「絶対評価」と「相対評価」の問題をもう少し書くと前回書いてしまったので、やっぱり書いておかないと。あまり細かく考えつめたこともないので、今まで思っていたことのまとめだが。昔は、小学校、中学校は「相対評価」を行っていた。学年途中は違う付け方をする場合もあるが、「学年評定」あるいは「調査書に使う評定」(中学3年の2学期)は厳密に相対評価していた。後者の場合、生徒全員の成績一覧表が作られて、数があっているか各校の校長が集まって点検を行っていた。その点検済みの一覧表は願書の出願時に都立高校に提出されるのである。
要するに、「5段階評価」の数が正しいかをチェックするわけである。その時には、「5」と「1」は7%、「4」と「2」は24%、「3」は38%にする。これは統計学上の「正規分布」を前提にしている。つまり、「地域全体の生徒を集めて来れば」、中には成績の良い生徒もいるし、成績が悪い生徒もいるけど、大よそは真ん中程度の平均点前後の生徒が多くなる(はずである)。つまり、横に成績を、縦にその成績の生徒数を書いたグラフを作ってみれば、「富士山型」になる。これが「相対評価」の原理である。
1クラスに40人いるとすれば、「5」と「1」は3人程度になるわけである。このうち、「非常に成績の良い生徒」は一クラスに3人程度というのは、試験の難易度が適当であれば、大体はそんなものではないかと思う。でも、「1」に当たる生徒が「3人いなければならない」というのは、けっこう不条理である。付ける側にも、付けられる側にも。良い学校、良いクラス、良い教師、そして頑張る生徒達であればあるほど、中間程度の生徒も底上げされてくるので、平均点がアップしてきて、「5」はともかくとしても、「4」を付けてもいいような生徒も「3」、つまり「普通」の範囲の成績を付けないといけなくなる。学習状況も積極的で、試験も80点近く取っていれば、普通だったら「4」でいいのではないか。だけど、そういう場合も全員が頑張ってしまえば「3」にしかならない。
だから、中学に勤務しているときは、もっと「絶対評価」に近い付け方にして欲しいと思っていたのである。だけど、その意味は上記のような場合、「4」を付けてもいいのではないかということである。教師としては、ボーダーラインの生徒が頑張っているのなら、できれば上の成績を付けてあげたいということになる。だから、相対評価を変えれば、多くの学校で評定平均が上がることになるだろう。中学段階であまりに厳しい到達目標を掲げて、生徒の成績をどしどし下げてしまうなどという学校があるはずがない。中学からすれば、自分の生徒が志望校に合格できた方がいいわけだから、中学の成績が「甘すぎ」になってしまわないかというのが、高校側、あるいは一般の懸念なわけである。
ところで、高校や大学はもともと「絶対評価」である。これは、入学時点で「生徒(学生)が正規分布になっていない」のだから当然である。成績が似たものがその学校に合格するわけある。学校ごとに生徒の進路希望も大きく異なり、当然のこととして学校ごとに生徒に求める到達度が異なってくる。特に20世紀末頃から「新学力観」に基づいて、本人の意欲なども評価していくことになって、成績の考え方も大きく変わってきた。そうして、義務教育段階の評定にも「絶対評価」を取り入れていくことが始まっていった。東京都では、2002年から実施されている。しかし、そうなってくると、かえって「絶対評価」に潜む問題性もないわけではないということが判ってきた。
もともと、各地域が同じように「正規分布」しているというのが、一種の幻想である。実は各校区で地域差が大きく、さまざまな生徒が一堂に会すると言えなくなってきた。東京では、各学区ごとに大きな成績差があったことは周知のことで、私立高校では各地域の評定を学校で読みかえたりしていた。(推薦入学希望者に対して。外部テストの偏差値を私立校に示せた時代には、学区偏差値を都全体の偏差値に換算して判断することになっていた。)しかし、幻想であれ、生徒が地元の学校に行かざるを得ない制度のもとでは、その「幻想」は維持して行かないといけないものだった。各校、各地域ごとに成績レベルが違うということを公に認めるなら、校区を維持して地域の生徒は原則的に同じ学校に通うというシステムもおかしいということになる。
そして、実際に東京で始まって、その制度も無くなってしまった。小中の段階で、もう校区以外の学校を選んでもいい。「学校選択制」である。また、高校段階でも「学区」はなくなり、原則的にどこにある都立高校を受験してもいい。そういう「競争システム」になってしまうと、「あそこは成績のいい学校」だとして生徒が集まる、そうするとその学校に好成績の生徒が増える。それなのに、相対評価しかできないのでは困ったことになる。高校受験を考えると、内申点をよくするためにはむしろ「成績が低い」と言われるような学校に行かせる方が良いのかということになる。いわゆる「牛後」か「鶏頭」かを、小学校段階で考える必要が出てくる。公立校が、学校選択制だ、中高一貫や小中一貫だと、「エリート校」作りを始めていく以上、「絶対評価」への変更は必然の措置だったのである。つまり、絶対評価の方が「新自由主義的教育」に実は親和的だったのである。
今思うのは、「世の中は相対評価」だということを教師はもっと伝えていかないといけないと思う。五輪の陸上や水泳では、「世界新記録を出せば全員金メダル」ということはない。記録的には遅くても、決勝のレースの順番で、金銀銅、そしてメダル外が決まる。実は、絶対評価に変えて行うという高校入試そのものが、相対評価で合否を判断する。何点以上が全員合格という「検定」のようなものも世の中にはあるが、大体は定員が決まっていて、上から順位を付けて合格になっていく。これはつまり「相対評価」ということである。学校も会社も、世の中の「入札」や「選挙」、さらには「婚活」も、大体は「相対評価」で行う。(まあ、結婚は「絶対条件」を下げないまま、独身を通す人も多いようだが。)世の中は相対評価だということを教えないと、選挙に「入れたい人がいないから行かない」などとのたまう人が出てくる。
