「集団的自衛権」容認問題の続き。今日の新聞では諸紙様々ながら「歯止めがある」「歯止めにならない」と両論ある。しかし、本来「歯止め」があるという方がおかしい。「歯止め」「限定」というけど、本来の限定は「憲法9条」である。憲法9条があるのに「集団的自衛権」が認められるというのなら、もうその段階で「歯止め」を突破されているので、あとは政権の都合でいくらでも「拡大解釈」できる。よく読めばそのように読めるようにちゃんと書いてある。
昨日のニュースで「認めたからと言って、すぐに戦争になるとは思わない。だから賛成だ」という人もいたが、当たり前である。今、アメリカが本格的に遂行している戦争がないんだから。まだ、閣議決定だけで法律が成立しているわけではないけど、来たるべき法律というのは、「テロ対策」とか「イラク」とかの「特措法」の恒常化である。もういちいち「特措法」を作ることなく、内閣の決断で自衛隊を戦地に送れるようになるはずである。「自衛隊のいるところが、戦地ではないところ」などと小泉首相のような「誰が見ても苦しい詭弁」を使う必要が無くなる。その時点での首相は他の人かもしれないが。
「集団的自衛権」を認めると、中国と衝突するのではないかなどという人もいる。賛成という人にも反対という人にも。でも、それもおかしい。中国とフィリピンやベトナムが南シナ海で「軍事衝突」したとする。国連安保理に問題が持ち込まれても、中国が拒否権を使うので、効果的な対策はできない。だから、中国やロシアが絡む(日本とは関係のない)武力紛争に日本が直接派兵することは考えられない。日本が「出兵」するとしたら、「中東危機」にあたり、米中ロが一致して「イスラーム勢力」と対峙するような事態が起こった時になると思う。
今回の議論の中で「拙速である」とか「本来は憲法改正を必要とする問題だ」というのがあった。もちろん、その通りである。その通りなんだけど、僕はそういう言い方の批判はしない。安倍政権はたしかに、タテマエとして反対意見も聞いてみるということもしない。思い込みで突っ走る。「殿、ご乱心」と止める配下もいない。だけど、それはおかしいではないかと反対してると、仮に野党が政権を取っても「プロセスを大切にする」ということに時間を取られて何も進まなくなる。皆の意見を聞くということで、弱い者の意見も丁寧に聞くという時に、強い者の意見も聞かないわけにはいかないから、両方の意見を聞くと結局話し合いを続けても強い者の意見が通ってしまう。それでは、「話し合いに何の意味があるのか」と皆が不信感を持つ。こうして、安倍首相が「タテマエとしての公平なんて、どうでもいいんだもんね」とどんどん進んで行くことで、「民主主義そのものへの不信」が社会全体に広まってしまうのである。
本来は改憲するべき問題だ、というのも全くその通りだと思うけど、そう言う反対論が当たり前になるとともに、「首相が改憲を言い出す」ことへのハードルが低くなってしまう。だから、いずれ「自分としては今の憲法9条で集団的自衛権は容認されると考えているけれど、多くの人からご批判、ご心配も頂いたので、この際はっきりと憲法を改正して置く方がいいのではないかという判断に至った」と堂々と語る日がもうすぐ来るのだろうと思う。いよいよ本丸を攻める前に、外堀に続き、内堀の埋め立ても終わったということだ。なんとか大阪方をだましこんで、内堀まで埋めてしまう。安倍首相がとにかく「限定」が付こうが何でもいいから「文言上で集団的自衛権容認という形だけ作れればいい」という感じなのは、要するにホントの目的は「本丸」(憲法改正)であり、今回は堀を埋めちゃうことが目的だからだろう。
だけど、こうして「戦後のタテマエ」を次々とぶっ壊してしまっていいのだろうか。どんどん「とんでもない議論」が進んで行く可能性がある。本来は、自衛隊は「専守防衛」ということで、なんとか「個別的自衛権はある」という論理で成立していた。本来、憲法9条で日本は戦力を保持できないということなら、日本が侵略を受けた場合にどうするんだということで、それが「日米安全保障条約」の存立根拠だったはずである。日米安保が存在するには、自衛隊の戦力が強すぎてはおかしい。他国の戦争に派兵できるぐらい自衛隊が強いんだったら、「自分の国は自分で守る」という考えの方が正しいはずではないのか。そうすると、「アメリカ従属型軍事主義者」(安倍首相)を飛び越えて、「日本自立主義型軍事膨張主義」を呼び起こすきっかけになりかねない。安倍首相がもっと右から非難される日も近いだろうと思う。
