地元出身、しかも私の自宅近くの田島中学を出ている元浦和のDF、室井市衛選手の思い出です。室井は中学時代はなんとウイングだったらしく、武南高校時代にCBに転向しています。高校卒業後は鹿島アントラーズに入団し、数年で出てきましたが、当時の鹿島のCBは秋田と奥野ががっちりとポジションを確保しており、室井は実力はありながら、ベンチに置かれる日々でした。
この頃から、いつか浦和に来てくれないかということは、しょっちゅう口に出していました。しかし、当時は鹿島と浦和の実力差は大きく、鹿島から選手を引き抜くのは無理だろうと思っていました。それが実現したのが、なんと浦和がJ2に降格した2000年でした。鹿島での同僚の阿部敏之とともに、室井はレッズの一員として駒場にやってきます。
室井の実力があれば、浦和ならスタメンは堅いというのが、当時の評価でした。開幕戦で当たり前のようにCBに入り、開幕からの連勝に貢献しますが、負傷で戦列を離れることも多く、フル出場というわけにはいかなかった一年目でした。
また、室井は最終戦の鳥栖戦でレッドカードをもらっていますが、あれはピクンのクリアミスをカバーするためやむを得ずバックチャージしたので、決して室井の責任ではありません。結果的にPKを与えてしまいましたが、駒場スタジアム史上最大の応援の成果もあり、ルシアノのPKはミスになりました。
翌2001年こそ、室井はレギュラーだろうと思っていましたが、チッタ監督が室井の対人の強さより、西野の高さを評価して、室井を使いませんでした。シーズン途中でC大阪にレンタル移籍した室井は、天皇杯の準決勝で浦和相手にリベンジをするという、絶好の「存在感」を見せます。
2002年に、室井はレンタルから復帰して、背番号5をつけます。一年目はオフト監督にあまり評価されていませんでしたが、二年目の2003年、当時のJリーグに数多くいた外国人のポストプレーヤー対応要員として、室井は評価され開幕からスタメンで出続けます。今思うと、このときがベストの室井だったようで、神戸戦でオゼアスにぴったりついて完封した会心の勝利を今でも思い出せます。
その後は横浜FCを最後に現役を引退し、現在はハートフルクラブのコーチです。体型も雰囲気も現役当時と変わらないので、以前埼スタでサッカー教室の片付けをしていた姿を見ましたが、すぐに遠目からでも室井だとわかりました。今はハートフルクラブの子供たちより、親の世代の方が熱狂する世代になったでしょうが、こういう形で浦和とかかわっているのは嬉しいことです。
この頃から、いつか浦和に来てくれないかということは、しょっちゅう口に出していました。しかし、当時は鹿島と浦和の実力差は大きく、鹿島から選手を引き抜くのは無理だろうと思っていました。それが実現したのが、なんと浦和がJ2に降格した2000年でした。鹿島での同僚の阿部敏之とともに、室井はレッズの一員として駒場にやってきます。
室井の実力があれば、浦和ならスタメンは堅いというのが、当時の評価でした。開幕戦で当たり前のようにCBに入り、開幕からの連勝に貢献しますが、負傷で戦列を離れることも多く、フル出場というわけにはいかなかった一年目でした。
また、室井は最終戦の鳥栖戦でレッドカードをもらっていますが、あれはピクンのクリアミスをカバーするためやむを得ずバックチャージしたので、決して室井の責任ではありません。結果的にPKを与えてしまいましたが、駒場スタジアム史上最大の応援の成果もあり、ルシアノのPKはミスになりました。
翌2001年こそ、室井はレギュラーだろうと思っていましたが、チッタ監督が室井の対人の強さより、西野の高さを評価して、室井を使いませんでした。シーズン途中でC大阪にレンタル移籍した室井は、天皇杯の準決勝で浦和相手にリベンジをするという、絶好の「存在感」を見せます。
2002年に、室井はレンタルから復帰して、背番号5をつけます。一年目はオフト監督にあまり評価されていませんでしたが、二年目の2003年、当時のJリーグに数多くいた外国人のポストプレーヤー対応要員として、室井は評価され開幕からスタメンで出続けます。今思うと、このときがベストの室井だったようで、神戸戦でオゼアスにぴったりついて完封した会心の勝利を今でも思い出せます。
その後は横浜FCを最後に現役を引退し、現在はハートフルクラブのコーチです。体型も雰囲気も現役当時と変わらないので、以前埼スタでサッカー教室の片付けをしていた姿を見ましたが、すぐに遠目からでも室井だとわかりました。今はハートフルクラブの子供たちより、親の世代の方が熱狂する世代になったでしょうが、こういう形で浦和とかかわっているのは嬉しいことです。