勝海舟(かつ・かいしゅう 1823~1899)という人への関心が深くなってきた。海舟は「肩書き」なんていらない有名人だろうが、書くとしたらどうなるだろう。「幕末・明治の政治家」というべきか。「江戸の町を救った人」、「日本海軍の創始者」とも言われ、咸臨丸で太平洋を渡り、幕末の政局にも幕臣として活躍した。明治新政府でも参議、海軍卿などを歴任した人物である。幼名・通称は麟太郎(りんたろう)、諱は義邦(よしくに)、後に安芳(やすよし)と改名した。幕臣時代の官位は安房守(あわのかみ)、号が海舟で、佐久間象山の書から取ったという。昔の人だから、呼び方はいくつもある。
海舟の銅像で有名なのが、墨田区役所の前にあるもの。墨田区は海舟の生地である。「勝海舟の銅像を建てる会」が全国から寄付を募って区役所前の広場に2003年に建てられた。その経過は「勝海舟を顕彰する会」のホームページにある。若い感じの顔かたちだが、アーネスト・サトウが撮ったという海舟の写真に似ている。その墨田区役所は、浅草から行った方が早い。吾妻橋を渡った川の向こう側のすぐそば。上の最後の写真が橋の上から撮ったもの。よく見ると、向こう側の真ん中に小さく見えている。ほとんど判らないと思うが。(写真を2回クリック。)
ところで、海舟の銅像はもう一つある。墨田区の能勢妙見堂(のせみょうけんどう)で、両国と錦糸町の間の大横川親水公園を北(スカイツリー方面に)に歩いて、紅葉橋のあたりを左に見る。割と小さなお寺が、信号の向こうに見えている。ちょうど両国、錦糸町、スカイツリーの3地点の真ん中、案外行きにくい。能勢妙見堂というのは、大阪北部にある有名な能勢妙見山の東京別院。何でここに海舟の銅像があるかというと、海舟9歳の時に、犬に睾丸を噛まれた。父の勝小吉はここで水をかぶって回復を祈ったという場所である。父の小吉の話は次回に書くが、親子ともに睾丸で寝込んでいる。
海舟が気にかかるようになったのはわりと最近のこと。若い時は「尊王攘夷派」が「革命家集団」に見え、そうなると幕府側は「反革命」として否定的に見ていた。でも、だんだん薩長討幕派のやり方、特に「討幕の密勅」なるニセの文書は合法性がないから問題だと思うようになった。「明治維新」の結果として作られた「大日本帝国」は、果たして人々を幸せにしたのか。特に最近、「長州藩閥政府」を見るたびに、むしろ徳川家が中心になった(徳川慶喜が当初はもくろんでいたような)有力藩の連合政権のようなものができた方が良かったのではないかと思う時もある。「長州藩閥政府」とは、現在の安倍政権のことだが、総裁、副総裁ともに山口県出身で、「集団的自衛権」を合憲とする解釈する強行しようとしている。また薩長討幕派の死者のみ祀る靖国神社を参拝し、長州藩の松下村塾などを「近代化遺産」として世界遺産登録をもくろんでいる。もはや「藩閥政府」ではないかと思うのである。
さて、勝海舟が生まれたところは、JR(または都営地下鉄大江戸線)両国駅からほど近いところにある。北側に国技館や江戸東京博物館があるが、その反対側へ歩いて京葉道路を渡る。ちょうど近くに「吉良邸跡地」の松坂町公園があり、こっちの方が面白いんだけど、この付近は史蹟の多いところで、また別に歩いてみたい。(というか、ブログ開始前に個人的に行ってた場所が多いので、ここではまだ取り上げていないだけだが。)付近に案内表示が多いので、少し迷っても行く着くだろう。今は「両国公園」となっていて、子どもたちがいっぱい遊んでいた。その隅に海舟生地の碑がある。歴史散歩の名所だから、この付近を回っている人は多い。芥川龍之介の碑もあるし、江戸時代に相撲をやっていた回向院も近い。もとは旗本の男谷(おだに)家の屋敷で、父小吉の実家である。本所亀沢町といったあたりで、この父小吉と男谷家の話は、海舟以上に面白すぎるようなエピソードがいっぱいある。
海舟の銅像で有名なのが、墨田区役所の前にあるもの。墨田区は海舟の生地である。「勝海舟の銅像を建てる会」が全国から寄付を募って区役所前の広場に2003年に建てられた。その経過は「勝海舟を顕彰する会」のホームページにある。若い感じの顔かたちだが、アーネスト・サトウが撮ったという海舟の写真に似ている。その墨田区役所は、浅草から行った方が早い。吾妻橋を渡った川の向こう側のすぐそば。上の最後の写真が橋の上から撮ったもの。よく見ると、向こう側の真ん中に小さく見えている。ほとんど判らないと思うが。(写真を2回クリック。)
ところで、海舟の銅像はもう一つある。墨田区の能勢妙見堂(のせみょうけんどう)で、両国と錦糸町の間の大横川親水公園を北(スカイツリー方面に)に歩いて、紅葉橋のあたりを左に見る。割と小さなお寺が、信号の向こうに見えている。ちょうど両国、錦糸町、スカイツリーの3地点の真ん中、案外行きにくい。能勢妙見堂というのは、大阪北部にある有名な能勢妙見山の東京別院。何でここに海舟の銅像があるかというと、海舟9歳の時に、犬に睾丸を噛まれた。父の勝小吉はここで水をかぶって回復を祈ったという場所である。父の小吉の話は次回に書くが、親子ともに睾丸で寝込んでいる。
海舟が気にかかるようになったのはわりと最近のこと。若い時は「尊王攘夷派」が「革命家集団」に見え、そうなると幕府側は「反革命」として否定的に見ていた。でも、だんだん薩長討幕派のやり方、特に「討幕の密勅」なるニセの文書は合法性がないから問題だと思うようになった。「明治維新」の結果として作られた「大日本帝国」は、果たして人々を幸せにしたのか。特に最近、「長州藩閥政府」を見るたびに、むしろ徳川家が中心になった(徳川慶喜が当初はもくろんでいたような)有力藩の連合政権のようなものができた方が良かったのではないかと思う時もある。「長州藩閥政府」とは、現在の安倍政権のことだが、総裁、副総裁ともに山口県出身で、「集団的自衛権」を合憲とする解釈する強行しようとしている。また薩長討幕派の死者のみ祀る靖国神社を参拝し、長州藩の松下村塾などを「近代化遺産」として世界遺産登録をもくろんでいる。もはや「藩閥政府」ではないかと思うのである。
さて、勝海舟が生まれたところは、JR(または都営地下鉄大江戸線)両国駅からほど近いところにある。北側に国技館や江戸東京博物館があるが、その反対側へ歩いて京葉道路を渡る。ちょうど近くに「吉良邸跡地」の松坂町公園があり、こっちの方が面白いんだけど、この付近は史蹟の多いところで、また別に歩いてみたい。(というか、ブログ開始前に個人的に行ってた場所が多いので、ここではまだ取り上げていないだけだが。)付近に案内表示が多いので、少し迷っても行く着くだろう。今は「両国公園」となっていて、子どもたちがいっぱい遊んでいた。その隅に海舟生地の碑がある。歴史散歩の名所だから、この付近を回っている人は多い。芥川龍之介の碑もあるし、江戸時代に相撲をやっていた回向院も近い。もとは旗本の男谷(おだに)家の屋敷で、父小吉の実家である。本所亀沢町といったあたりで、この父小吉と男谷家の話は、海舟以上に面白すぎるようなエピソードがいっぱいある。