尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

安倍内閣の危険性-「集団的自衛権」容認をめぐって②

2014年07月02日 13時16分12秒 |  〃  (安倍政権論)
 「集団的自衛権」容認問題の続き。今日の新聞では諸紙様々ながら「歯止めがある」「歯止めにならない」と両論ある。しかし、本来「歯止め」があるという方がおかしい。「歯止め」「限定」というけど、本来の限定は「憲法9条」である。憲法9条があるのに「集団的自衛権」が認められるというのなら、もうその段階で「歯止め」を突破されているので、あとは政権の都合でいくらでも「拡大解釈」できる。よく読めばそのように読めるようにちゃんと書いてある。

 昨日のニュースで「認めたからと言って、すぐに戦争になるとは思わない。だから賛成だ」という人もいたが、当たり前である。今、アメリカが本格的に遂行している戦争がないんだから。まだ、閣議決定だけで法律が成立しているわけではないけど、来たるべき法律というのは、「テロ対策」とか「イラク」とかの「特措法」の恒常化である。もういちいち「特措法」を作ることなく、内閣の決断で自衛隊を戦地に送れるようになるはずである。「自衛隊のいるところが、戦地ではないところ」などと小泉首相のような「誰が見ても苦しい詭弁」を使う必要が無くなる。その時点での首相は他の人かもしれないが。

 「集団的自衛権」を認めると、中国と衝突するのではないかなどという人もいる。賛成という人にも反対という人にも。でも、それもおかしい。中国とフィリピンやベトナムが南シナ海で「軍事衝突」したとする。国連安保理に問題が持ち込まれても、中国が拒否権を使うので、効果的な対策はできない。だから、中国やロシアが絡む(日本とは関係のない)武力紛争に日本が直接派兵することは考えられない。日本が「出兵」するとしたら、「中東危機」にあたり、米中ロが一致して「イスラーム勢力」と対峙するような事態が起こった時になると思う。

 今回の議論の中で「拙速である」とか「本来は憲法改正を必要とする問題だ」というのがあった。もちろん、その通りである。その通りなんだけど、僕はそういう言い方の批判はしない。安倍政権はたしかに、タテマエとして反対意見も聞いてみるということもしない。思い込みで突っ走る。「殿、ご乱心」と止める配下もいない。だけど、それはおかしいではないかと反対してると、仮に野党が政権を取っても「プロセスを大切にする」ということに時間を取られて何も進まなくなる。皆の意見を聞くということで、弱い者の意見も丁寧に聞くという時に、強い者の意見も聞かないわけにはいかないから、両方の意見を聞くと結局話し合いを続けても強い者の意見が通ってしまう。それでは、「話し合いに何の意味があるのか」と皆が不信感を持つ。こうして、安倍首相が「タテマエとしての公平なんて、どうでもいいんだもんね」とどんどん進んで行くことで、「民主主義そのものへの不信」が社会全体に広まってしまうのである。

 本来は改憲するべき問題だ、というのも全くその通りだと思うけど、そう言う反対論が当たり前になるとともに、「首相が改憲を言い出す」ことへのハードルが低くなってしまう。だから、いずれ「自分としては今の憲法9条で集団的自衛権は容認されると考えているけれど、多くの人からご批判、ご心配も頂いたので、この際はっきりと憲法を改正して置く方がいいのではないかという判断に至った」と堂々と語る日がもうすぐ来るのだろうと思う。いよいよ本丸を攻める前に、外堀に続き、内堀の埋め立ても終わったということだ。なんとか大阪方をだましこんで、内堀まで埋めてしまう。安倍首相がとにかく「限定」が付こうが何でもいいから「文言上で集団的自衛権容認という形だけ作れればいい」という感じなのは、要するにホントの目的は「本丸」(憲法改正)であり、今回は堀を埋めちゃうことが目的だからだろう。

