尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

スーパーティーチャー志向を排すー私の教師論②

2015年05月31日 22時48分03秒 |  〃 (教師論)
 生徒をめぐる事件が起き、そのクラスの担任教師がいろいろと非難されるということが時たま起きる。担任の対応が不十分ではなかったのか、問題があったのではないかというわけである。そういう大変な事例に教師が遭遇する可能性はどのくらいあるだろうか。100人に1人が1%なんだから、0.00001%もないだろう。小中高全員で100万人近く教師がいて、数年に一人と言った具合だから、そんなものではないか。つまり、通常はそういう目には合わずに教師人生が終わる。だから、「普通の教師」は自分がそういう目に合わないように祈りながら、身をすくめて「世間の目」を生き延びようとする。ホントは言いたいこともいろいろあるんだけど。それが多くのケースで起きることである。

 学校をめぐる、あるいは教師をめぐる言説は相当にあるわけだが、学校現場から見てリアルで生き生きとした論議はほとんどない。特に大きな問題が起きた場合は、「自分が担任をしていたら防げていた」などと思えるケースはまずないから、自分のところで起きなくて良かったと安堵するのが通常である。そして、「あんなこと言われても自分ではやりきれない」と思いつつ、批判を恐れて口を閉ざしている。こうして、「失敗ケースをめぐって現場で議論する」機会は失われる。行政が中心になって「防止策」などを打ち出してくるが、調査と報告が多くなり、タテマエ上のマニュアルが整備されたことになり、当初は忙しくても実施されているが、やがて無理なことは続かないから忘れられていく。

 そういう時に思うことは、「世の中はスーパーティーチャーを求めているのだろうか」という思いである。時には「結果的に防げなかったのから、担任として失敗」などと決めつける人がいる。かつて教師をしていて、今は「教育評論家」などと名乗ってテレビや新聞でそんなコメントをする人もいる。他人の事をそれほど言えるんだから、「自分だったら防げていたと信じているんだろうか」と僕には非常に不思議である。多分、忘れているのかもしれない。自分もいっぱい失敗していたということを。具体的なケース抜きに議論していくのだが、僕には問題が起きた時のケースを(マスコミを通して)見聞きして、自分だったらどうしていただろうと思って、ほとんどの時は自分も同じようなことしかできなかっただろうと思うのである。それを非難できるんだから、僕には世の中は「スーパーティーチャーを求めているんだろうか」と思うわけである。でも、それでは今後に生きてこないし、有益な教訓にはならない。

 教師の大部分は、「学校と生徒を良くしようと思っている」だろうけど、同時に自分や家族の生活や健康、つみあがった事務処理書類、長い通勤時間などを抱えて、実際にやれることには限界がある。それに日常のさまざまな行事指導などが立て続けにあって、生活指導上の問題でじっくり生徒に向かい合う時間も取りにくい。そういう実際の学校を支えている「フツーの教師」でもできる対策を出して行かないと今後には生きないのである。でも、そういう風に発想すると、「反省が足りない」とまた非難されるかもしれない。どんなに大変な時でも、生徒が大変な状況の時には、何を置いても優先するべきだったと。確かに、後で振り返ると、あの時に違った対応をしていればと思うようなケースは、教師ならいくつも抱えているだろう。でもそれができない「現場の構造的理由」を問わずに、後から非難されても「スーパーティーチャ―」でもないと無理だよなあと思う。

 世の中には、一人の教師が何でも出来ちゃう、生徒を救っちゃうという学園ドラマがたくさんある。(その逆にひとりの教員が学校全体を狂わせてしまうという「アンチ・スーパーティーチャーもの」もかなりある。)ドラマのような学園ライフに憧れたかのような新採教員もたまにいて、自分の担当以外にも口を出してくるから迷惑するといったこともけっこうあるんじゃないか。でも、実際の学校には「スーパーティーチャー」はいないし、いたら迷惑するだけである。学校だって地方行政機構の一つで、法と条例によって設置されている。現実の日本にたくさんある「組織運営体の一つ」に過ぎない。教師一人でできることは限られているし、その程度の厚み、深さは持っている。そして、生徒や保護者もさまざまだから、ある教員が一生懸命やっても空回りするというのが、若い時の思い出だろう。

 今「スーパーティーチャー」の定義もちゃんとせずに議論しているのだが、今まで接してきた限りでは、ホントに凄いという人もまずいない代わりに、多くの教員は「部分的にはスーパー」というところもある。だから、そういう部分の技術は盗めるんだったら盗んでしまおうと思って見ていくと、その「スーパー性」がすべての生徒に受けているわけでもないことに気づくことが多い。ドラマではクラス全員、部活全員が心服しているように描かれているが、実際のクラスや部活には「不満派」がそこそこいる。大きな声で言えないから黙っているだけ。多分、これは学校だけでなく、会社やお店なんかでも「やり手」と言われる上司にはつきまとう問題なんだろうと思う。そして、不思議なことに、そういう「不満派」の生徒が相談できる教員がいることが多い。そして、それはスーパーどころか、何だか問題を抱えていそうな教師だったりすることがけっこうある。人間の世界は不思議なものだなあと、僕はそういうケースを見聞きするたびに思ってしまうのである。

