先日電話での実家の母との会話。
私が「介護の勉強を始めた」と言うと、「いいね、まだまだ介護をしてくれる人は足りないみたいだからねえ」
「若い年寄りがより高齢の年寄りを支えるなんてことができるのかどうか、実験してみるよ」
すると母は「そうそう、足りないと言えばまだまだ施設も足りないんだよね」と言います。
「小樽に私の同級生(男性、89歳)がいるんだけど、軽い認知症と肺気腫になっているのさ。電話がときどきかかってくるんだけどゼイゼイして苦しいんだって。まだ酸素ボンベをつけるほどではないんだけどさ」
その男性は奥さんとはもう死に別れていて、要介護の認定を受けて、毎日1時間のヘルパーさんをお願いしているのだそう。
ヘルパーさんは1時間の間に、掃除をしておかずを作り、その間にお風呂も入るのだと。
お風呂の最中に具合が悪くなるといけないということで、「お風呂に張っている間にもずっと『大丈夫ですか?』と声をかけてくれるから安心だ」と言っているとのこと。
ただ、こうやって毎日ヘルパーさんを頼んでいても、持病のある高齢の男性一人が居宅で日常の暮らしを営んでいくのはもう本当に大変なのだと。
男性は年金で入れる経度認知症のグループホームがあるなら入りたい、という意向を持っているそうですが、小樽ではそういうところがないのだそう。
札幌になら2か所くらいあるけれど、空きがなくて入れない。
「『長生きをするのも大変だ』と言っていて、聞けば聞くほど可哀想になってくるよ」
幸いなことに私も妻もそれぞれ実家は両親が存命で、助け合いながらなんとか日常をこなしていますが、さていよいよこれからは大変になることでしょう。
それでも両親は週に一度町内のマージャンの会に夫婦で参加して、午後はカラオケで声を出しているというので、まだ大丈夫なのだと思っていました。
ところが母の口からは、「いやあカラオケもコロナで中止の時間が長かったせいか、最近曲が流れても歌えないのさ」という不安な言葉が。
「だって歌詞は画面に出るでしょう?」
「歌詞はいいけど、メロディが浮かばないのさ。イントロを聞いても思い出せなくて、いやあ酷いもんだね」
うーむ、カラオケに行くのは良いけれど、歌が思い出せないというのはちょっと不安です。
"歳を取る"というのは、こうやって少しずつできないことが増えてゆくことなのでしょうね。
世の中には高齢者と壮年者と青年という人種がいるわけではありません。
一人ひとりの人生の中の「高齢期」「壮年期」「青年期」があるだけです。
誰もがなる高齢期です。
世代間を分断するような言説には注意をしないといけませんね。
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