尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

映画「Mommy」byグザヴィエ・ドラン

2015年05月12日 23時34分14秒 |  〃  (新作外国映画)
 カナダのフランス語映画の俊英、グザヴィエ・ドラン監督の「Mommy(マミー)」を見た。弱冠25歳にして、2014年のカンヌ映画祭審査員特別賞を、ゴダールの「さらば愛の言葉よ」と共に受賞した映画である。138分とけっこう長い。グザヴィエ・ドランについては、昨年公開された「トム・アット・ザ・ファーム」の記事で触れている。セクシャル・マイノリティをテーマにすることが多いゲイの作家だが、今回はセクシャル・マイノリティではないテーマで、子どもだけでなく親の視点も取り入れている。
   
 今4つの画像を載せたが、これはこの映画のチラシ。普通、映画のチラシはなぜかB5の大きさになっていて、演劇やコンサートのチラシがA4なのに比べて、一回り小さい。しかし、今回はそのB5のチラシがなくて、もっと小さな正方形のチラシが何種類も置いてある。一応、4種類集めたが、もっとあるのかもしれない。何でこういうことをするのか疑問だったが、映画を見てすぐ判った。画面の多きさが「正方形」(1:1)なのである。画面サイズはいくつかあるが、どの映画でも多少は横長の画面になっている。目が横に二つ並んでいる以上、その方が世界を豊かに描けると思うのが通常。だけど、この映画は左右両端をカットして、1:1の画面というかつて見たことがない描き方をしている。人物が多かったり、風景描写が重要な場合はそれでは不自由だと思うが、この映画は母と子、それに隣人というおもに3人しか出てこない。人物どうしの関係を凝縮して見せるには、適切だったかもしれない。

 冒頭の字幕でで、2015年のカナダに新政権が出来て、公共医療政策が変えられ、特にS14という「問題を抱える子どもの親が、経済的困窮または身体的、精神的危機に陥った場合は、法的手続きを経ずに養育を放棄し施設に入院させる権利」を保障した法が可決されたとでてくる。そういう設定の映画だと、一種の「近未来SF」あるいは「歴史改編もの」になる場合が多いが、この映画はひたすらある青年とその母の事例に密着する。冒頭で、スティーヴが施設内で放火するなど、手に負えないとして母のダイアンに引き取りが求められる。仕方なく連れ帰るダイアンだが、同時に失業し、とても面倒を見られる感じではない。ちょっとしたことでスティーヴは声を荒げ、暴力も振るって、とても社会に適応できそうもない。そんな時、向かいに住む休職中の教師カイラ(発語に障害が生じて勤められる状態にない)が関わるようになり…。

 物語は全然難しい展開はしないのだが、この映画はよく判らない。一つには、父親がすでに死んでいるらしく、過去の状況が全く出てこないので、この母子を理解するためのカギが隠されているのである。映画では母の言葉で、基本的にはスティーヴはADHD(注意欠陥多動性障害)だと言われ、また「性格傷害」「愛着障害」だとも言われ、いろいろ言われて判らないと母も言っている。スティーヴは才能はないわけではないらしいが、映画で見る限り社会に適応する、例えば学校に通って、クラスで勉強するとかクラスメートと人間関係を作れるという感じがしない。それは今までの「成育歴」を丹念に見ていく以外に判りようがないと思うのだが、映画は現在しか描かない。僕には、ADHDという理解では不十分な感じがしたのだが、精神疾患の判断は非常に難しく、映画で描かれた部分だけで判断することは避けたい。施設を退所させられた「放火事件」のようすが全く出てこないのも、理解を妨げている。

 だけど、多分グザヴィエ・ドランはそういうことに関心がない。この親子を見つめて、鮮烈な映像を重ねて、音楽を流す。その映像体験の創造に一生懸命である。それは素晴らしい成果を挙げたとも言えるが、やはり「若い」という感じもしてしまう。この監督は、まだ25歳でこれほどの作品を作ってしまう。今までの孤独の中で磨かれた才能の大きさを感じるが、どうも表現が若い。カナダのフランス語圏で、ゲイの若者として育つ。そういうことばかり語られてしまうが、基本的には僕と一番違うのは、どうやら年齢ではないかと思う。この映画を若い世代がどう評価するのか、そしてこのさき、グザヴィエ・ドランがどのような変貌を遂げていくのか、興味深い。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画「パプーシャの黒い瞳」