 だけど、こうして「戦後のタテマエ」を次々とぶっ壊してしまっていいのだろうか。どんどん「とんでもない議論」が進んで行く可能性がある。本来は、自衛隊は「専守防衛」ということで、なんとか「個別的自衛権はある」という論理で成立していた。本来、憲法9条で日本は戦力を保持できないということなら、日本が侵略を受けた場合にどうするんだということで、それが「日米安全保障条約」の存立根拠だったはずである。日米安保が存在するには、自衛隊の戦力が強すぎてはおかしい。他国の戦争に派兵できるぐらい自衛隊が強いんだったら、「自分の国は自分で守る」という考えの方が正しいはずではないのか。そうすると、「アメリカ従属型軍事主義者」(安倍首相)を飛び越えて、「日本自立主義型軍事膨張主義」を呼び起こすきっかけになりかねない。安倍首相がもっと右から非難される日も近いだろうと思う。

 もう一つは「象徴天皇制」の行方である。天皇制を残すためには、日本が戦力を保持したままでは不可能と踏んで、占領軍は「憲法9条」を「押し付けた」と考えられる。(よく「押し付け憲法」という人がいるが、押し付けられたのは憲法9条ではなく、憲法1条の方である。)そういう歴史的経緯を考えると、「憲法9条」=「東京裁判」(天皇ではなく軍部が悪い)=「象徴天皇制」=「日米安保条約」は一つのセットになっていたと理解するべきだろう。昭和天皇が戦犯合祀以来靖国神社参拝をやめたのも、こういう経緯を理解していて、天皇制維持の為だったのと思う。

 日本の歴史を見れば、「実質的な象徴天皇制」の時代の方が圧倒的に長い。そういう日本の歴史にフィットしていたから、戦後の発明である「象徴天皇制」も、いつの間にかなんだか「定着」したかに見える事態が生じてきた。そういう時代の中で、憲法9条「無力化」と靖国神社参拝(東京裁判否認)を実行した安倍首相は、「日米安保」と「象徴天皇制」はどうするつもりなんだろうか。恐らく、それは以下のようなものだろうと思う。「日米安保」は国連安保理が機能しない(中ロが拒否権を使うから、アメリカ軍に依存するしかない)という論理で、維持強化を図る。もっと言えば、アメリカを総司令官とする体制の中で「中国方面司令官」の位置を確保しようとする

 天皇制に関しては、象徴天皇制をやめ、もっと強化した「天皇元首制」にする。強化された軍事力の権威としては天皇以上に強い影響力を持つものはないからである。昨年の「国家主権回復の日」の最後に「天皇陛下万歳」の声が会場で沸き起こったとかいうのが、その先駆けだろう。ところで、天皇制のあり方は国民が決めることであるのは当然だけど、天皇が軍事に利用された明治以後の「大日本帝国憲法」の時代こそが、天皇制史上最大の危機を招き寄せたのである。天皇家の知恵はそのことを理解していて、天皇が軍事の象徴ではなく、平和の象徴である方が天皇制の維持にはふさわしいと思っているのではないかと思う。そのことが、一部の理解で「皇室が今や最大の護憲勢力」などと言う人がいる背景なのではないか。自民党の改憲案にあるように、安倍首相は明確に「反象徴天皇制論者」なのであって、今後ますますその側面を強めていくのではないかと思う。
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「集団的自衛権」容認をめぐって①

2014年07月02日 00時23分00秒 |  〃  (安倍政権論)
 「集団的自衛権」の問題は5月末に4回ほど書いて中途になっているんだけど、7月1日についに「限定容認」とか言って閣議決定になった。この問題はいろいろ書くべきことが多くて、書き始めると長くなって他のことが書けない。その割に思っほどの反響もないので、何だか書く気が失せていたんだけど、ニュースを見ていて書いておかないといけないと思うことがあり、2回ほど書こうと思う。(ほんとは第一次世界大戦百年の話を書きたいと思っていたのだが、それはこの次に。)

 もう安倍首相が何を考えているのか、全く判らないのである。湾岸戦争にもイラク戦争にも参加せず、「我が国の存立が脅かされ」「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される」時だけに限定するというんだったら、「個別的自衛権」そのものではないのか。「個別的自衛権」で対応可能な範囲なんだったら、今までは「個別的自衛権の拡大」で処理してきたわけである。

