尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

伊藤隆「歴史と私」を読む

2015年05月15日 00時30分35秒 |  〃 (歴史・地理)
 伊藤隆東大名誉教授が自身の研究を振り返った回想録、「歴史と私」(中公新書)を非常に面白く読んだ。どうしようかなあと思ったんだけど、一応「面白く読みました」と記録を残しておくことにした。以下に記すように、伊藤氏とは立場が異なるところが多いのだが、「どうしようか」というのはその意味ではない。あまりに細かい人名が多く出てきて、これを面白い、面白いと読み進めるのは少数の人ではないかと思うのである。でも、歴史好き(特に近現代日本政治史)なら、こういう本がスラスラ読める。

 伊藤隆氏は「日本教育再生機構」の理事で、「育鵬社」の歴史教科書の著者代表である。以前は「新しい歴史教科書をつくる会」の理事をしていたが、藤岡信勝氏を批判して、八木秀次氏らと新グループに移った。しかし、扶桑社(産経新聞社の子会社)の子会社である育鵬社も、もちろん右派的な教科書作りを目的としている。自分は都立中高一貫校に扶桑社、育鵬社(および藤岡氏らが継続して作っている自由社)の教科書を採択することに反対する運動を続けてきた。

 だから歴史に対する考え方、立場は全く異なるし、読んでいて「カチンとくるところ」もかなり多い。しかし、左派・マルクス主義だけでなく、様々な人々をあけすけに批判していて、そこが興味深い。伊藤氏が近現代日本史を研究し始めたころは、史料ほとんど整備されていなかった。伊藤氏を中心に、膨大な近現代の政治家等の史料、オーラル・ヒストリーが発掘、整備されてきた。そのことはちょっと真剣に日本の近現代を調べた人なら、大体知っているだろう。政治的立場に関わらず、近現代日本を考えようと思う人は伊藤隆氏に大きな学恩を受けている。

 僕が面白いと思ったのは、多くの「史料の問題」が語られていることだ。「集めた史料をどうするか」ということである。近現代には「紙の史料」、つまり日記や手紙などが残されている。亡くなっても、それなりの政治家の場合など、遺族が箱にまとめたりして残していることが多い。だが、震災と戦災があって消失したものも多いし、遺族の引っ越し、家の改築などをきっかけに無くなっていく。日記には遺族や周辺の人物のプライバシーがいっぱい語られているから、遺族が公開を拒否する場合もある。「史料」の問題に関して網野善彦氏の「古文書返却の旅」(中公新書)と共に必読である。

 伊藤氏の史料探索法は、人事興信録をもとに、本人あるいは遺族の住所を調べて手紙を出すことである。100通出すと20通ぐらい返事が来て、そのうち半数の10通に史料があるという返事が来るという。例えば、若い時(東大社研時代)の小川平吉文書を挙げている。小川平吉は昭和戦前期の政党政治家で、宮沢喜一の祖父にあたる。長男の小川一平氏は終戦時の内閣書記官で、接触当時は後楽園副社長。史料はあると言われたが、長野県の別荘の蔵にある。見たくてたまらず、雪の中を押しかけて開けてもらったら、書簡や日記がたくさん出てきた。でも、読めない。近代文書は個性が強く、変体仮名も多くて読みにくい。昔は日記を書いてた人が多いが、大体はなぐり書きで読みにくいのである。
(小川平吉)
 小泉策太郎(三申)の文書を求めて家族を訪れたら、近くに由緒ありげな家があり「真崎」と出ている。ここが真崎甚三郎の家だったのである。そこから、今はよく使われている「真崎甚三郎日記」が出てきた。あるいは有馬頼寧の史料を求めに、直木賞作家の息子、有馬頼義に依頼する。こうした話が続々出てきて、木戸幸一伊藤博文徳富蘇峰重光葵等の史料が公刊された。もっと現代に近い人では、佐藤栄作日記の公刊がある。朝日から出た時のゴタゴタも興味深い。なお、佐藤日記は岸内閣期が抜けているが、その理由の推測にはビックリさせられる。
(真崎甚三郎)
 その後、著者はオーラル・ヒストリーに傾注する。岸信介中曽根康弘後藤田正晴渡邉恒雄竹下登など。有名な人の名前だけ挙げたが、実に多数の人々のインタビューを行っている。松野頼三海原治氏の話は特に面白かった。ここで挙げた名前で判るが、インタビューの対象はほとんど自民党の有力政治家か中央官僚で、社会運動家や民衆そのものは少ない。首相を務めた政治家の研究や史料発掘が重要なのは間違いないが、社会の底辺を生き抜いた人々のオーラル・ヒストリーはもっと面白いと思う。まあ、そういうものは、違う人がやればいいのだろうが。

 ちょっとビックリしたのが、「昭和天皇独白録」(「独白」ではないから、このネーミングはおかしいというのは同感)の英訳版の評価。「英訳はない」という立場に今も立っているのである。戦前の日本のあり方を「ファシズム」と呼ぶべきかどうかは、1970年代半ばに論争が起きた。そのきっかけが伊藤氏が雑誌「思想」に掲載した一文だった。昭和天皇の死後に、大江志乃夫氏と対談して「責任」をめぐって激論になったという話も出てくる。まあ、伊藤・大江の対談は成立が難しいだろうが、その時に「歴史研究において、責任という視点はありえない」と述べている。僕には全く理解できない。歴史学であれ、社会科学、人文科学、自然科学を問わず「研究には責任という視点が不可欠」と思うからである。

 最後に、60年代後半に中公から出て大ヒットした「日本の歴史」シリーズ(これは鉄道作家として後に著名となる宮脇俊三氏の手になる)の一巻、林茂「太平洋戦争」は本人が一行も書いていないとある。仕方ないから、伊藤隆坂野潤治古屋哲夫氏らで分担して書いたという。僕はこのシリーズを小学生時代に読んだ。もちろん全部は理解できなかったが、井上光貞、直木孝次郎氏と続く古代史に魅せられてしまった。色川大吉氏の明治期なども読んだが、とりわけ古代が面白かったのだ。樺美智子合同慰霊祭を行った話が冒頭に出てくるが、これも貴重な証言だ。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする