昨日は新宿武蔵野館で新作映画を3本連続。思ったよりずっと良かったのが、チェチェン戦争を舞台にしたミシェル・アザナヴィシウス監督の「あの日の声を探して」。ロシア軍の残虐行為を正面から描き、「アーティスト」や「ある過去の行方」のベレニス・ベジョがEU人権員会の職員を演じている。思ったよりつまらなかったのが、テリー・ギリアム監督の「ゼロの未来」。こういうSF映画の、お金をかけて判り切った命題を壮大に描くというやり口には飽きてしまった感じがする。
ここでは1980年生まれの韓国の若き女性監督、チョン・ジュリのデビュー作「私の少女」を書いておきたい。イ・チャンドンがプロデュ―サーを務めた堂々たる社会派映画で、非常に新鮮な感覚で作られた「作家の映画」でもある。でも、とりあえずはペ・ドゥナが主演だから見なくては。ペ・ドゥナが韓国の「普通の映画」、つまりSFなどではない日常のリアリズム映画に出たのは、ずいぶん久しぶりという気がする。いつまでたっても年齢不詳のペ・ドゥナは何歳なんだろうと思うと、1979年10月11日生まれで、もう35歳なのである。何度も日本に来ていることで知られるが、お忍びで新宿武蔵野館に現れ、自身の看板に囲まれた写真を撮っていった由。2枚目はペ・ドゥナの写真。
ペ・ドゥナに女性警官の制服を着せてみる。そんな動機で作ったわけではないだろうけど、これは結構いける。冒頭、女性警官ヨンナム(ペ・ドゥナ)がソウルから海辺の派出所に左遷されてくる。運転しているときに、14歳のソン・ドヒ(キム・セロン)という少女に水がかかってしまう。このドヒという少女が映画のポイントになってくる。大体、ペ・ドゥナが「所長さん」と呼ばれるのはおかしいのだけど、どうも日本でいうキャリア官僚らしい。しかし、「私生活上の問題」がとがめられ左遷された。その問題を書かないと先に進めないし、映画でも途中で判るから書いておくが、「同性愛者」であることが警察内で問題視されたのである。表立っての規定はないらしいが、やはり差別があるということらしい。
赴任した漁村は、若者が町に出てしまい、老人しかいないような過疎の村。そこでパク・ヨンハという男だけが、外国人労働者を使って養殖などを営んでいる。このパク・ヨンハが先に出会った少女ドヒの継父。実母が逃げてしまった後で、ドヒは継父と継祖母から日常的に虐待を受けている。村人は祖母や父の暴言、暴虐を知っているが、有力者パク・ヨンハをはばかって「見ぬふり」をしている。ヨンナムは警官として見過ごせず、ドヒをかばってヨンハに厳しく警告する。そうして、いつのまにかドヒはヨンナムに懐くようになり、夏休み中はドヒを預かるようにもなる。そして、いつもバイクに乗っている祖母の死、ソウルからの恋人訪問(ヨンハに見られてしまう)、外国人労働者をめぐるトラブルなどが立て続けに起こって、ラスト近くの驚くような展開につながっていく。韓国の農漁村の風景は実に美しく撮られているが、そこはやはり「世界」につながっていたのだ。牧歌的な終結は迎えられない。
という風に、セクシャル・マイノリティ、児童虐待、外国人労働者と今の世界で重大視されるような問題がズラッと出てくるのだが…。そういう展開を予想していると、だんだんドヒという少女の存在感が大きくなっていき、この少女は一体何なんだろうと思うようになってくる。(それはラスト近くの若い警官の言葉によって、映画内でも表現される。)ドヒをやっているのはキム・セロンで、「冬の小鳥」のあの女の子である。もう中学生で、いじめられ服も乱れた最初の方のシーンでは幼い感じなのだが、ヨンナムが服を買ってやり、美容院で髪も切って見ると、ずいぶん美少女になっている。数年後には大美人女優に大成しているかもしれないと思わせるものを持っている。ラストに至って、この映画はずいぶん多義的な様相を呈してくるのだが、それもこれもキム・セロンの力なのだと思う。
ペ・ドゥナを初めて知ったのは、ポン・ジュノ監督の「ほえる犬は噛まない」(2000)で、日本公開は2003年。続いて「子猫をお願い」と、犬や猫が出てくるけど役柄は商業高校卒業の町のフツーの女の子だった。パク・チャヌクの「復讐者に憐れみを」まで、映画内でチラシ配りをしている。日本に招かれて韓国からの高校留学生役をやった山下敦弘監督の「リンダ リンダ リンダ」でも、ちゃんとチラシを配らせていたのがおかしい。本当はそういうチラシ配り時代の方が生き生きしていた感じがする。是枝裕和「空気人形」みたいに使ってはいけませんと僕は思う。日本やアメリカの映画にもオファーされるけど、こうして韓国の映画で出ている方がいい。特に、今回は役柄上、運転したり、料理を作ったり、そういうシーンも見られる。だけど、思う。あの、「水」かと思うと、どうやらお酒を飲みすぎで、それがヨンナムの心の闇を表わすんだろうけど、それで車を運転しているのは、どうなのか。まだ韓国では飲酒運転にそれほど厳しくない段階なんだろうか。日本なら、こっちの方で一発で懲戒解雇だけど。
ここでは1980年生まれの韓国の若き女性監督、チョン・ジュリのデビュー作「私の少女」を書いておきたい。イ・チャンドンがプロデュ―サーを務めた堂々たる社会派映画で、非常に新鮮な感覚で作られた「作家の映画」でもある。でも、とりあえずはペ・ドゥナが主演だから見なくては。ペ・ドゥナが韓国の「普通の映画」、つまりSFなどではない日常のリアリズム映画に出たのは、ずいぶん久しぶりという気がする。いつまでたっても年齢不詳のペ・ドゥナは何歳なんだろうと思うと、1979年10月11日生まれで、もう35歳なのである。何度も日本に来ていることで知られるが、お忍びで新宿武蔵野館に現れ、自身の看板に囲まれた写真を撮っていった由。2枚目はペ・ドゥナの写真。
ペ・ドゥナに女性警官の制服を着せてみる。そんな動機で作ったわけではないだろうけど、これは結構いける。冒頭、女性警官ヨンナム(ペ・ドゥナ)がソウルから海辺の派出所に左遷されてくる。運転しているときに、14歳のソン・ドヒ(キム・セロン)という少女に水がかかってしまう。このドヒという少女が映画のポイントになってくる。大体、ペ・ドゥナが「所長さん」と呼ばれるのはおかしいのだけど、どうも日本でいうキャリア官僚らしい。しかし、「私生活上の問題」がとがめられ左遷された。その問題を書かないと先に進めないし、映画でも途中で判るから書いておくが、「同性愛者」であることが警察内で問題視されたのである。表立っての規定はないらしいが、やはり差別があるということらしい。
赴任した漁村は、若者が町に出てしまい、老人しかいないような過疎の村。そこでパク・ヨンハという男だけが、外国人労働者を使って養殖などを営んでいる。このパク・ヨンハが先に出会った少女ドヒの継父。実母が逃げてしまった後で、ドヒは継父と継祖母から日常的に虐待を受けている。村人は祖母や父の暴言、暴虐を知っているが、有力者パク・ヨンハをはばかって「見ぬふり」をしている。ヨンナムは警官として見過ごせず、ドヒをかばってヨンハに厳しく警告する。そうして、いつのまにかドヒはヨンナムに懐くようになり、夏休み中はドヒを預かるようにもなる。そして、いつもバイクに乗っている祖母の死、ソウルからの恋人訪問(ヨンハに見られてしまう)、外国人労働者をめぐるトラブルなどが立て続けに起こって、ラスト近くの驚くような展開につながっていく。韓国の農漁村の風景は実に美しく撮られているが、そこはやはり「世界」につながっていたのだ。牧歌的な終結は迎えられない。
という風に、セクシャル・マイノリティ、児童虐待、外国人労働者と今の世界で重大視されるような問題がズラッと出てくるのだが…。そういう展開を予想していると、だんだんドヒという少女の存在感が大きくなっていき、この少女は一体何なんだろうと思うようになってくる。(それはラスト近くの若い警官の言葉によって、映画内でも表現される。)ドヒをやっているのはキム・セロンで、「冬の小鳥」のあの女の子である。もう中学生で、いじめられ服も乱れた最初の方のシーンでは幼い感じなのだが、ヨンナムが服を買ってやり、美容院で髪も切って見ると、ずいぶん美少女になっている。数年後には大美人女優に大成しているかもしれないと思わせるものを持っている。ラストに至って、この映画はずいぶん多義的な様相を呈してくるのだが、それもこれもキム・セロンの力なのだと思う。
ペ・ドゥナを初めて知ったのは、ポン・ジュノ監督の「ほえる犬は噛まない」(2000)で、日本公開は2003年。続いて「子猫をお願い」と、犬や猫が出てくるけど役柄は商業高校卒業の町のフツーの女の子だった。パク・チャヌクの「復讐者に憐れみを」まで、映画内でチラシ配りをしている。日本に招かれて韓国からの高校留学生役をやった山下敦弘監督の「リンダ リンダ リンダ」でも、ちゃんとチラシを配らせていたのがおかしい。本当はそういうチラシ配り時代の方が生き生きしていた感じがする。是枝裕和「空気人形」みたいに使ってはいけませんと僕は思う。日本やアメリカの映画にもオファーされるけど、こうして韓国の映画で出ている方がいい。特に、今回は役柄上、運転したり、料理を作ったり、そういうシーンも見られる。だけど、思う。あの、「水」かと思うと、どうやらお酒を飲みすぎで、それがヨンナムの心の闇を表わすんだろうけど、それで車を運転しているのは、どうなのか。まだ韓国では飲酒運転にそれほど厳しくない段階なんだろうか。日本なら、こっちの方で一発で懲戒解雇だけど。