2015年05月12日 00時23分05秒 |  〃  (新作外国映画)
 本の話、時事問題、教育に関する記事などを書きたいと思っているのだが、なかなかヒマがない。そこで書きそびれていた新作映画「パプーシャの黒い瞳」を紹介しておくことにする。東京では岩波ホールで公開中。(22日まで。)岩波ホールはちょっと前まで全部見ることにしていたのだが、最近はまあいいかという気持ちになってしまった。今回は予告編が美しく、しかもポーランドの「ジプシー」の「女性詩人」の話だと言うので、前売券を買っておいた。連休中に見たのだが、どこも(映画に限らず)混んでいるのが嫌なのだが、多分岩波ホールはそれほどでもないだろうと踏んで、案の定かなり空いていたのが、納得できるような残念なような。ここは若い観客が非常に少ないのがネック。

 映画は非常に美しいモノクロで、ここまで美しい風景の白黒映画は宮川一夫撮影の溝口健二映画以来かもしれない。陶然となるが、美しすぎかもしれない。「滅び行く」というイメージを喚起するような美しさであることに、違和感を感じないわけではない。で、あるにせよ、ポーランドの自然の美しさ。設定は20世紀前半から半ばにかけての話だが、映画製作は現代なんだから、これほど美しく撮れる自然が残されているのか。そこが見所の一つなのは間違いない。

 映画ではすべて「ジプシー」と自称、他称されている。現在は「ロマ民族」と書くべきなのだろうが、映画に従って書くことにする。これはポーランドで初めて、ジプシー詩人として詩集を出したパプーシャという女性の数奇な人生を描いた映画である。ジプシーは放浪生活を送り、子どもは学校に行かせない。文字も知らず、自分たちの心情を書き残すこともしない。それを伝統としている。それに対し、パプーシャは小さい時から、文字に憧れ、読み方を教えてもらい、自分で詩を書いたりしていたのである。そこにイェジ・フィツォフスキという実在人物が登場する。政府に追われて放浪のジプシー集団に2年間匿われた経験を持ち、パプーシャと知り合ったのである。この人物がパプーシャの詩を出版した。

 で、パプーシャは有名になって名声を得るという物語かと思っていたのだが、展開は全く違った。ジプシーの秘密をよそ者に明かしたとして、パプーシャは孤立し、孤独の後半生を送るのである。こういう「伝統的非知性主義」みたいなものは、伝統社会には根強いものがある。どんな社会にも「農民(商人…)には学問はいらない」などと言われて高等教育を諦めさせられた人がいるはずである。でも、日本の場合、文字が読めない人は非常に少ない。パプーシャは新聞を読んで、ドイツとの戦争が始まったと大人に知らせるが、皆信用しない。そして、ナチスドイツによって、大規模なジェノサイドの対象にされたわけである。それでも、戦後になっても、「文字」に強い不信を持っている。社会主義政権によって、定住化政策が進められ、パプーシャはそういう政策に乗った人物と非難されたという面もあったらしい。少数民族の中で、「同化」に協力した人物とみなされたわけである。

 そのあたりに関する現時点での判断は難しい。「上からの同化」を批判するのは簡単だが、同時に「伝統集団における女性差別」あるいは「伝統集団における権威的な反知性主義」を支持することもできない。その意味で、イスラム教の伝統的地域における女性の地位などと同じような構図がここにもある。監督はヨアンナ・コス=クラウゼクシシュトフ・クラウゼという夫婦。「ニキフォル 知られざる天才画家の肖像」を撮った人たちである。その映画は見た覚えがある。ポーランドのナイーヴ画家の歩みを描いた映画で、まあ「ピロスマニ」の現代ポーランド版のような映画だった。今回も似たような感じがあって、中央詩壇で活躍した人ではない「民衆詩人」を発掘して映画にしている。映画としては、素朴で物足りない感じも否めないが、内容及び画面の美しさは一見の価値があると思う。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする