先日実家の両親を訪ねたところ、仏間になにやら緑色をして長さ2mくらいの工具が置いてありました。
「あれはなに?」
「ああ、あれね。電動耕運機さ」
「電動耕運機?何するの?」
「もう畑を起こすのが大変で、爺ちゃんも『もう俺もできん』って言うからさ。ちょうど新聞の広告に1万円の耕運機が出ていたから、1万円なら失敗してもいいか、とおもって買っちゃった」
確かに実家の庭は数坪ほどが畑になっていて、毎年トマトやキュウリを植えて自家菜園を楽しんでいます。
しかし父はもうすぐ91で母も88になろうとしている今年。「できないんだったら畑を止めたら」と言っても、「なんでさ、土地がもったいないしょ」とにべもありません。
まだ家庭菜園でたくさんの収穫があることを夢見ているのでしょう。
私としては、両親のどちらももう体のあちこちが痛くて、それほど農作業などできないのじゃないか、と思うのですが、本人たちにしてみれば「去年もできたのだから今年も同じように」という思いが強いのでしょうか。
変えるべきことやもう諦めるべきことに執着してしまうのが脳の老化なのではないか、と思う反面、それは我が身を振り返ればまさに自分自身のことでもあります。
もう捨てるべき本ややりもしない趣味の道具、もう着ることのない服などが家のそこここを占拠して、狭い家がますます狭くなっています。
その一冊、一着を捨てることができない執着心や、やる気にならない怠惰もまた脳の老化に違いありません。
私が両親を見て残念に思っているということは、娘たちからもやや残念な親に見られているのか、と思うと、ちょっと背筋を伸ばさなくては、と思います。
机の上を少しだけ片づけてみました。
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