荷風の「日和下駄」を何十年ぶりに読んでみて、いろいろなことを考えた。読む前は「日和下駄」を読んで荷風が行ったところを訪ねたいような気持があったけど、どうもテーマごとに羅列されていて難しい。「断腸亭日乗」を読めば、いつどこへ行ったか判るはずだと思ったら、日記は1917年からだった。「日和下駄」の時代は、まだ慶應の教授だったのである。何だか完全に孤独になり切ってから散歩を始めたようなイメージがあるが、それは間違いだった。ところで荷風の散歩スタイルというのは、かなり独自のものである。「人並はずれて丈(せい)が高い上にわたしはいつも日和下駄をはき蝙蝠傘(こうもりがさ)を持って歩く。」(ちなみに文章には読点が非常に少なく、なれないうちは読みにくい。今の文章も読点(、)を書き忘れたわけではない。)荷風の東京散歩に関しては、以下で触れる「狐」「伝通院」なども収録された岩波現代文庫、川本三郎編「荷風語録」が役に立つ。)
荷風が新宿区余丁町の邸宅を「断腸亭」と名付けたのは、胃腸が弱かったからだという。中州に知り合いの病院があって、通院したあとで下町散歩に出かけている様子が日記によく出てくる。(中州というのは、今の中央区箱崎のあたりで、今は埋め立てられているけど、当時は川の中州だった。佐藤春夫「美しい町」の舞台となったところ。)昔の人は足が強いけれど、それにしても通院後の散歩にしては歩き過ぎではないかと思う。今はコンビニがどこでもあるし、ペットボトルもある。僕は夏は水筒(というか「真空断熱ケータイマグ」ですね)を持ってくことが多い。当時は水分補給はどうしていたのか。はたまたトイレはどうしてる?そういうことは出ていないのだが、今の散歩なら考える必要もないことでも苦労が多かったはずである。(大体、坂道を下駄で歩くのは現代人には辛い。)
荷風は坂道を苦にしないように見える。それは「坂の町」で生まれ育ったからである。荷風が生まれ育ったのは、文京区小石川の安藤坂のあたりである。春日の文京区役所(シビックセンター)のところから春日通りを西へしばらく行くと冨坂署があり「伝通院」という交差点がある。そこで春日通りと直角に交わるのが「安藤坂」である。その坂道の途中、文京三中の向かいあたりの小道を奥へ奥へと入っていく。そこに「荷風生育の地」というプレートがある。実際に生まれたところは、そのすぐ先をさらに奥へ入ったところだとある。下の写真の路地を入って行って、4枚目の写真「稲森ハイツ」というところが、番地で言えば永井家のあったところらしい。なお、安藤坂を少し下ると、明治初期に中島歌子の塾「萩の舎」があった場所がある。1886年から樋口一葉が通っていたところで、時期的には一葉と荷風が道ですれ違っていたかもしれない。
もうこれだけでずいぶん坂の坂の坂と歩いてくる感じで、これは実は東京東部に住む人間としては新鮮である。荷風はじめ山の手人種は、東京東部の川のある風景を「発見」して喜ぶらしいのだが、それは東部の人には毎日のただの日常風景である。逆にこういう坂道を歩くと新鮮なんだけど、毎日駅に行くにも大変だなあと心配もする。荷風の父という人は新政府の有力官僚で、結構大きな大邸宅を構えていた。坂下に貧民長屋ができると困るというので、坂の下まで買い取ったと小説「狐」に出ている。この「狐」という短編は、昔高校の教科書で読んで印象深かった。もう一度読みたいと思っていたが、今回やっと読んでみた。なんだか山の手がロシアの貴族の領地みたいなツルゲーネフ風の作品だけど、気持ちの繊細な少年が強大な父権の下で苦しむ様子が身につまされる。明治初期には、東京のこんなところにも狐が住んでいたのである。
安藤坂を登りきると「伝通院」がある。「でんずういん」と読むとある。このあたり一帯の坂道が荷風少年の遊び場だった。ここは「小石川という高台の絶頂でありまた中心点」というべき地で、伝通院は芝の増上寺、上野の寛永寺と並ぶ徳川家の三霊山だとある。何しろ、家康の生母於大の方や千姫の墓のあるところなのである。エッセイ「伝通院」によると、米仏からの帰朝後、余丁町に移っていた荷風が久しぶりに生地の付近を訪ねたことがあった。もう生家は人手に渡り、しばらくすると取り壊された。伝通院ばかりが昔通りかと思うと、荷風が訪ねた日の夜に本堂が焼失してしまったのだという。今の東京ドーム、後楽園遊園地は陸軍の砲兵工廠だった。明治の富国強兵の時代に、江戸が東京へと移り変わって、荷風の思い出は失われていったのである。今は山門も真新しく、また名士の墓も多い。それはまた別にまとめるとして、於大と千姫の墓の写真を。
荷風の名を始めて聞いたのは、多分親に連れられ浅草へ行ったときだと思う。すごく小さな時分である。東京には地下鉄がまだ少ない時代で、家では浅草の松屋に買い物に行き、屋上で子ども遊ばせることが多かった。永井荷風というエライ作家が毎日通ったという「キッチン・アリゾナ」はここだと教えられた。店の様子をうっすら覚えているので、入ったこともあったのかもしれない。だから小さい時から親しい名前なんだけど、読んだのはだいぶあとである。「花柳小説」が多く、芸者や娼婦、「カフェの女給」なんかの話が多いイメージだから、高校生ぐらいでは敬遠してしまう。その後、荷風が戦後ずっと住んだ千葉県市川市に自分が住んだ時代がある。また玉ノ井の近くの高校にも勤務した。東京東部にしか縁がないのかと思っていたら、最後になって荷風が長く住んだ麻布・六本木にも勤務することになった。文学散歩するヒマもないながら、案外荷風との縁が続いたのである。
荷風は「下町」の風景に近代化を免れた江戸の情緒を「発見」したような人と思っている人もいる。でも、それは間違っていると思う。荷風の目は冷徹で、「下町の人情」などを持ち上げる人ではない。自分がリッチな生まれなので、「階級降下」して零細な路地を歩き回るのが新鮮だった。でも、そこに「理想」を見出しているわけではない。「滅び行く風景」に殉じる気持ちはあっただろうけど、荷風だって路面電車で通っているのである。木の橋が鉄の橋に架け替えられるのを嘆いて見ても始まらないぐらいは、もちろん判っていたはずである。でも俗物どもが闊歩する「まがい物の近代日本」が心底いやだったのである。だから明治の東京を嫌悪して江戸の名残りを探し求めた。
今回読み直して、特に印象的だったのは震災や戦災よりはるか前に、「東京の古き良きものはもうない」「明治人が壊してしまった」と判断していたことである。今の時代の人間は、古き江戸や明治東京には情緒があったのだが、それは大地震や戦争によって失われてしまったと思い込みがちである。しかし、そういった「外部の力」によってではなく、東京は東京人の手で壊されてきたということである。震災、戦災の前に、明治大正の「市区改正」があり、戦後の「東京五輪」と「バブル」があった。荷風が長く住んだ麻布六本木一帯は大資本の手により、地形そのものが壊されてしまった。今の「大資本の町」が何を壊してきたか、そして次の東京五輪に向けさらに大規模な破壊が進むのではないかと危惧される時代を考えるために、荷風の散歩はお手本になり続けるのではないかと思う。
荷風が新宿区余丁町の邸宅を「断腸亭」と名付けたのは、胃腸が弱かったからだという。中州に知り合いの病院があって、通院したあとで下町散歩に出かけている様子が日記によく出てくる。(中州というのは、今の中央区箱崎のあたりで、今は埋め立てられているけど、当時は川の中州だった。佐藤春夫「美しい町」の舞台となったところ。)昔の人は足が強いけれど、それにしても通院後の散歩にしては歩き過ぎではないかと思う。今はコンビニがどこでもあるし、ペットボトルもある。僕は夏は水筒(というか「真空断熱ケータイマグ」ですね)を持ってくことが多い。当時は水分補給はどうしていたのか。はたまたトイレはどうしてる?そういうことは出ていないのだが、今の散歩なら考える必要もないことでも苦労が多かったはずである。(大体、坂道を下駄で歩くのは現代人には辛い。)
荷風は坂道を苦にしないように見える。それは「坂の町」で生まれ育ったからである。荷風が生まれ育ったのは、文京区小石川の安藤坂のあたりである。春日の文京区役所(シビックセンター)のところから春日通りを西へしばらく行くと冨坂署があり「伝通院」という交差点がある。そこで春日通りと直角に交わるのが「安藤坂」である。その坂道の途中、文京三中の向かいあたりの小道を奥へ奥へと入っていく。そこに「荷風生育の地」というプレートがある。実際に生まれたところは、そのすぐ先をさらに奥へ入ったところだとある。下の写真の路地を入って行って、4枚目の写真「稲森ハイツ」というところが、番地で言えば永井家のあったところらしい。なお、安藤坂を少し下ると、明治初期に中島歌子の塾「萩の舎」があった場所がある。1886年から樋口一葉が通っていたところで、時期的には一葉と荷風が道ですれ違っていたかもしれない。
