尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

映画「追憶と、踊りながら」

2015年06月12日 23時09分03秒 |  〃  (新作外国映画)
 カンボジア系中国人のホン・カウ(1975~)という新人監督が、ロンドンで撮った「追憶と、踊りながら」は小品ながら忘れがたい趣をたたえた作品だった。静かな画面、少ない登場人物で、登場人物の中にある深い物語が密やかに語られていく。予告編をネットでも見られるが、冒頭に李香蘭(山口淑子)歌うところの「夜来香」(イェライシャン)が流れるのを聞いた時から、時空を超えた不思議な空間に導かれる思いがする。中国語と英語、画面の中では相互に判りあえない言語で、悲痛な思いを紡いでいく。
 
 場面がひんぱんに変わるが、決してわかりにくい映画ではない。多分、そうだろうなあという予想通りに進むと行ってもいい。映画本編が始まると、そこはロンドンの介護施設。そこで一人で暮らすジュンという高齢女性。後にカンボジア系中国人と出てくるが、もう何十年とロンドンで暮らしながら、結局英語を身に付けなかった。苦難のカンボジア現代史を思うと、どうして国を離れたのか、ヨーロッパに行くとしてもなぜパリではなかったのかに関心が湧くが、映画内ではそういった事情は全く語られない。夫はすでに死に、彼女の楽しみは一人息子のカイが訪ねてくることだ。

 そのジュンに、カイの友人だというリチャードが訪ねてくる。一体どういうことなのか、映画の進行ともに見えてくるが、カイはゲイでリチャードと暮らしたいから、母を施設に入れたということらしい。ところが、いよいよ母に告白しようという時に、カイは亡くなったらしい。交通事故で死んだということが後でわかるが、リチャードはカイの思いを受け継ぎ、ジュンの面倒を見たいと思う。だけど、ゲイとは言えず、二人の関係は友人だとしか言えない。ジュンは中国語しか話せないが、施設にいるアランは彼女を美しいといい、二人は一緒にいることが多い、だが、アランは中国語が出来ず、お互いに相互の言語が理解できないのである。そこで、リチャードは友人の女性ヴァンを通訳として連れてくる。こうして、映画のかなりの場面が英語と中国語の通訳シーンという珍しい映画になったのである。

 愛するものを失った共通のせつない思い。ジュンとリチャードは次第に通じ合ってもいくが、それは同時にカイをめぐって争った関係を自覚していくことでもある。真実をめぐって、人生をめぐって、登場人物に亀裂が入っていく物語でもある。映像は過去と現在を自在に行き来して、リチャードとカイ、ジュンとカイの物語を語る。失われたものは二度と戻らない。その痛切な痛みが消え去らない。結局はまた一人ひとりになっていくしかないのだろうか。舞台劇のような、少ない登場人物と限定された空間で作られた物語だが、この言語が通じ合えあないという根本的設定のために舞台劇にはできないだろう。

 実際には英語ができることが演出上の都合で求められ、ジュンはチェン・ペイペイという人。中国武侠映画の伝説的ヒロインで、結婚後に渡米し、モダンダンスをしていたという。その後女優に復帰し、「グリーン・デスティニー」などに出ているという。キン・フー映画にいっぱい出ているらしいから、若い時を見ているのではないかと思うが、名前は覚えてなかった。リチャードはベン・ウィショーで、トレヴァー・ナン演出の「ハムレット」で主演、以後映画でもたくさん出ている。ハリウッド映画「クラウドアトラス」にも出たという、舞台、映画、テレビで今売出し中の英国若手俳優である。僕が見ている「ブライトスター」で詩人のキーツ役を演じていた。物語を紡ぎだすカギとなる「夜来香」という歌はそれ自体が、東アジア現代史を象徴するような歌だが、ここでは詳細は書かないことにする。ネットで予告編を探して見て欲しい。不思議に懐かしく、奇妙なほど心揺さぶられる歌だと思う。
コメント (1)
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