尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

裁判員裁判と死刑問題

2015年02月09日 23時19分28秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 映画の話をはさみながら、「イスラム国」問題を書いておきたいと思うのだが、その前に「裁判員裁判と死刑」の問題を書いておきたい。1審の裁判員裁判で「死刑」の判決だった事件が、2審の控訴審で無期懲役に減刑されたという2つのケースがあった。検察側が上告していたが、それに対して最高裁は2月3日付で上告を退ける決定を行い、2審の無期懲役判決が確定した。この問題に対して、新聞の社説でも各紙が取り上げているが、それよりも僕はラジオ番組で聞いた「解説」にたまげてしまった。その番組では「もう一回、裁判員裁判をやって、また死刑だったらどうするんでしょうか」なんて言ってた。三鷹のストーカー事件(ちなみに1審判決は懲役22年)の2審判決(地裁に差し戻し)と混同しているのである。また、「国民が仕事を休んで、重い決断をした判決を官僚裁判官が変えていいのか」などと非難していた。ちょっとビックリである。

 最高裁の判断そのものを批判することは自由だけど、そもそも「裁判員制度で出た判決は、変えてはいけない」とでもいうような議論は、間違いとしか言えない。被告人は、1審判決に納得できなければ、控訴、上告する権利を持っている。何だか「裁判員裁判に関しては、1審だけにするべきだ」とでも思い込んでいる人がいるのかもしれない。でも、もちろん控訴、上告できるわけで、上級審で審査した結果として、判決が変更されることもありうる。そういう制度に、日本の裁判はなっているのだから。

 また最高裁の役割は、「憲法の判断」と「判例の統一」である。だから、「憲法違反」か「判例違反」がないと最高裁に上告できない。(そのことは案外知らない人がいる。)単なる「量刑不当」は、そもそも上告理由にならない。「量刑はどうするか」は、被告人を前にして事実の取り調べをする、1審、2審で基本的には決めるべきことである。もっとも、量刑不当、あるいは事実誤認を最高裁が認めることもある。最高裁は、「職権で事実調べ」ができるし、事実認定をやり直し新しい判決を出すこともできる。しかし、それは例外中の例外で、基本的には最高裁は法律問題を議論する場であって、だから最高裁で行われる弁論や判決には、刑事事件の被告人は出廷しない。(そのこと知らないのか、例えば秋葉原事件などで、「最高裁判決に被告は出廷しなかった」などと書くマスコミもある。)

 国民は「法の下に平等」であるはずだが、同じような性格の事件を起こした被告が、ある裁判員裁判では死刑になり、また他の裁判員裁判では無期懲役となるというのでは、裁判としてはおかしいと思う方が普通だと思う。量刑の基準というのは難しいものである。というか、「ルールの境目」は何にしても難しい。サッカーの試合で、ある行為にファウルを宣告するかしないか。相撲の取り組みで物言いがついて取り直しにするかしないか。そういう境目は難しいわけだけど、特に死刑制度がある国では、死刑とそれ以下の刑の境目を、ある程度は示すことが出来ても、事件ごとに事情が微妙に違うから、その判断は難しい。どうするかと言えば、最高裁まで争ってそこで決着させるしかない。

 ところで、刑事裁判というものは、「二重構造」になっている。まず、第一段階として「検察側の証拠で有罪が立証できたか」を判断し、第二段階として「有罪を認定した場合は、量刑をどの程度にすべきか」を判断するわけである。言うまでもなく、今回の最高裁決定は、この「第二段階」に関わるものである。しかし、裁判員制度の問題を考えるのならば、「第一段階の判断」をめぐる問題こそ重大なものではないか。つまり、裁判員裁判で無罪判決だったものが、2審で有罪となり、最高裁で確定した。さらに、裁判員制度で有罪判決だったものが、2審で無罪となり、最高裁で確定した。そういうケースはあるかと言えば、検索すればすぐ判ることなので敢えて細かいことは書かないが、どっちの事例も存在する。そっちの方が問題ではないか。有罪判決を受けた被告が上訴する権利は奪えないと思うが、国民が無罪と判断した裁判では、検察側は上訴できないという制度の国は多い

 裁判員裁判で、特に死刑判決を出すというのは、非常に「重い判断」が求められるのは間違いない。しかし、それは裁判員制度の問題ではなく、死刑制度の方の問題である。世界に裁判員、あるいは陪審員を国民が務める国は多い。というか、世界の主要国ではほとんど行っている。だから、日本国民だって、司法に関与するということ、それ自体は当然のことだと思う。だけど、多分、国民が選ばれて裁判に参加して死刑判決を出す国は、日本だけではないだろうか。ヨーロッパ諸国では、裁判員または参審員という制度がある国が多いが、もとよりすべての国で死刑は廃止されている。アメリカ合衆国では死刑制度がある州とない州が混在しているが、いずれにせよ陪審裁判なので、国民は有罪か無罪かだけを判断する。日本もその方がいい。

 死刑制度そのものも廃止するべきだと思っているのだが、それは別にして、国民は有罪か無罪かを判断するという制度の方がいいと思う。量刑は、今までの基準を知っているプロの裁判官が判断すればいいのではないだろうか。有罪か、無罪かは、検察側・弁護側の主張を聞いて常識で判断すればいいわけで、普通の一般常識がある国民ならできるはずだ。もし、単なる常識では判断が難しいようなケースがあれば、それは「疑わしきは被告人の利益に」とするしかないと思う。有罪か無罪かを争う裁判は、数は少ないから、被告・弁護側が有罪を認め、裁判員裁判を望まない場合は、敢えて裁判員裁判をする必要も無くなる。こうなれば、国民の「負担感」もかなり解消されるだろう。

 その結果、刑事事件の裁判員裁判が減少すると見込まれるので、民事裁判にも裁判員裁判を導入することを考慮すべきだと思う。民事裁判こそ、国民の考えを反映して行われるべき裁判ではないか。というのが、僕の裁判員制度に関する考えで、前にも少し書いたことがあるように思うけど、改めてまとめて書いた。裁判員の経験を他に漏らしてはいけないというのも、日本では異常に厳しい法規制となっている。教育をめぐる議論でも、「考える授業」への転換というのが求められている。裁判員制度というのも、本来は国民どうしが丁々発止と議論を飼わせるというのが前提となっている。しかし、日本社会はむしろ強い意見、多数の意見を見極め、その「流れ」に乗っていく、「空気」を読むというのが、生きる知恵のように思われている。そういう社会を変えていくためにも、国民同士の争いである民事裁判に、国民が関与できる仕組みが必要なのではないか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする