尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

映画「her 世界でひとつの彼女」

2014年07月28日 23時37分21秒 |  〃  (新作外国映画)
 7月に見た新作映画をまとめて書きたいと思ったけど、今日見た「her 世界でひとつの彼女」が非常に興味深かったので、この映画だけ取り上げたい。今年のアカデミー賞オリジナル脚本賞受賞作品で、作品賞にもノミネートされた。この映画は、「人工知能」に恋してしまった男という「ワン・アイディア」を練り上げた作品で、確かに作品そのものとしては物足りない面もあると思うけど、結構いろいろなことを考えてしまい、「哲学的」な気分もちょっと味わえる(?)。声のナレーションを担当しているスカーレット・ヨハンソンがローマ映画祭で主演女優賞を獲得してしまったという映画でもある。
 
 主人公セオドア(ホアキン・フェニックス)は、手紙の代筆業をしている。幼なじみの妻と別居して、ふさぎがちの毎日である。ある日、誰より人間らしい人工知能(AI)を「購入」して、パソコンに「彼女」が住みつくことになる。「彼女」か「彼」かは選択可能で、セオドアは「彼女」を選択したので女性の声になるわけである。名前はサマンサ。これもAIが無数の名前を検索して一番いいと思った名を自分でつけたのである。このサマンサは人間の感情を理解できるようにプログラムされている。もちろんものすごいスピードで「読み取る」ことができるので、パソコン内を自由に読みまくって、いらないメールは削除しようと提案できる。ものすごく便利な「秘書」を雇ったようなものである。

 こうして孤独な毎日を「彼女」と過ごすうちに、彼はサマンサを「恋する」ようになる。しかし、それは「恋」?肉体のないヴァーチャルな存在と恋愛することは可能なのか?しかし、「初めての恋」にときめく「彼女」の「ときめき」は刺激的。でも、だんだん「感情的な行違い」も起こってくる。そして、思いがけない結末に…。

 監督・脚本はスパイク・ジョーンズ。「マルコヴィッチの穴」とか「アダプテーション」とかの不可思議な映画を作った人。ウィキペディアを見ると、かつてソフィア・コッポラと結婚していて、離婚後ミシェル・ウィリアムズと交際、破局後の今は菊池凜子と交際していると出ていた。主演のホアキン・フェニックスは夭折したリバー・フェニックスの弟で、「ウォーク・ザ・ライン」のジョニー・キャッシュや「ザ・マスター」の新興宗教に加わる退役軍人役など印象に残る。今回はありえないような「一人恋愛」という難役を見事に演じている。でもサマンサのスカーレット・ヨハンソンあってこそかもしれない。

 この映画の面白みは、「恋愛の本質」を見る者に考えさせるところにあると思う。人工知能というかコンピュータとの恋愛は可能かというテーマも面白いし、これからはこういう世界になっていくのかと思わせる面もある。日本では「将棋ソフト」と本物の棋士との対局が行われているけど、いくらコンピュータが進化しようと、プログラマーがプログラムした以上に「進化」して自分でルールを改編するなどということはありえない。この映画で自由に考え判断し感情を持つような「人工知能」が描かれているけど、まあそこまでは無理だろう。

 でも、例えば「ペットの本質とは何か」と考えると、エサをあげたり排泄の世話をしなければならない「生きた動物」より「ロボットのペット」の方が楽だという人はいるだろう。だけど、それはペットを飼うという点では間違っている。まあそう思うけど、「ペット」である以上、飼い主に楽な方がいいではないかという考えもあるかと思う。しかし、恋愛は?「生身の人間」との面倒な関わりなくして、肉体のない「人工知能」と会話を楽しむ方がずっと心休まるだろうとも思うけど。

 一体「それは恋愛と言えるのか」と反問はできるけど、「恋愛でなくていいから、自分の気持ちが楽な方が優先する」と言われたらどうなのか?人工知能との「関係」が楽なのは、すべてのデータを相手が知っているからでもある。また、「恋愛という以上、セックスという問題はどうするのか」という大問題もある。この映画は、その問題に対して様々な思いがけないアイディアを示している。当然、人工知能の方も「性欲」を理解し共有できるという設定になっている。そうなると、毎日「会話」しているAIとの交際の方が、「写真花嫁」なんかよりずっと健全なのではないかという気もしてきた。

 「恋愛に肉体は不可欠か」と問いを立てると、愛する者が死んだあとはもう恋愛とは言えないのかということになる。病気で性的接触ができない状態となり、それがきっかけで別れたり別の異性を求める場合も多いだろうけど、別れないで「セックスはないけど、精神的に結びついた恋愛関係」を継続する人だっているだろうと思う。しかし、性関係はなくてもいいかもしれないが、病身でも看病や介護する「肉体」があるが、人工知能では接触することができない。これでは「初めから死んでいるのと同じ」ではないのか。だけど小説や映画、マンガなどの登場人物に「恋する」人は昔からいるだろうし。今やヴァーチャルなアイドルまでいる時代だし。

 「物語の本質は記憶」なんだろうなあと思う。登山をしているとして、登頂に成功して写真を撮ったりすることで、一歩一歩登って行った苦しい時間は「登頂した」という物語に回収される。その苦しい時間につきそって撮影を続けて記録映画を作ることはできる。そういう映像はいっぱいある。でも撮影クルーの方も登山していて苦しいはずだが、それは描かれない。人生も何か(仕事でもセックスでも食事でも排泄行為でも…)をしている間は、「名づけられない」肉体の動きをしている。終わった後で自分で「恋愛」などと名付けるのだと思う。誰かアドバイザーが欲しかったセオドアは、AIじゃなくて犬でも良かったし、他の女性でも良かったのではないかと思う。その時点では、肉体の有無は二の次だろう。しかし、「持続的な恋愛」になるためにはやはり足りないものがあった。

 ところで、サマンサの声はどうしてスカーレット・ヨハンソンだったのか。コンピュータ風の合成音声だったら、恋愛対象になっただろうか。いくら進化したという設定であるとはいえ、女優が演じるような音声が出るということなら、それは恋愛対象になってもおかしくはない感じがしてくる。でも、それってセオドアはスカーレット・ヨハンソンに恋していたということが、この映画の本質ではないのか。などと、つらつら考えてしまった。映画そのものとしては、確かにいま一つの面があると思うけど、何か気になって考えてしまうという意味では面白い映画ではないかと思う。
コメント (1)
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