 若い教員は決して、学校のスーパーヒーローみたいな教員を目指さないようにすべきだ。若いうえに、スポーツ抜群、歌もうまくて、教科の教え方も面白い、おまけにルックスもいいなんて、そんな人がいるわけないだろうと思うと、今は時々いるんじゃないかと思う。でも、そういう教員には「敬して、心は開かない」という生徒もいる。批判的に見る生徒がいることを忘れずに仕事しないといけない。学校が組織的に動く場面で、一生懸命下支えするつもりで仕事しないといけないと思う。教師は学校の一部分を担うことしかできない。学校や学年の方針、雰囲気などを抜きにして、個々の教員、担任一人が出来ることは限られる。学校に関する事件が起きた時も、そういう風に「スーパーティチャ―にしかできない」ことを求めない方がいい。「生徒の立場」などという人もいるけど、「生徒の立場」「親の立場」「教師の立場」などが対立する場面も、確かにないわけではない。でも、判断基準は「常識の立場」というものもあるはずだと思う。次は「事務的なミス」という問題を。
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「生徒と言う異文化」を前に-私の教師論①

2015年05月31日 00時12分02秒 |  〃 (教師論)
 「安保法制」について、あるいは「選挙制度改革」についてなど書きたいテーマは多いんだけど、それを始めると長くなるに決まってる。自分としては、6月は「教育」に関して書いてしまいたいと思う。それもまた、「教員免許」「アクティブ・ラーニング」「小学校の英語教育」(これは去年からの書き残し)など、いろいろ書きたいテーマは多い。都教委のさまざまの問題もあるし、そのうちまとめて書きたいと思う「中学の社会科教科書問題」もある。だけど、前から予告している「教師論」、特に自分の経験からくる「教師という存在」についての話を先に書いておきたい。そうしないと、書くときがないまま時間が経って、自分でも忘れてしまいそうだ。(なお、ここで言う「教師」とは、ほぼ地方公務員として小中高等に勤務する教員を指して言っている。)

 「教師論」というか、「教師のあり方」、それを大上段から論じる本や新人教員向けのマニュアル的な本はかなり存在する。でも、僕はそういう本を(ある程度は役立つ時もあるとは思うけど)、あんまり納得できたことがないし、役に立たないと思ってる。また、もちろん教育行政が繰り返し行う「初任者研修」など、ほとんど役に立たない。当たり前だろう。「目の前の生徒」は一人ひとり違い、学校ごと、学年ごと、クラスごとに課題は違う。それらの違いを理解して、少しづつ「自分なり」のやり方を見つけるには、自分で考えて、自分で工夫して、自分で「失敗」することを繰り返すしかない。だけど、「自分では考えない」教員作りを行政は進めるし、「失敗」こそ「成功の母」だからと言って、目の前にいる生徒を教えるのは「一回きり」なんだから、失敗しては申し訳ない。苦情も来るかもしれない。そう考えると、「うまく失敗する」ことができない。これが若い時の非常に大きい苦労だと僕は思う。

 教師といっても、もちろん「ベースとしてはただの人」である。だけど、世の中全体からすると、けっこう「不思議な集団」である。例えば、教師は全員大学卒である。だから、学校というところは、多少の例外はあるにせよ、ほぼ大卒者が占めている。これは当たり前だが、世の中にあまりない職場だと思う。では、職員室には「知的ムード」があふれているかというと、普通そういう学校はまずないだろう。忙し過ぎて、ニュースについて語り合う時間もない。大学を出てるからと言って「研究者」じゃないんだし、「ただの人」なんだから。でも、はっきりしているのは、ほとんどすべての教師は「勉強のできる生徒」だっただろうということである。もちろん「ものすごく勉強ができる生徒」だったら、医者や弁護士や中央官僚になっているのかもしれない。あるいは、母校に残って大学の教員になるとか。だけども、勉強が好きでないなら、基本的に毎日授業すると判ってる職業に就くわけがない。採用試験に受かるわけもない。

 何が言いたいかというと、教師は「勉強ができない生徒」が判らないということである。頑張れとか、自分で考えろとか、やればできるとか、教師はよく言う。言われると言われた方も何となくそんな気になってしまう。でも、ホントにできなくて苦労している生徒の事が理解できているんだろうか。目標が持てなくて頑張れないのか、学習障害などが潜んでいるのか、家庭環境が大変なのか。もちろんそういうことはある程度判ってくるもんだけど、最後の最後のところでよく判らない部分が残る。少なくとも僕にはそういうことが多かったと思う。もちろん、教師が生徒一人ひとりの事を完全に理解できるなんて思っているわけではない。「ただの人」がやってる「ただの仕事」であるわけで、教師は「千手観音」ではない。全ての生徒を自分が救えるなどと思うのは「思い上がり」である。でも、ここで言いたいのはそういうことではなく、自分が担当する「生徒という異文化」に立ちすくむ時があるということである。

 家庭環境も違うし、文化的背景も違う。生徒と教師は初めから、かなり大きな違いがある場合が多い。年齢も違うわけだが、これはどんどん違っていく。最初は親や管理職より、生徒との年齢差の方が近い。それだけで、生徒から評価される時期がある。だんだん親の年齢の方が近くなり、やがて何十年もすれば親の年齢も追い越してしまう。そういう「生徒」をどう理解するか、できるか。それが教師のベースだと僕は思う。そして、「要するに人間どうし」であって、「問題生徒」であれ「外国人生徒」(日本語で意思疎通ができにくい「ニューカマー」の事を指している)であれ、通じるものは通じる。卒業して何年、何十年と連絡がある生徒も出来てくる。そういう生徒だけピックアップすれば、「素晴らしい教師人生」のように語れることも多いだろう。でも、僕にとっては、最後までよく判らない部分が残って卒業させた(あるいは高校では中途退学していった)何人もの生徒像こそ、僕にとって「教師という仕事」を語る時に最初に思い浮かべるものなのである。
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