荷風散人の跡を慕い、東京の路地や水辺を歩きまわって明治大正昭和の名残りを訪ね、さらには江戸のよすがまでを探ろうとする人は数多い。検索するといくつも見つかるのである。かくいう僕自身ももちろん、永井荷風は昔から好きな作家だ。昔も今も散歩する志の底に荷風の面影があるのは言うまでもない。思い立って久しぶりに読み返しながら、「荷風散歩」を折々に書いて行きたいと思う。
2014年は第一次世界大戦から100年だという記事を書いたけれど、実はそれは「日和下駄」100年を書く前提として書いたのである。「日和下駄」(ひよりげた)という作品は、東京散歩のバイブルのような位置を獲得するに至った散歩記だが、「水」だの「坂」だのといった章立ての中に「淫祠」(いんし)や「路地」、「閑地」(あきち)、「崖」、「夕陽」などの印象的なテーマを散りばめている。実に先駆的というしかない視点だ。(「日和下駄」は講談社文芸文庫や岩波文庫「永井荷風随筆集(上)」などで読むことができる。今回は数年前に買った文芸文庫で読んだ。)

僕が初めて「日和下駄」を読んだのは大学時代のことで、もう二昔以上もも前のことになる。当時大活躍していた前田愛先生(「樋口一葉の世界」「成島柳北」「都市空間のなかの文学」などの名著がある)の講義を取ったところ、「日和下駄」を扱っていたのである。前田先生からすれば、まさに荷風こそ「都市空間」への視点を持った先駆者だったことだろう。ゼミで一葉の井戸や玉ノ井近辺を散歩した思い出も懐かしい。(史学科ながら前田ゼミにも顔を出していたのである。1987年に56歳で亡くなるとは、あまりにも残念なことだった。ちょうどそのとき僕は穂高に登っていて、下山して帰宅後に初めて知って驚いたが、もう葬儀も終わっていたのである。)
ところでその頃は、「文学散歩の達人」のような「趣味人」(ディレッタント)といった視点で「日和下駄」をとらえていた気がする。荷風は「市中の散歩は子供の時から好きであった」と言い、「その日その日を送るになりたけ世間に顔を出さず金を使わず相手を要せず自分一人で勝手に呑気(のんき)にくらす方法をと色々考えた結果の一ツが市中のぶらぶら歩きとなったのである。」などと作中で韜晦している。しかし、荷風の歩き始めが「大正三年夏の初めころよりおよそ一歳あまり、月々雑誌三田文学に連載したり」とあるのを読み、違った観点もありうるのではないかと思った。大正3年は1914年で、本になったのは1915年である。だから、真の「日和下駄」百年は1915年だとも言えるかもしれないが、荷風が歩き始めた時点は、まさに第一次世界大戦が始まって、日本も参戦しようかという時点ではないか。
永井荷風(1879~1959)は、1894年の日清戦争の時点ではまだ15歳だから学業途中だった。その10年後の1904年が日露戦争だけど、1903年から1908年までアメリカ、フランスに遊学していたので、開戦直前に日本を去っていた。全く日露戦争や日比谷焼打ち事件を知らないのである。だから、第一次世界大戦は荷風が大人として、職業人として(1910年2月から1916年2月まで、慶應義塾大学文学部教授を務めていた)、初めて迎えた「宣戦布告」だった。その時の荷風の行動が東京散歩に興じるということだった。これは「一種の国内亡命」じゃないだろうか。一種の社会的な抵抗、「いやな感じ」の社会を生きていくための一つのスタイルが、荷風の散歩の本質だったのではないか。
かの最高傑作「濹東綺譚」に書かれた玉ノ井(現在の墨田区東向島)を初めて訪れたのは、1936年3月のことだった。これは「二・二六事件」の翌月ではないか。軍人が崇められる武張った時代になると、荷風はどうも表通りを歩けなくなり巷の路地に沈潜するのではないか。何だかそんな気もして、荷風が懐かしく感じられるのである。
荷風の生涯を簡単にたどるのは次回に回し、あと一つだけ書くことにする。僕は荷風の小説などをちょっと読んだだけで、特に荷風研究をしているわけではない。だからきっと誰かもう指摘しているんだろうけど、荷風の邸宅と大逆事件の「位置的な関わり」が近いことに驚いた。それが「散歩の効用」というものだろう。荷風は今の文京区小石川の生まれだが、父は内務官僚で新政府の高官だった。生まれたのも父の邸宅だが、その後永田町の官舎や麹町などを経て、1902年に牛込区大久保に父が新邸宅を築いて転居した。まだ23歳で親がかりの時代だから、有力者の父が生家を売り払って新たに大邸宅を作れば、不満でも一緒に移るしかない。こここそが日記の題として有名な「断腸亭」である。今の地名で言えば、新宿区余丁町。都営地下鉄大江戸線若松河田駅から10分ほど、東京女子医大病院の近くである。その辺りの建物に説明プレートがある。