要するに、「5段階評価」の数が正しいかをチェックするわけである。その時には、「5」と「1」は7%、「4」と「2」は24%、「3」は38%にする。これは統計学上の「正規分布」を前提にしている。つまり、「地域全体の生徒を集めて来れば」、中には成績の良い生徒もいるし、成績が悪い生徒もいるけど、大よそは真ん中程度の平均点前後の生徒が多くなる(はずである)。つまり、横に成績を、縦にその成績の生徒数を書いたグラフを作ってみれば、「富士山型」になる。これが「相対評価」の原理である。
1クラスに40人いるとすれば、「5」と「1」は3人程度になるわけである。このうち、「非常に成績の良い生徒」は一クラスに3人程度というのは、試験の難易度が適当であれば、大体はそんなものではないかと思う。でも、「1」に当たる生徒が「3人いなければならない」というのは、けっこう不条理である。付ける側にも、付けられる側にも。良い学校、良いクラス、良い教師、そして頑張る生徒達であればあるほど、中間程度の生徒も底上げされてくるので、平均点がアップしてきて、「5」はともかくとしても、「4」を付けてもいいような生徒も「3」、つまり「普通」の範囲の成績を付けないといけなくなる。学習状況も積極的で、試験も80点近く取っていれば、普通だったら「4」でいいのではないか。だけど、そういう場合も全員が頑張ってしまえば「3」にしかならない。
だから、中学に勤務しているときは、もっと「絶対評価」に近い付け方にして欲しいと思っていたのである。だけど、その意味は上記のような場合、「4」を付けてもいいのではないかということである。教師としては、ボーダーラインの生徒が頑張っているのなら、できれば上の成績を付けてあげたいということになる。だから、相対評価を変えれば、多くの学校で評定平均が上がることになるだろう。中学段階であまりに厳しい到達目標を掲げて、生徒の成績をどしどし下げてしまうなどという学校があるはずがない。中学からすれば、自分の生徒が志望校に合格できた方がいいわけだから、中学の成績が「甘すぎ」になってしまわないかというのが、高校側、あるいは一般の懸念なわけである。
ところで、高校や大学はもともと「絶対評価」である。これは、入学時点で「生徒(学生)が正規分布になっていない」のだから当然である。成績が似たものがその学校に合格するわけある。学校ごとに生徒の進路希望も大きく異なり、当然のこととして学校ごとに生徒に求める到達度が異なってくる。特に20世紀末頃から「新学力観」に基づいて、本人の意欲なども評価していくことになって、成績の考え方も大きく変わってきた。そうして、義務教育段階の評定にも「絶対評価」を取り入れていくことが始まっていった。東京都では、2002年から実施されている。しかし、そうなってくると、かえって「絶対評価」に潜む問題性もないわけではないということが判ってきた。
もともと、各地域が同じように「正規分布」しているというのが、一種の幻想である。実は各校区で地域差が大きく、さまざまな生徒が一堂に会すると言えなくなってきた。東京では、各学区ごとに大きな成績差があったことは周知のことで、私立高校では各地域の評定を学校で読みかえたりしていた。(推薦入学希望者に対して。外部テストの偏差値を私立校に示せた時代には、学区偏差値を都全体の偏差値に換算して判断することになっていた。)しかし、幻想であれ、生徒が地元の学校に行かざるを得ない制度のもとでは、その「幻想」は維持して行かないといけないものだった。各校、各地域ごとに成績レベルが違うということを公に認めるなら、校区を維持して地域の生徒は原則的に同じ学校に通うというシステムもおかしいということになる。
そして、実際に東京で始まって、その制度も無くなってしまった。小中の段階で、もう校区以外の学校を選んでもいい。「学校選択制」である。また、高校段階でも「学区」はなくなり、原則的にどこにある都立高校を受験してもいい。そういう「競争システム」になってしまうと、「あそこは成績のいい学校」だとして生徒が集まる、そうするとその学校に好成績の生徒が増える。それなのに、相対評価しかできないのでは困ったことになる。高校受験を考えると、内申点をよくするためにはむしろ「成績が低い」と言われるような学校に行かせる方が良いのかということになる。いわゆる「牛後」か「鶏頭」かを、小学校段階で考える必要が出てくる。公立校が、学校選択制だ、中高一貫や小中一貫だと、「エリート校」作りを始めていく以上、「絶対評価」への変更は必然の措置だったのである。つまり、絶対評価の方が「新自由主義的教育」に実は親和的だったのである。
今思うのは、「世の中は相対評価」だということを教師はもっと伝えていかないといけないと思う。五輪の陸上や水泳では、「世界新記録を出せば全員金メダル」ということはない。記録的には遅くても、決勝のレースの順番で、金銀銅、そしてメダル外が決まる。実は、絶対評価に変えて行うという高校入試そのものが、相対評価で合否を判断する。何点以上が全員合格という「検定」のようなものも世の中にはあるが、大体は定員が決まっていて、上から順位を付けて合格になっていく。これはつまり「相対評価」ということである。学校も会社も、世の中の「入札」や「選挙」、さらには「婚活」も、大体は「相対評価」で行う。(まあ、結婚は「絶対条件」を下げないまま、独身を通す人も多いようだが。)世の中は相対評価だということを教えないと、選挙に「入れたい人がいないから行かない」などとのたまう人が出てくる。