海を見に行った。

風は強かったけど、海面は比較的穏やかだった。

その時、地震が起こって、津波が来たらどうしよう、とは全く思わなかった。今日が3月11日だというのに。

帰って来て、テレビで東日本大震災を振り返り、防災への取り組みについての番組をみて、これではいけないと思った。

7年経って、いつの間にか海の怖さをすっかり忘れている。私の中で、3.11が風化しつつある。さっき、地震が起こったとして、私はナイトを連れて山へ向っただろうか?

7年前の大地震で命を失った人たちが残してくれた様々の教訓を無駄にしてはいけない。

そなえよつねに

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残念な時代の到来

2018年03月10日 | 日々思うこと、考えること

また、ある事件に関連して自殺者が出た。あれやこれやからの板挟みに耐えられず、自殺という選択をしたのだろう。健康な人が自らの命を絶つということは、とても残念なことだ。また、残された家族はとても気の毒だ。

事件の関係者はどのような思いでいるのかわからないが、こういうことがあっても、平気なようだとするとそれはそれですごい精神の持ち主ということになる。人間というのは一体どこからそういう痛みが平気、というか耐えられるようになるのだろうか。事件の関係者も嫌な思いでいるのだろうけど、まあこれで幕引きができて自分が助かったらそれはそれでいいことだという思いもあるだろう。結局のところ、一番大事なのは自分とせいぜいその周りの人間だ。そして、犠牲を強いられるのは立場の弱い人がほとんどというのが悲しい。

ところで、世界各国の為政者で、誰がどれほど自分以外の人のことを考えているだろうか?とりまきだけで政治を行い、自分以外の人、すなわち国民のことなど大して考えていないような人が増えているように思える。

残念な時代になったものだ。

人間の尊厳

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春の嵐、朝東風それとも朝南風?

2018年03月09日 | 日々思うこと、考えること

すごい嵐だった。時折、”どーん”というような音が聞こえ、窓に吹きつける雨粒の音が聞こえて目が覚めた。これが夜中の3時過ぎ。雨雲情報では関東地方はしばらく強い雨雲に覆われるようだ。

裏山の倒木も少々心配しながらも4時ごろには一旦寝付いて2時間足らずは眠ることができた。昨日の夜中はドアを開けろと吠えるコロに起こされ、今朝は大嵐と、二日続きで寝不足気味。マルチーズのコロは家族それぞれの部屋を行ったり来たりして、安全を確認して回っていて、誰かの部屋のドアが閉まっていると、開けろと吠える。せっかくドアを開け放していたのに、嵐のせいでまた目を覚まされるとは残念。

玄関を出ると強くて生温かい風が吹いていた。春の朝に吹く風を朝東風(あさごち)というらしいが、今朝は全くの南風。朝南風だから”あさはえ”?いずれにしても春嵐だ。雨を吸って重そうな満開のミモザが大きく吹かれていた。今日は朝のうちが一番気温が高くて、夜には10度を切るようになるらしい。天気予報でもそんな気温の予想がされていたので、ジャケットの下にベストを着て、マフラーをカバンに詰め込んで出てきた。今夜は勉強会があって少し遅くなるけれど、これで対応可能だろう。

猫の目のように天気が変わる

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過去と他人は考えよう

2018年03月08日 | 生き方について考える

「過去と他人は変えられない」このブログの中で何度も言ってきた。これってある意味処世術で、自分の願望を適当にぼやかすのにいいやり方だ。これから先のことが過去の上にあることは紛れも無い事だから、"ああ、あの時ああしておけば"なんて思い、過去を変えることができたらいいと思う。でもその過去があったから、今の自分がある。今の自分は果たしてそんなに酷いものなのか?否定しないで、褒めてみたらどうか?そんなことできない、なんて諦めないで一つだけでもいいところを見つけられないかな?そうしたら、そんないいところのある自分があるのはやっぱりそれなりの過去があるからだと考えられる。そうしたらこれまで灰色だった過去も少しは明るいものに変わって見える。

他人もそうだ。誰かにああして欲しい、こうして欲しいと、あれこれ自分のために何かさせようとするから、期待ハズレだった時にがっかりする。初めからなにか期待してはいけないのだ。仕事でだってそうだし、ましてや仕事外のことは余計にそうだ。他人には何も期待しないところから始めると、他人は変わってみえる。ただ、変わって見えたからって、自分に対して攻撃してくるような人は手がつけらない。変えてみようなどとは考えないで、まずは距離を置いて遠くから眺めているといいだろう。

こちらからみて、あちらからみる

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若い時の過ごし方

2018年03月07日 | 生き方について考える

大学生の息子と娘、そろって春休みで思い思いに色々なことをして過ごしている。手が不調の妻の手伝いも多少はしてくれているようだ。昨日はナイトを海まで連れて行ってくれたらしく、いい写真を送ってくれた。
自分のことを棚に上げて言うのもなんだかだけど、若い時の過ごし方というのはピンキリで、何もせずぼんやり過ごす人から、あれやこれやと詰め込むように頑張る人もいる。私の場合、学生時代の勉強は進級すれば良いという程度で、それほどしなかった。もう少し勉強しておけば良かったとも思うが、あとの祭り。ならば勉強以外に何をしたかといえば、バスケットボールと麻雀(学生仲間です)。勉強をしたという思い出はないが、バスケと麻雀の思い出は、何かにつけて蘇ってくる。それはそれでよかった。


