カナダのフランス語映画の俊英、グザヴィエ・ドラン監督の「Mommy(マミー)」を見た。弱冠25歳にして、2014年のカンヌ映画祭審査員特別賞を、ゴダールの「さらば愛の言葉よ」と共に受賞した映画である。138分とけっこう長い。グザヴィエ・ドランについては、昨年公開された「トム・アット・ザ・ファーム」の記事で触れている。セクシャル・マイノリティをテーマにすることが多いゲイの作家だが、今回はセクシャル・マイノリティではないテーマで、子どもだけでなく親の視点も取り入れている。
今4つの画像を載せたが、これはこの映画のチラシ。普通、映画のチラシはなぜかB5の大きさになっていて、演劇やコンサートのチラシがA4なのに比べて、一回り小さい。しかし、今回はそのB5のチラシがなくて、もっと小さな正方形のチラシが何種類も置いてある。一応、4種類集めたが、もっとあるのかもしれない。何でこういうことをするのか疑問だったが、映画を見てすぐ判った。画面の多きさが「正方形」(1:1)なのである。画面サイズはいくつかあるが、どの映画でも多少は横長の画面になっている。目が横に二つ並んでいる以上、その方が世界を豊かに描けると思うのが通常。だけど、この映画は左右両端をカットして、1:1の画面というかつて見たことがない描き方をしている。人物が多かったり、風景描写が重要な場合はそれでは不自由だと思うが、この映画は母と子、それに隣人というおもに3人しか出てこない。人物どうしの関係を凝縮して見せるには、適切だったかもしれない。
冒頭の字幕でで、2015年のカナダに新政権が出来て、公共医療政策が変えられ、特にS14という「問題を抱える子どもの親が、経済的困窮または身体的、精神的危機に陥った場合は、法的手続きを経ずに養育を放棄し施設に入院させる権利」を保障した法が可決されたとでてくる。そういう設定の映画だと、一種の「近未来SF」あるいは「歴史改編もの」になる場合が多いが、この映画はひたすらある青年とその母の事例に密着する。冒頭で、スティーヴが施設内で放火するなど、手に負えないとして母のダイアンに引き取りが求められる。仕方なく連れ帰るダイアンだが、同時に失業し、とても面倒を見られる感じではない。ちょっとしたことでスティーヴは声を荒げ、暴力も振るって、とても社会に適応できそうもない。そんな時、向かいに住む休職中の教師カイラ(発語に障害が生じて勤められる状態にない)が関わるようになり…。
物語は全然難しい展開はしないのだが、この映画はよく判らない。一つには、父親がすでに死んでいるらしく、過去の状況が全く出てこないので、この母子を理解するためのカギが隠されているのである。映画では母の言葉で、基本的にはスティーヴはADHD(注意欠陥多動性障害)だと言われ、また「性格傷害」「愛着障害」だとも言われ、いろいろ言われて判らないと母も言っている。スティーヴは才能はないわけではないらしいが、映画で見る限り社会に適応する、例えば学校に通って、クラスで勉強するとかクラスメートと人間関係を作れるという感じがしない。それは今までの「成育歴」を丹念に見ていく以外に判りようがないと思うのだが、映画は現在しか描かない。僕には、ADHDという理解では不十分な感じがしたのだが、精神疾患の判断は非常に難しく、映画で描かれた部分だけで判断することは避けたい。施設を退所させられた「放火事件」のようすが全く出てこないのも、理解を妨げている。
だけど、多分グザヴィエ・ドランはそういうことに関心がない。この親子を見つめて、鮮烈な映像を重ねて、音楽を流す。その映像体験の創造に一生懸命である。それは素晴らしい成果を挙げたとも言えるが、やはり「若い」という感じもしてしまう。この監督は、まだ25歳でこれほどの作品を作ってしまう。今までの孤独の中で磨かれた才能の大きさを感じるが、どうも表現が若い。カナダのフランス語圏で、ゲイの若者として育つ。そういうことばかり語られてしまうが、基本的には僕と一番違うのは、どうやら年齢ではないかと思う。この映画を若い世代がどう評価するのか、そしてこのさき、グザヴィエ・ドランがどのような変貌を遂げていくのか、興味深い。
今4つの画像を載せたが、これはこの映画のチラシ。普通、映画のチラシはなぜかB5の大きさになっていて、演劇やコンサートのチラシがA4なのに比べて、一回り小さい。しかし、今回はそのB5のチラシがなくて、もっと小さな正方形のチラシが何種類も置いてある。一応、4種類集めたが、もっとあるのかもしれない。何でこういうことをするのか疑問だったが、映画を見てすぐ判った。画面の多きさが「正方形」(1:1)なのである。画面サイズはいくつかあるが、どの映画でも多少は横長の画面になっている。目が横に二つ並んでいる以上、その方が世界を豊かに描けると思うのが通常。だけど、この映画は左右両端をカットして、1:1の画面というかつて見たことがない描き方をしている。人物が多かったり、風景描写が重要な場合はそれでは不自由だと思うが、この映画は母と子、それに隣人というおもに3人しか出てこない。人物どうしの関係を凝縮して見せるには、適切だったかもしれない。
冒頭の字幕でで、2015年のカナダに新政権が出来て、公共医療政策が変えられ、特にS14という「問題を抱える子どもの親が、経済的困窮または身体的、精神的危機に陥った場合は、法的手続きを経ずに養育を放棄し施設に入院させる権利」を保障した法が可決されたとでてくる。そういう設定の映画だと、一種の「近未来SF」あるいは「歴史改編もの」になる場合が多いが、この映画はひたすらある青年とその母の事例に密着する。冒頭で、スティーヴが施設内で放火するなど、手に負えないとして母のダイアンに引き取りが求められる。仕方なく連れ帰るダイアンだが、同時に失業し、とても面倒を見られる感じではない。ちょっとしたことでスティーヴは声を荒げ、暴力も振るって、とても社会に適応できそうもない。そんな時、向かいに住む休職中の教師カイラ(発語に障害が生じて勤められる状態にない)が関わるようになり…。
物語は全然難しい展開はしないのだが、この映画はよく判らない。一つには、父親がすでに死んでいるらしく、過去の状況が全く出てこないので、この母子を理解するためのカギが隠されているのである。映画では母の言葉で、基本的にはスティーヴはADHD(注意欠陥多動性障害)だと言われ、また「性格傷害」「愛着障害」だとも言われ、いろいろ言われて判らないと母も言っている。スティーヴは才能はないわけではないらしいが、映画で見る限り社会に適応する、例えば学校に通って、クラスで勉強するとかクラスメートと人間関係を作れるという感じがしない。それは今までの「成育歴」を丹念に見ていく以外に判りようがないと思うのだが、映画は現在しか描かない。僕には、ADHDという理解では不十分な感じがしたのだが、精神疾患の判断は非常に難しく、映画で描かれた部分だけで判断することは避けたい。施設を退所させられた「放火事件」のようすが全く出てこないのも、理解を妨げている。
だけど、多分グザヴィエ・ドランはそういうことに関心がない。この親子を見つめて、鮮烈な映像を重ねて、音楽を流す。その映像体験の創造に一生懸命である。それは素晴らしい成果を挙げたとも言えるが、やはり「若い」という感じもしてしまう。この監督は、まだ25歳でこれほどの作品を作ってしまう。今までの孤独の中で磨かれた才能の大きさを感じるが、どうも表現が若い。カナダのフランス語圏で、ゲイの若者として育つ。そういうことばかり語られてしまうが、基本的には僕と一番違うのは、どうやら年齢ではないかと思う。この映画を若い世代がどう評価するのか、そしてこのさき、グザヴィエ・ドランがどのような変貌を遂げていくのか、興味深い。