もうこれだけでずいぶん坂の坂の坂と歩いてくる感じで、これは実は東京東部に住む人間としては新鮮である。荷風はじめ山の手人種は、東京東部の川のある風景を「発見」して喜ぶらしいのだが、それは東部の人には毎日のただの日常風景である。逆にこういう坂道を歩くと新鮮なんだけど、毎日駅に行くにも大変だなあと心配もする。荷風の父という人は新政府の有力官僚で、結構大きな大邸宅を構えていた。坂下に貧民長屋ができると困るというので、坂の下まで買い取ったと小説「狐」に出ている。この「狐」という短編は、昔高校の教科書で読んで印象深かった。もう一度読みたいと思っていたが、今回やっと読んでみた。なんだか山の手がロシアの貴族の領地みたいなツルゲーネフ風の作品だけど、気持ちの繊細な少年が強大な父権の下で苦しむ様子が身につまされる。明治初期には、東京のこんなところにも狐が住んでいたのである。
安藤坂を登りきると「伝通院」がある。「でんずういん」と読むとある。このあたり一帯の坂道が荷風少年の遊び場だった。ここは「小石川という高台の絶頂でありまた中心点」というべき地で、伝通院は芝の増上寺、上野の寛永寺と並ぶ徳川家の三霊山だとある。何しろ、家康の生母於大の方や千姫の墓のあるところなのである。エッセイ「伝通院」によると、米仏からの帰朝後、余丁町に移っていた荷風が久しぶりに生地の付近を訪ねたことがあった。もう生家は人手に渡り、しばらくすると取り壊された。伝通院ばかりが昔通りかと思うと、荷風が訪ねた日の夜に本堂が焼失してしまったのだという。今の東京ドーム、後楽園遊園地は陸軍の砲兵工廠だった。明治の富国強兵の時代に、江戸が東京へと移り変わって、荷風の思い出は失われていったのである。今は山門も真新しく、また名士の墓も多い。それはまた別にまとめるとして、於大と千姫の墓の写真を。
荷風の名を始めて聞いたのは、多分親に連れられ浅草へ行ったときだと思う。すごく小さな時分である。東京には地下鉄がまだ少ない時代で、家では浅草の松屋に買い物に行き、屋上で子ども遊ばせることが多かった。永井荷風というエライ作家が毎日通ったという「キッチン・アリゾナ」はここだと教えられた。店の様子をうっすら覚えているので、入ったこともあったのかもしれない。だから小さい時から親しい名前なんだけど、読んだのはだいぶあとである。「花柳小説」が多く、芸者や娼婦、「カフェの女給」なんかの話が多いイメージだから、高校生ぐらいでは敬遠してしまう。その後、荷風が戦後ずっと住んだ千葉県市川市に自分が住んだ時代がある。また玉ノ井の近くの高校にも勤務した。東京東部にしか縁がないのかと思っていたら、最後になって荷風が長く住んだ麻布・六本木にも勤務することになった。文学散歩するヒマもないながら、案外荷風との縁が続いたのである。
荷風は「下町」の風景に近代化を免れた江戸の情緒を「発見」したような人と思っている人もいる。でも、それは間違っていると思う。荷風の目は冷徹で、「下町の人情」などを持ち上げる人ではない。自分がリッチな生まれなので、「階級降下」して零細な路地を歩き回るのが新鮮だった。でも、そこに「理想」を見出しているわけではない。「滅び行く風景」に殉じる気持ちはあっただろうけど、荷風だって路面電車で通っているのである。木の橋が鉄の橋に架け替えられるのを嘆いて見ても始まらないぐらいは、もちろん判っていたはずである。でも俗物どもが闊歩する「まがい物の近代日本」が心底いやだったのである。だから明治の東京を嫌悪して江戸の名残りを探し求めた。
今回読み直して、特に印象的だったのは震災や戦災よりはるか前に、「東京の古き良きものはもうない」「明治人が壊してしまった」と判断していたことである。今の時代の人間は、古き江戸や明治東京には情緒があったのだが、それは大地震や戦争によって失われてしまったと思い込みがちである。しかし、そういった「外部の力」によってではなく、東京は東京人の手で壊されてきたということである。震災、戦災の前に、明治大正の「市区改正」があり、戦後の「東京五輪」と「バブル」があった。荷風が長く住んだ麻布六本木一帯は大資本の手により、地形そのものが壊されてしまった。今の「大資本の町」が何を壊してきたか、そして次の東京五輪に向けさらに大規模な破壊が進むのではないかと危惧される時代を考えるために、荷風の散歩はお手本になり続けるのではないかと思う。