近頃の若者、というか学生は覚えなくてはいけないことが多くて気の毒だけど、勉強方法も効率のいいやり方が出てきているので、こんなものかなと思う。スポーツでいえば世界記録は更新され続け、体操やフィギュアスケートでE難度とか4回転ジャンプが当たり前になってきているのと一緒で、知識量を増やす方法もまだまだ開発されそうだ。もちろん、限界はあるので、いくらでも知識が増えるとは思えないが。でも、勉強方法を含め若い人のライフスタイルが変わってきているのを見るのは楽しみだ。

若い間は何かやらなきゃいけないなんていうこともない。何もしないでいるのも若さの特権だろう。1週間ぐらいボーッとするなんて、仕事を始めたらなかなかできない。急いで生きたって、50歳を過ぎたらそれほど大差ないように思う。

「いやいや、トータルで考えたら大きな差になる、コロ健よ、あなたのそういう考えが甘いんだよ」という人は、いろんな事を積み込んで生きたらいい。人生はそれぞれの人に一度きり、それぞれに過ごしたらいい。

人生を粗末に扱ってはいけない

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すこしひんやり

2018年03月06日 | 日々思うこと、考えること

一昨々日はポカポカ、一昨日は強風、昨日は大雨だったけど、今日は曇天で少しひんやりしている。
この時期、衣替えというには少し早いのだけど、厚手のものは着なくなる。気温が10度を下回らなくなると、暑く感じる。それに、思いもよらず暖かかくなったりして、気分が悪くなることもある。身体感覚というのは勝手なものだ。
結局今日は夜までひんやりとしていた。

昨日、病院のCPCが終わってひと段落。次は6月まで大きな発表はない(はず)ので、血圧は落ち着いてくれるだろうと思う。ヒートアップしていた頭を少し冷やし、体勢を立て直して、溜まっている仕事を片付けていこうと思う。それに6月はまだ先だなんて思ったらあっという間に目の前にくる。油断しないでこちらの準備もしなくてはいけない。

寒暖差で体調を崩さないように

 

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いたらぬ夫

2018年03月05日 | 家族のこと

大ケガ、というほどではないのだけど妻が利き手の手首を痛めて不自由している。

年をとると、手首を痛めることが少なくない。私も一ヶ月ほど前にダンベルを持った時、同じところを痛め、しばらくの間痛かったので、辛抱強い妻が痛くて病院にまで行ったというのはよほどのことだろうと思う。私の場合、利き手の手首が痛くても、困ることはあまりない。カバンとか教科書のような重いものを持ち上げたりするのは反対側の手でやったらいい。利き手で持つのはせいぜい切り出しの時に使うナイフ。大抵は病理のガラス標本で、あとはキーボードを叩くだけなので、それほど深刻ではない。

治療は安静以外に基本的にない。一日でもじっとしていられたらいいのだろうけど、家事は待ってくれない。だから、私が「ちょっと、ゆっくりしていなよ」と言ったところで、気の毒なことに家事の手を休められることがない。主婦はそうそう安静にしていられないのだ。重いものを持ったり運んだりすることは気をつけて、なるべくしないようにしているみたいだけど、昨日も朝から洗濯だなんだとやっていた。

土曜日にヘトヘトになってしまった私がほぼ一日ぐったりしていたのとは大違いだ。流石に夕食は私と娘とで作ったが、それがせいぜい。

文句も言わずに黙々と家事をこなしてくれる妻には感謝するしかない。でも、今朝家を出る時、いたわる言葉も感謝の言葉も言い忘れてしまった。全く、いたらぬ夫で申し訳ないことだ。妻はこのブログは知っているけど読まないので、今夜帰ったらちゃんと感謝の気持ちを言葉にして言おうと思う。

ありがとうございます

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鎌倉の春本番・・・妙本寺

2018年03月04日 | 鎌倉暮らし

春本番の暖かさとなり、鎌倉でもあちこちで春の花が咲き出し気持ちが良くなってきた。どこかから漂ってくる、沈丁花の香りもいい。ミツマタもあちこちの玄関先に咲いている。

妻と一緒に大町界隈をナイトを連れて散歩した。妙本寺の総門前の梅が満開。散る花びらも風情があって美しい。

妙本寺は鎌倉駅からとても近いのだけど、少し入るとひっそりとしている。祇園山ハイキングコースからおりてくる道もあって、子供達が小さい頃はよく、山から降りてきていた。少し奥には蛇苦止堂というのがある。池の後ろの山にはびっくりするほど大きな椿が育っていて、たくさんの花をつけていた。