 それをあえて「集団的自衛権」という言葉を使うから、多くの人が「今回の『限定』はアリの一穴であって、やがてもっと大きくするための準備」であり、やがてアメリカに強く言われたらどこでもくっ付いて自衛隊を出すんじゃないかと思うのである。そう思われるのは判っていて、何とか理由をつけて「集団的」という言葉を使いたがり、靖国神社にも参拝する。どう見ても自衛隊をどこかの戦場に出す日を想定しているのではないか。僕もそう判断しているのである。

 ニュースを見てたら、賛成という人がいてビックリした。中国当局の船が尖閣諸島近辺に毎日のように来ている、そういう情勢を見ると集団的自衛権容認に賛成だという人がいた。おいおい、日本人の論理的思考力は大丈夫だろうか。僕には意味が分からないのだが、あえて想像してみると「中国が尖閣諸島を占拠したりしたら、米軍に日米安保条約の条文通りに助けに来てもらわないといけないから、日本もアメリカの言うとおり湾岸戦争でもイラク戦争でも助力しますと言っておく必要がある」ということだろうか。そうだとすると、安倍首相の「限定」はなくさないといけない。そう言うべきだろう。でも僕には、尖閣は個別的自衛権そのものの問題なんだから、何で集団的自衛権を持ち出すのか意味が判らないのである。

 そうすると「集団的自衛権」というのは、自国以外の戦争に軍隊を送ることだということが判っていないという可能性もある。あるいは、とにかく「アメリカに恩を売る」ということが大好きな「買弁的性格」なのかもしれない。日本の自衛隊というのは、「専守防衛」だったはずだが、他国の問題に口を突っ込めるほど強いのか。もし日本が「集団的自衛権行使」ができるんだったら、日米安全保障条約はいらない、ということになるはずだと思うけど違うだろうか。

 それにしても、これほど大きな憲法解釈変更を国会論議ゼロで決めるというのも、あまりにもバカにした話だ。例えば「残業代ゼロ」問題も、そういう問題を議論する場に労働者代表が誰もいない。連合から一人くらい出ていても実質の意味はないのは確かである。それは法務省の「可視化」論議で、弁護士会や「有識者」が少し入っていても大勢を覆せなかったのを見れば明らかである。でも、今までは「多少は意見を聞いたふり」をするものだったのである。今の安倍内閣は、「もう面倒くさいから、自分たちだけで決めるから」とタテマエとしての平等性をも放棄している。

 「自分たちは選挙で信任を受けている」という発言こそが一番の大問題だったと今にして思う。だから憲法解釈を変えられるんだったら、憲法は時の内閣で変更可能な「単なる法律」と同じである。法律は衆参で多数を取れば変えられるが、国家の最高法規である憲法は変えられない。そこに憲法の価値があったわけだけど、これでは憲法の価値はないに等しい。それが目標なんだろうけど。もし安倍首相の言うようなことがある程度理解できるとしたら、「憲法解釈の変更」を主要な争点にして選挙に勝利した内閣のばあいだけではないだろうか。そういうことを言わずに、選挙で圧勝したら何でもできるというようなやり方は国民を分断する。もうそうなっている。日本全体が大阪みたいな感じになりつつある。

 この問題については、「公明党ガンバレ」という人もけっこういたけど、その公明党は「政策の違いで連立離脱はしない」と最初から言っているんだから、いつか合意するのである。総てのプロセスが全部シナリオ通りだったとまでは言わないが、「国会中の合意を目指す」と安倍首相が急がせ、それに対し公明党が「抵抗」して7月まで引っ張り、「限りなく限定をつけさせたという決着」は誰が見ても「シナリオ通り」だろう。政策が一致するから連立に入るはずなんだけど、政策が違うのに何で連立してるんだろうか。これが「オトナの対応」というヤツで、普天間問題で連立を抜けた社民党や消費税対応で分裂した民主党の方がおかしいということなのだろうか。僕には全く判らない話である。
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