そこから大通りを渡って見える緑の空間が「余丁町児童遊園」で、そこにくっ付いて「富久町児童遊園」がある。このあたり一帯は、1903年から1922年まで「東京監獄」だった。今の言葉でいう「拘置所」で、未決囚と死刑囚を拘束した場所である。(今は葛飾区小菅に東京拘置所がある。)「死刑囚」は「刑罰としての懲役」はないから刑が確定しても刑務所には行かない。執行まで拘置所にいるわけで、明治から大正の時代にはここにあったのだ。つまり、大逆事件の被告たちは1911年に、この近くで処刑されたわけである。現在は児童遊園になっている場所の一角に、戦後になって日弁連が建てた「刑死者慰霊塔」が建っている。市ヶ谷刑務所、市谷監獄などと明治大正の社会主義文献に出てくるのもここ。

この一帯は坂になっていて、坂の上が邸宅地、坂の下が貧民街や拘置所だったのである。明治東京の最大の貧民窟と言われた四谷の鮫が橋とは、ここからさらにもう少し四谷方面に下った地帯のことである。荷風が大逆事件に衝撃を受けて、自分は戯作者として生きるしかないと思い定めたというのは有名なエピソードだけど、この位置関係を見れば、初めてその衝撃の心理が実感されるのではないだろうか。次の写真の1枚目、右の緑が余丁町児童遊園で、左の道の信号の先あたりがプレートの場所である。プレート設置場所の直前に撮ったのが2枚目で、左奥に女子医大病院が見える。これが坂の上で、そこから下がってきた一帯に広大な永井邸があった。そして、さらに下れば東京監獄である。
2014年は第一次世界大戦から100年だという記事を書いたけれど、実はそれは「日和下駄」100年を書く前提として書いたのである。「日和下駄」(ひよりげた)という作品は、東京散歩のバイブルのような位置を獲得するに至った散歩記だが、「水」だの「坂」だのといった章立ての中に「淫祠」(いんし)や「路地」、「閑地」(あきち)、「崖」、「夕陽」などの印象的なテーマを散りばめている。実に先駆的というしかない視点だ。(「日和下駄」は講談社文芸文庫や岩波文庫「永井荷風随筆集(上)」などで読むことができる。今回は数年前に買った文芸文庫で読んだ。)