ここは、日蓮聖人の開山による古刹。境内には日蓮聖人の大きな像がある。鎌倉市内には日蓮聖人由来の史跡が多い。妙本寺から出たところの南北の道は、辻説法の道といって、日蓮聖人が辻立ちして布教をしてたといわれる。当時はどんなだったのだろうと思うと、タイムスリップしてみたくなる。日蓮聖人は比企氏に、この比企ヶ谷に地所を献上されこの寺院を始めたということだそうだ。

先週、京都に行った時は、ずいぶん大きな街で、鎌倉なんか比較の対象にならないと思ったけど、1日あれば大部分を歩いて回れるテーマパークとしては、鎌倉はちょうどいいサイズだと思う。

昼前後から、風が強くなってきたので、あとは家でCPC(臨床ー病理カンファレンス)の準備をすることにした。

あと一息

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私の力と仲間の力

2018年03月03日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと

10日で4題の病理解説プレゼンテーション。今日の研究会もなんとか乗り越えて、あとは病院のCPCを残すだけ。

それぞれの症例は病理医による解説を必要とするほどなのだから、もちろん難しい。最初は頭を抱えてしまうようなものばかりだけど、顕微鏡にしがみついて標本を隅から隅まで考えながら観察していると、自分の中にあったこれまでの様々な経験が呼び起こされ、スルスルっと病変の解釈が進む(ことがある)。でも、これだけで学会だの研究会でのプレゼンを乗り越えられるようになるわけがない。

例えばCPC(臨床ー病理カンファレンス)だと教室内で予演会(発表の予行演習)を行う。まだ、未完成の状態だから、ツッコミどころもたくさんあるのだけど、そこで仲間に突っ込んでもらうことが大事だ。恥をかきながら発表内容をブラッシュアップすることが最終的には満足のいく発表となる。学会とか研究会での発表となるととても限られた分野のことで、みんなを集めてやるというほどでは無い。それでも、その分野に強い人にちょこちょこ意見を聞いて内容を詰めて行く。こうやって力になってくれる仲間がいるということは幸せだし、そんな仲間に心から感謝する。

そして、もう一度標本をじっくり観察して、発表スライドを完成させる。今は、直前まで手直しができる、本当に楽な時代となった。

なんでもそうだけど、自分一人でなんでもできるなんて思っちゃいけない。頭を下げて周りの人の意見を上手に聞くことができるようになることがとても大切なことだ。

もちろん、学会とかの発表本番での内容に対する意見・質問に対しても真摯に対応する。それがその研究ひいては医学の発展につながる、そんな気概を持って臨まなくてはいけない。

独りよがりは禁物

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いつの間にやらスマホ漬け

2018年03月02日 | 電脳化社会

ここのところ少しスマホ依存というか、電脳化社会に包み込まれつつあると自覚するようになった。これがスマホ中毒ということか。ニュース、ブログ、フェイスブック、インスタ、ツイッター、ゲーム、etc. 何かあるとスマホを開いていじっている。音楽を聴くのもスマホだ。今もそうだし、昨日も明日もそう。少しずつ身体感覚が失われていく様な気がして怖い。どうしたらいいか?ここに挙げたようなことはどれも、生きていく上ではそれほど必要ないことかもしれない。でも、将来やることがなくなったら、やっぱりスマホは必要となるに違いない。中毒というよりは、必要なのだからしょうがない。

私の場合、スマホをいじっているのは往復の通勤時間がほとんどだ。家に帰ったら、妻がいて、犬がいる。たまには息子や娘とも会う。妻と話し、犬の相手をしたらスマホをいじることはない。でも、時々開く。仕事中、スマホをいじることはほとんどないが、仕事上わからないことがあればスマホかPCですぐググる。スマホに限っていえば1日で使っている時間はどれぐらいだろう。往復4時間のうち3時間半以上はスマホをいじっている。ブログを書いたり、人の消息を読んだりする。それな一つ一つのどれが必要なことなのかよくわからない。必要だとしても、どう必要なのかがよくわからない。

では、通勤時間を利用してスマホをいじることが悪いことかというとそれもわからない。通勤時間は暇だ。だから、文庫本ができ、その後ウォークマンが作られて、今ではスマホになった。そして以前は読書(紙)をしたり、音楽を聞いていたりしたが、どうもそれが減っている。まあ、昔も本や音楽に夢中になったわけで、それがスマホになったかどうというわけだが、情報量が桁外れだ。人間の限界に近づいているのではないかと思える。結果として私の頭脳の一部が侵食されているような気さえする。単純な情報だけならいいのだけど、スマホを通じて嫌なニュース、嫌なコメント、他人への妬み、そういった心に害を及ぼしかねない諸々のものが”こちら側にいる”私を苛むことすらある。

スマホ、PCがなくても、生きてはいけるだろうけど、なければないで困る。こんな怪物装置に生まれてからすぐに付き合わされているいまの若者はすごいな、と思う。ただ、だからどうすごいのかはスマホの存在と一緒でよくわからない。まあ、私のような後期中年オヤジが、この先、電脳化から逃れること、すなわち中毒からの離脱が本質的にできないのであれば、それと上手に付き合う方法を見つけていくしかない。

付かず離れず

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