毎度恒例、オフネタの昔の試合の記憶です。今回、2019年ラグビーW杯が話題になっていますが、2002年W杯日韓大会のチケット争奪戦は異常とも言える過熱ぶりでした。当時の私は、生観戦の機会を逃しては一生後悔すると思って、ありとあらゆるチャンスに応募したところ、奇跡的に埼スタの日本対ベルギーを生観戦する機会を得ることができました。
当時の席は、バックアッパースタンドの前の方でした。今の私がそのスタンドに座っていたら、日本のみならずベルギーの情報も集めて、マニアックな分析記事を何本も書いたでしょう。しかし、当時の私は病魔に苦しみ、何度かあったベルギー代表の映像を見ても頭に何も入って来ず、何も情報のないチームを何となく見てしまうという痛恨事を喫しました。
そのため、最初はベルギー代表の布陣を見て、3バックか4バックか探ろうとしていましたが、10分ほどで断念し、こんな機会はなかなかないから日本代表の応援をしようと切り替えました。この経験は今にも生きており、わからなかったら無理に探ろうとせず、別の情報を集めながらわかったことを記事にすればいいと気付きました。
当時の日本代表にとって、W杯の経験は3戦全敗だったフランスW杯しかなかった頃です。ベルギーに先制点が入ると「やっぱりだめか」とスタンドが落胆しているのが見て取れました。しかし、中田英寿だけは違いました。日本イレブンに「下を向くな」と鼓舞してチームを前に向かせると、小野伸二の左からのクロスに鈴木隆行がつま先で触ってコースを変えて同点ゴールを得ることに成功します。
その後は、ボランチ稲本潤一の好調ぶりが光りました。勝ち越しゴールも決めると、ダイナミックに何度も上がってきてチャンスに絡み、ファウルで取り消されたもののあわや3点目かというシュートも枠に飛ばしています。最後はベルギーFWビルモッツに同点ゴールを食って試合は引き分けに終わったものの、勝ち点1が取れたとスタジアムは前向きな雰囲気でした。
あとで雑誌で得た情報によれば、当時の日本代表はトルシエ監督が導入したフラット3を自分たちで手直しして、オフサイドを無理に取りに行かない戦術を取っていたようです。そのように、トルシエ監督こそこの引き分けの要因ではなかったようですが、当時は日本代表を、世界を股にかける職業監督に変えてもらうことが必要な時代だったと振り返ります。
当時の席は、バックアッパースタンドの前の方でした。今の私がそのスタンドに座っていたら、日本のみならずベルギーの情報も集めて、マニアックな分析記事を何本も書いたでしょう。しかし、当時の私は病魔に苦しみ、何度かあったベルギー代表の映像を見ても頭に何も入って来ず、何も情報のないチームを何となく見てしまうという痛恨事を喫しました。
そのため、最初はベルギー代表の布陣を見て、3バックか4バックか探ろうとしていましたが、10分ほどで断念し、こんな機会はなかなかないから日本代表の応援をしようと切り替えました。この経験は今にも生きており、わからなかったら無理に探ろうとせず、別の情報を集めながらわかったことを記事にすればいいと気付きました。
当時の日本代表にとって、W杯の経験は3戦全敗だったフランスW杯しかなかった頃です。ベルギーに先制点が入ると「やっぱりだめか」とスタンドが落胆しているのが見て取れました。しかし、中田英寿だけは違いました。日本イレブンに「下を向くな」と鼓舞してチームを前に向かせると、小野伸二の左からのクロスに鈴木隆行がつま先で触ってコースを変えて同点ゴールを得ることに成功します。
その後は、ボランチ稲本潤一の好調ぶりが光りました。勝ち越しゴールも決めると、ダイナミックに何度も上がってきてチャンスに絡み、ファウルで取り消されたもののあわや3点目かというシュートも枠に飛ばしています。最後はベルギーFWビルモッツに同点ゴールを食って試合は引き分けに終わったものの、勝ち点1が取れたとスタジアムは前向きな雰囲気でした。
あとで雑誌で得た情報によれば、当時の日本代表はトルシエ監督が導入したフラット3を自分たちで手直しして、オフサイドを無理に取りに行かない戦術を取っていたようです。そのように、トルシエ監督こそこの引き分けの要因ではなかったようですが、当時は日本代表を、世界を股にかける職業監督に変えてもらうことが必要な時代だったと振り返ります。