尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

洗足池と勝海舟の墓所-海舟散歩③

2015年05月26日 23時37分12秒 | 東京関東散歩
 勝海舟の墓所は、大田区の洗足池(せんぞくいけ)というところにある。この付近に大田区が勝海舟の記念館を作るという計画があるらしく、最近の新聞でこの池のことを知った。その時まで全く知らなかったのである。僕の周辺で聞いてみても、東京の北や東の方に住んでいる人は、ほとんど聞いたことがないようだ。存在そのものを知らないのである。東京人は他区の事情にうとい。自分の住まいから、山手線を超えて反対側の方へ行くことは、普通は全くないのである。特に東急電鉄の路線は複雑で、地元以外では判らないだろう。山手線の五反田駅から、東急池上線で6つ目に洗足池という駅がある。乗り換えすればいろいろ行き方があるが、これが一番簡単だろう。駅の出口は一つしかなくて、改札を出て歩道橋に上ると、もう向こう側に池とボート乗り場が見えてくるではないか。
  
 あまり素晴らしいので、ビックリした。こんないいところがあったのか。池では多くの人がボートに興じ、池の周りの公園では子どもたちが遊びまわっている。海舟の墓を載せる前に、洗足池そのものの写真を載せておきたい。ぐるっと周回できて、海舟の墓所を見ながら歩いて回って1時間強。真夏は暑いだろうが、春秋には東京有数の散歩コースではないか。もっと知られていい場所。洗足池そのものは、湧水池で今も水量豊富である。大田区の自然公園になっていて、桜の名所でもあるという。
   
 写真をクリックして大きくして見てくれると、素晴らしさが判るかと思う。最初の3枚は池の西側で、後の写真は東側、海舟の墓の近くである。さて、勝海舟の墓だが、まず駅を出て歩道橋を渡ってボート乗り場を見て中原街道を右の方に行く。洗足池図書館の方に左折し、少し行くと左に御松庵妙福寺というお寺がある。ここは日蓮上人が身延山から常陸に赴くときに袈裟をかけたという「袈裟掛けの松」がある。この地域は「千束」(せんぞく)という地名だが、日蓮が足を洗ったという伝説で「洗足池」と言うという説もあるらしい。日蓮像もある。では、そのお寺にちょっと寄り道。
    
 そのまま道を進むと、大森六中になっているが、そこが海舟の別邸「洗足軒」の跡地であると示す案内板がある。戊申戦争当時、西郷は近くの池上本門寺にまで来て、談判する途中で洗足池に立ち寄り気に入った。明治になって、津田仙(農学者、キリスト者として著名、津田梅子の父)の紹介で、池の周りの土地を買って別邸にしたという。当時としては、郊外の別天地である。中学の敷地を見ると、木々に覆われた起伏のある土地になっていて、うらやましいような環境である。(下の写真3枚目)
  
 そこを過ぎて少し行くと、右に行く道があり、今は使われていない建物が残っている。「鳳凰閣」という建物で、国登録有形文化財。1933年に作られた「清明文庫」があったところで、海舟の精神を生かして人材育成を行う「清明会」のあった場所。裏まで見にいくと面白い。整備される日が待ち遠しい。
   
 ようやく池の近くに戻ると、もう勝海舟の墓という案内が出てくる。非常によく整備された墓所で、後に妻も合葬されて一緒に葬られている。場所も風情もなかなかいい墓。
    
 墓に隣り合って、いくつかの碑が並んでいる。入口は別に作られているが、墓所からも行ける。そこが「西郷隆盛留魂祀」である。西南戦争後、勝が自費で立て南葛飾郡の薬妙寺にあったが、荒川放水路の掘削に伴い1913年に移転されたという。とにかく、勝海舟が賊軍であった時も西郷を顕彰して活動していたという証明である。
    
 碑がいっぱいあって何が何だか判らないが、隣に西郷の留魂詩碑というのもある。(下1枚目)また徳富蘇峰が西郷、勝の会談をたたえた詩の碑もある。(下2枚目)何だか判らないが、もう一つ字の読めない碑もあった。これで海舟散歩はオシマイ。ここまでで池の3分の1ぐらい。
  
 そこから戻ってもいいが、一周しようと思うと、弁天島を見て、墓の対岸あたりには洗足八幡神社がある。頼朝軍がこの地で野生馬をとらえ、それが宇治川先陣争いを演じた「池月」という名馬だということで、碑が作られている。行った当日は、その場でどこかのスポーツ少年団がバーベキューをやってて、うまく写真が撮れなかった。ぐるっと回ってボート乗り場に戻り、歩道橋を渡ると駅。「海舟散歩」は、下町から山の手、そして風光の地となかなか味があった。最後に写真の拾遺集。
    
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西郷・勝の会談場所は…海舟散歩②

2015年05月26日 00時30分45秒 | 東京関東散歩
 「海舟散歩」第1回は、スカイツリー直下の「下町」散歩だったけど、2回目は「都心」というか、「山の手」の方になる。勝海舟は江戸の人だが、案外海舟の史跡が少ない。海舟が一番活躍した幕末は、事実上、京・大坂が日本の首都であって、海舟も上方へ行っている時期が多い。咸臨丸でアメリカに向かったのは、浦賀(神奈川県)からだし。それに江戸で活躍しても、震災、空襲、五輪、バブルでほとんど昔のものは今の東京にない。だから、碑があるだけ。それがつまらなかったんだけど、逆に考えれば、碑で構わないなら東京には山ほどあると思うようになった。そこで碑めぐり。

 勝海舟の人生のハイライトは、西郷隆盛との会談ということになるだろう。薩長新政府軍の江戸総攻撃を前に、勝と西郷が腹蔵なく会談し、江戸城の無血開城が実現した。その結果、100万都市とも言われる江戸でぼう大な犠牲者が出ることを免れた。という一種の「神話化」がなされている。西郷はやはり大人物、海舟もよく西郷の懐に飛び込み、江戸市民と江戸の町と徳川家を救った…というわけである。そう言われているというより、勝海舟自身が盛んに自己神話化を推進していった。その談話集「氷川清話」にはそういう話がいっぱい載っている。でも西郷との友情はホンモノだろう。それ以前の第一次「長州征伐」時から付き合いがあり、西郷の死後も顕彰活動を続けた。次回に載せるが、海舟の墓のそばに西郷追悼の「留魂祀」があるぐらいである。さて、ではその会談はどこで行われたか。それは田町の薩摩藩江戸藩邸で行われたのである。
   
 その碑は山手線田町駅、というか都営地下鉄三田駅(浅草線、三田線)を出てすぐのところにある。第一田町ビルという大きなビルの真ん前にあって、地下から地上に出るとすぐのところにある。第一京浜国道に面していて、今は東京の繁華街。ここは慶應義塾大学の最寄駅で、海舟とはさまざまの因縁のあった福澤諭吉にゆかりの地として覚えている人の方が多いだろう。ここにこの会談の碑があるのも知らない人が多いのではないか。ところで、海舟は東京に都が移ったのも西郷のおかげと語っている。西郷・勝会談で、江戸が救われただけでなく、首都東京も生まれたのだと。これは過大評価というか、むしろ駄法螺に近いだろう。そもそも無血開城自体も、イギリスを初め列強の働きかけもあった。薩長政府側の「冷徹な政治判断」があってこその無血開城、首都移転(「東京奠都」=てんと)であるのはもちろんだ。彰義隊や函館戦争まで抵抗する勢力もいたけれど、まあ、江戸っ子も何となく新政府に取り込まれ、「帝都」の民として生きていった。会津やアメリカの南部では、今だに「恨み」が残り続けている。江戸を焼き払っていたなら、京・大坂の新政権が版籍奉還・廃藩置県など実現できただろうか。

 さて、明治になって勝海舟は東京・赤坂氷川町に住んだ。この「氷川町」は今はない地名で、赤坂6丁目になっている。晩年に海舟を訪ねて談話をまとめた本が「氷川清話」と題されたのは、そのためである。この本は読んだことがないので、今回読んでみた。やはり非常に面白い本だったけど、中味は結構いい加減である。まあ、自信満々のインタビューは大体そうだけど。でも初めて知ったことも多い。久能山東照宮に、家康だけでなく、信長、秀吉も祀ってあるなんてホントかという感じだが、調べたら本当なのである。それと、いくら機会があっても、外国からの援助を受けて幕府支配を続けることを考えなかったのは、やはりエライ。講談社学術文庫に入っている。また、中公クラシックスという新書大の名著集成シリーズが出ていて、それに父親の勝小吉「夢酔独言」と一緒に入っている。この「夢酔独言」について書くヒマが無くなったから、別に書くことにしたい。

 赤坂の屋敷跡地は、地下鉄千代田線赤坂駅の5aまたは5b出口を出て、真っ直ぐ。氷川公園を横に見て、ずっと坂を登ったところにある。屋敷の跡地は氷川小学校となり、廃校後は特養と中高生プラザになっている。その南東角に碑が作られている。施設内で屋敷からの出土品を展示しているが、まあ大したものはなかった。近くに「勝海舟邸跡地」という小さな別の碑(下の三番目の写真、真ん中に見える)があるが、場所を説明するのは難しいので、関心がある人は検索して探してください。
   
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