もう一つは「象徴天皇制」の行方である。天皇制を残すためには、日本が戦力を保持したままでは不可能と踏んで、占領軍は「憲法9条」を「押し付けた」と考えられる。(よく「押し付け憲法」という人がいるが、押し付けられたのは憲法9条ではなく、憲法1条の方である。)そういう歴史的経緯を考えると、「憲法9条」=「東京裁判」(天皇ではなく軍部が悪い)=「象徴天皇制」=「日米安保条約」は一つのセットになっていたと理解するべきだろう。昭和天皇が戦犯合祀以来靖国神社参拝をやめたのも、こういう経緯を理解していて、天皇制維持の為だったのと思う。
日本の歴史を見れば、「実質的な象徴天皇制」の時代の方が圧倒的に長い。そういう日本の歴史にフィットしていたから、戦後の発明である「象徴天皇制」も、いつの間にかなんだか「定着」したかに見える事態が生じてきた。そういう時代の中で、憲法9条「無力化」と靖国神社参拝(東京裁判否認)を実行した安倍首相は、「日米安保」と「象徴天皇制」はどうするつもりなんだろうか。恐らく、それは以下のようなものだろうと思う。「日米安保」は国連安保理が機能しない(中ロが拒否権を使うから、アメリカ軍に依存するしかない)という論理で、維持強化を図る。もっと言えば、アメリカを総司令官とする体制の中で「中国方面司令官」の位置を確保しようとする。
天皇制に関しては、象徴天皇制をやめ、もっと強化した「天皇元首制」にする。強化された軍事力の権威としては天皇以上に強い影響力を持つものはないからである。昨年の「国家主権回復の日」の最後に「天皇陛下万歳」の声が会場で沸き起こったとかいうのが、その先駆けだろう。ところで、天皇制のあり方は国民が決めることであるのは当然だけど、天皇が軍事に利用された明治以後の「大日本帝国憲法」の時代こそが、天皇制史上最大の危機を招き寄せたのである。天皇家の知恵はそのことを理解していて、天皇が軍事の象徴ではなく、平和の象徴である方が天皇制の維持にはふさわしいと思っているのではないかと思う。そのことが、一部の理解で「皇室が今や最大の護憲勢力」などと言う人がいる背景なのではないか。自民党の改憲案にあるように、安倍首相は明確に「反象徴天皇制論者」なのであって、今後ますますその側面を強めていくのではないかと思う。
昨日のニュースで「認めたからと言って、すぐに戦争になるとは思わない。だから賛成だ」という人もいたが、当たり前である。今、アメリカが本格的に遂行している戦争がないんだから。まだ、閣議決定だけで法律が成立しているわけではないけど、来たるべき法律というのは、「テロ対策」とか「イラク」とかの「特措法」の恒常化である。もういちいち「特措法」を作ることなく、内閣の決断で自衛隊を戦地に送れるようになるはずである。「自衛隊のいるところが、戦地ではないところ」などと小泉首相のような「誰が見ても苦しい詭弁」を使う必要が無くなる。その時点での首相は他の人かもしれないが。
「集団的自衛権」を認めると、中国と衝突するのではないかなどという人もいる。賛成という人にも反対という人にも。でも、それもおかしい。中国とフィリピンやベトナムが南シナ海で「軍事衝突」したとする。国連安保理に問題が持ち込まれても、中国が拒否権を使うので、効果的な対策はできない。だから、中国やロシアが絡む(日本とは関係のない)武力紛争に日本が直接派兵することは考えられない。日本が「出兵」するとしたら、「中東危機」にあたり、米中ロが一致して「イスラーム勢力」と対峙するような事態が起こった時になると思う。
今回の議論の中で「拙速である」とか「本来は憲法改正を必要とする問題だ」というのがあった。もちろん、その通りである。その通りなんだけど、僕はそういう言い方の批判はしない。安倍政権はたしかに、タテマエとして反対意見も聞いてみるということもしない。思い込みで突っ走る。「殿、ご乱心」と止める配下もいない。だけど、それはおかしいではないかと反対してると、仮に野党が政権を取っても「プロセスを大切にする」ということに時間を取られて何も進まなくなる。皆の意見を聞くということで、弱い者の意見も丁寧に聞くという時に、強い者の意見も聞かないわけにはいかないから、両方の意見を聞くと結局話し合いを続けても強い者の意見が通ってしまう。それでは、「話し合いに何の意味があるのか」と皆が不信感を持つ。こうして、安倍首相が「タテマエとしての公平なんて、どうでもいいんだもんね」とどんどん進んで行くことで、「民主主義そのものへの不信」が社会全体に広まってしまうのである。