僕が初めて「日和下駄」を読んだのは大学時代のことで、もう二昔以上もも前のことになる。当時大活躍していた前田愛先生(「樋口一葉の世界」「成島柳北」「都市空間のなかの文学」などの名著がある)の講義を取ったところ、「日和下駄」を扱っていたのである。前田先生からすれば、まさに荷風こそ「都市空間」への視点を持った先駆者だったことだろう。ゼミで一葉の井戸や玉ノ井近辺を散歩した思い出も懐かしい。(史学科ながら前田ゼミにも顔を出していたのである。1987年に56歳で亡くなるとは、あまりにも残念なことだった。ちょうどそのとき僕は穂高に登っていて、下山して帰宅後に初めて知って驚いたが、もう葬儀も終わっていたのである。)
ところでその頃は、「文学散歩の達人」のような「趣味人」(ディレッタント)といった視点で「日和下駄」をとらえていた気がする。荷風は「市中の散歩は子供の時から好きであった」と言い、「その日その日を送るになりたけ世間に顔を出さず金を使わず相手を要せず自分一人で勝手に呑気(のんき)にくらす方法をと色々考えた結果の一ツが市中のぶらぶら歩きとなったのである。」などと作中で韜晦している。しかし、荷風の歩き始めが「大正三年夏の初めころよりおよそ一歳あまり、月々雑誌三田文学に連載したり」とあるのを読み、違った観点もありうるのではないかと思った。大正3年は1914年で、本になったのは1915年である。だから、真の「日和下駄」百年は1915年だとも言えるかもしれないが、荷風が歩き始めた時点は、まさに第一次世界大戦が始まって、日本も参戦しようかという時点ではないか。
永井荷風(1879~1959)は、1894年の日清戦争の時点ではまだ15歳だから学業途中だった。その10年後の1904年が日露戦争だけど、1903年から1908年までアメリカ、フランスに遊学していたので、開戦直前に日本を去っていた。全く日露戦争や日比谷焼打ち事件を知らないのである。だから、第一次世界大戦は荷風が大人として、職業人として(1910年2月から1916年2月まで、慶應義塾大学文学部教授を務めていた)、初めて迎えた「宣戦布告」だった。その時の荷風の行動が東京散歩に興じるということだった。これは「一種の国内亡命」じゃないだろうか。一種の社会的な抵抗、「いやな感じ」の社会を生きていくための一つのスタイルが、荷風の散歩の本質だったのではないか。
かの最高傑作「濹東綺譚」に書かれた玉ノ井(現在の墨田区東向島)を初めて訪れたのは、1936年3月のことだった。これは「二・二六事件」の翌月ではないか。軍人が崇められる武張った時代になると、荷風はどうも表通りを歩けなくなり巷の路地に沈潜するのではないか。何だかそんな気もして、荷風が懐かしく感じられるのである。
荷風の生涯を簡単にたどるのは次回に回し、あと一つだけ書くことにする。僕は荷風の小説などをちょっと読んだだけで、特に荷風研究をしているわけではない。だからきっと誰かもう指摘しているんだろうけど、荷風の邸宅と大逆事件の「位置的な関わり」が近いことに驚いた。それが「散歩の効用」というものだろう。荷風は今の文京区小石川の生まれだが、父は内務官僚で新政府の高官だった。生まれたのも父の邸宅だが、その後永田町の官舎や麹町などを経て、1902年に牛込区大久保に父が新邸宅を築いて転居した。まだ23歳で親がかりの時代だから、有力者の父が生家を売り払って新たに大邸宅を作れば、不満でも一緒に移るしかない。こここそが日記の題として有名な「断腸亭」である。今の地名で言えば、新宿区余丁町。都営地下鉄大江戸線若松河田駅から10分ほど、東京女子医大病院の近くである。その辺りの建物に説明プレートがある。


そこから大通りを渡って見える緑の空間が「余丁町児童遊園」で、そこにくっ付いて「富久町児童遊園」がある。このあたり一帯は、1903年から1922年まで「東京監獄」だった。今の言葉でいう「拘置所」で、未決囚と死刑囚を拘束した場所である。(今は葛飾区小菅に東京拘置所がある。)「死刑囚」は「刑罰としての懲役」はないから刑が確定しても刑務所には行かない。執行まで拘置所にいるわけで、明治から大正の時代にはここにあったのだ。つまり、大逆事件の被告たちは1911年に、この近くで処刑されたわけである。現在は児童遊園になっている場所の一角に、戦後になって日弁連が建てた「刑死者慰霊塔」が建っている。市ヶ谷刑務所、市谷監獄などと明治大正の社会主義文献に出てくるのもここ。


この一帯は坂になっていて、坂の上が邸宅地、坂の下が貧民街や拘置所だったのである。明治東京の最大の貧民窟と言われた四谷の鮫が橋とは、ここからさらにもう少し四谷方面に下った地帯のことである。荷風が大逆事件に衝撃を受けて、自分は戯作者として生きるしかないと思い定めたというのは有名なエピソードだけど、この位置関係を見れば、初めてその衝撃の心理が実感されるのではないだろうか。次の写真の1枚目、右の緑が余丁町児童遊園で、左の道の信号の先あたりがプレートの場所である。プレート設置場所の直前に撮ったのが2枚目で、左奥に女子医大病院が見える。これが坂の上で、そこから下がってきた一帯に広大な永井邸があった。そして、さらに下れば東京監獄である。