本来は改憲するべき問題だ、というのも全くその通りだと思うけど、そう言う反対論が当たり前になるとともに、「首相が改憲を言い出す」ことへのハードルが低くなってしまう。だから、いずれ「自分としては今の憲法9条で集団的自衛権は容認されると考えているけれど、多くの人からご批判、ご心配も頂いたので、この際はっきりと憲法を改正して置く方がいいのではないかという判断に至った」と堂々と語る日がもうすぐ来るのだろうと思う。いよいよ本丸を攻める前に、外堀に続き、内堀の埋め立ても終わったということだ。なんとか大阪方をだましこんで、内堀まで埋めてしまう。安倍首相がとにかく「限定」が付こうが何でもいいから「文言上で集団的自衛権容認という形だけ作れればいい」という感じなのは、要するにホントの目的は「本丸」(憲法改正)であり、今回は堀を埋めちゃうことが目的だからだろう。
だけど、こうして「戦後のタテマエ」を次々とぶっ壊してしまっていいのだろうか。どんどん「とんでもない議論」が進んで行く可能性がある。本来は、自衛隊は「専守防衛」ということで、なんとか「個別的自衛権はある」という論理で成立していた。本来、憲法9条で日本は戦力を保持できないということなら、日本が侵略を受けた場合にどうするんだということで、それが「日米安全保障条約」の存立根拠だったはずである。日米安保が存在するには、自衛隊の戦力が強すぎてはおかしい。他国の戦争に派兵できるぐらい自衛隊が強いんだったら、「自分の国は自分で守る」という考えの方が正しいはずではないのか。そうすると、「アメリカ従属型軍事主義者」(安倍首相)を飛び越えて、「日本自立主義型軍事膨張主義」を呼び起こすきっかけになりかねない。安倍首相がもっと右から非難される日も近いだろうと思う。
もう一つは「象徴天皇制」の行方である。天皇制を残すためには、日本が戦力を保持したままでは不可能と踏んで、占領軍は「憲法9条」を「押し付けた」と考えられる。(よく「押し付け憲法」という人がいるが、押し付けられたのは憲法9条ではなく、憲法1条の方である。)そういう歴史的経緯を考えると、「憲法9条」=「東京裁判」(天皇ではなく軍部が悪い)=「象徴天皇制」=「日米安保条約」は一つのセットになっていたと理解するべきだろう。昭和天皇が戦犯合祀以来靖国神社参拝をやめたのも、こういう経緯を理解していて、天皇制維持の為だったのと思う。
日本の歴史を見れば、「実質的な象徴天皇制」の時代の方が圧倒的に長い。そういう日本の歴史にフィットしていたから、戦後の発明である「象徴天皇制」も、いつの間にかなんだか「定着」したかに見える事態が生じてきた。そういう時代の中で、憲法9条「無力化」と靖国神社参拝(東京裁判否認)を実行した安倍首相は、「日米安保」と「象徴天皇制」はどうするつもりなんだろうか。恐らく、それは以下のようなものだろうと思う。「日米安保」は国連安保理が機能しない(中ロが拒否権を使うから、アメリカ軍に依存するしかない)という論理で、維持強化を図る。もっと言えば、アメリカを総司令官とする体制の中で「中国方面司令官」の位置を確保しようとする。
天皇制に関しては、象徴天皇制をやめ、もっと強化した「天皇元首制」にする。強化された軍事力の権威としては天皇以上に強い影響力を持つものはないからである。昨年の「国家主権回復の日」の最後に「天皇陛下万歳」の声が会場で沸き起こったとかいうのが、その先駆けだろう。ところで、天皇制のあり方は国民が決めることであるのは当然だけど、天皇が軍事に利用された明治以後の「大日本帝国憲法」の時代こそが、天皇制史上最大の危機を招き寄せたのである。天皇家の知恵はそのことを理解していて、天皇が軍事の象徴ではなく、平和の象徴である方が天皇制の維持にはふさわしいと思っているのではないかと思う。そのことが、一部の理解で「皇室が今や最大の護憲勢力」などと言う人がいる背景なのではないか。自民党の改憲案にあるように、安倍首相は明確に「反象徴天皇制論者」なのであって、今後ますますその側面を強めていくのではないかと思う。