尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「四月は少しつめたくて」-「ほんとうの言葉」を求めて

2015年06月23日 00時37分44秒 | 本 (日本文学)
 谷口直子四月は少しつめたくて」(河出書房新社、1400円+税)という本を読んだ。最近は新刊のハードカバーをあまり買わないんだけど、書評で読んで関心を持った。題名もいいし、「詩と再生の物語」という帯のコピーにも心ひかれる。書き出しを読んでみると「四月は少し冷たくて、それから少し背伸びをしている。だからわたしは四月が好きだ」。これもとても素敵で、是非読もうと思った。

 この本は「詩を書けなくなった詩人」をめぐって、二つの物語が展開する小説である。一つはその詩人の担当に(社長が入院したおかげで)なってしまい、いつのまにか「手下」のようになる詩専門出版社の女性編集者。途中で年齢がばれるが、1973年生まれで、話の中は2013年時点だから39歳から40歳。実は「訳あり」で、ファッション誌の編集者をやめて、つらい時間を経てやっと小さな会社に入社したところ。もう一つは、その詩人が教えている詩の教室に通う女性たち。特に、娘がほとんど口を利かなくなってしまった母親の物語である。高校生だった娘は、同級生を「無視」したことが自殺未遂のきっかけと決めつけられ、それ以来口を閉ざしている。大学入試にも失敗し浪人中。娘の部屋でその詩人の詩集を見つけたことから、詩人の教室に通うようになる。

 この、書けない詩人、女性編集者、女子高生と母親…。悩みを抱え、言葉を失った状態にある人々が、果たして「ほんとうの言葉」を取り戻せるのだろうか?という問題を主筋にしながら、現代の風俗やファッション情報を巧みに織り込み、清冽な感動を呼ぶ小説になっている。作者はどんな人だろうと思うと、高橋直子名義でエッセイ「競馬の国のアリス」を書いた人。読んでないけど、そういう本の存在は知っている。2013年に「おしかくさま」で文藝賞を受賞。「断貧サロン」という小説に続き発表したのが、今回の本。1960年生まれとある。キャバクラとかラインとか、最近の話題もずいぶん出てくるので、正直もっと若いかと思ったけど。

 で、その大詩人、「教科書にも出てくる」とある藤堂孝雄という人。どんな詩を書いてるの?と聞かれて、詩に詳しくない編集者、桜子は「ゆうべはごめんね」としか答えられない。って、もちろん現存しない詩人をフィクションで作ったわけでしょう。「教科書にも出てる詩」を創作するのは、すご技だなあ。

 その詩が中で出てくる。(全部は引用しないので、是非本書で。)
 朝の祈り  藤堂孝雄
  ゆうべはごめんねときみが言った
  きみが恋人なら それは仲直りの始まり
  きみが妻なら 新しい戦いの前触れ
  きみが生徒なら 先生はほっとする
  きみが息子なら 父親はただうなずき
  きみが風なら 倒れた木はもう答えない
  きみが太陽なら 夏は続いて
  きみが雲なら 今日は晴れるだろう
    (中略)
  謝罪は権力を生む
  だからあやまってほしくないんだ
  朝は等しく祈りたいんだ
  言葉をすべて飲み込んで
  狂った世界のために ただ祈りたいんだ
  きみが権力を生まないように 僕が権力を生まないように
  無言でただ 祈りたいんだ

 もう一つ、「霧が晴れたら」という詩も出てくる。これも素晴らしいんだけど、ここでは紹介しない。今書きたいのは、「言葉のいのち」のようなことで、「朝の祈り」の中では、ごめんねで始まった詩が途中で「謝罪は権力を生む」を突然転調する。これはどういう意味だろう?人生には「どうしようもないこと」がある。大切な人の死は、そのもっとも重大なできごとだろう。もはや謝りようもない。だけど、生きている人間の間では、「謝罪」が双方の関係改善の前提であることが多い。小説の中で出てくる「自殺未遂」問題の場合、「真相はどうなのか」がはっきりすれば、「どちらか、あるいは双方が謝る」ことが世の中では求められるだろう。でも、それでも失われた時間は戻らない。いったん損なわれた心は戻らない。世界と一体化していた言葉は、単なる謝罪では元に戻らない。だけど、「そんなことは忘れて、前に進もう」「謝ったんだから、もういいじゃないか」と言われてしまう。

 というような事を思うんだけど、でも現実の世の中では「謝罪」は必要なんだろうと思う。「謝れ」「謝るな」「謝ってるじゃないか」「いつまで謝るの」といった言葉が、今の日本では政争に使われてしまう。謝罪も権力を生むが、無謝罪も権力を生む。その両者を含めて、詩の言葉の表現として「謝罪は権力を生む」というんだと僕は思う。そして、こういう「詩の言葉」が人の心の奥の方を照らし出すということがある。それが詩というものなんだと改めて実感する。

 「ほんとうではない言葉」(オーウェルの「1984年」における新語法(ニュースピーク)のようなもの)は、まさに今安倍政権のすすめる「平和安全法制」に当てはまる。中味もひどいが、この言葉の遣い方が耐えられないという人も多いと思う。「戦争法案」というと「レッテル貼り」なんだそうだが、「平和安全法制」はどうなんだという自省はしない。だけど、同時に「戦争法案反対」という時にも、そこからこぼれ落ちる言葉がたくさんあるということに自覚していないといけない。現代を生きる中で、この小説に出てくる人々ほど「痛切に言葉を失う」体験をしている人はすくないかもしれない。でも、現代人のほとんどは「言葉を失った状態」にある。「マジ」「ヤバい」「かわいい」「いい感じ」しか発しないとしたら、それは「失語」と同じである。

 ところで、この小説に重大な場面で「東京芸術劇場の二階にある喫茶室」が出てくる。前回の記事の演劇が上演されたところ。そこの近くの大学に関係者が通ってるらしいので、それは立教大学なんだろう。おやまあ、いろんな意味で近いところで起こっていたドラマなんだとビックリした。現代の言葉、風俗なんかもいっぱい出てきて、とっても読みやすい本だけど、書いてあることは重い。世界をほんとうに表わす言葉をわれわれは持っているんだろうか。深い内省と感動をもって読み終わった。政治的なことばっかり書いてるブログ、趣味の世界ばっかり書いてるブログ、料理や自分の写真なんかばっかり載せているブログ…。一度この本を読んでみたら…。こういう本、小説や詩というものが魂に不可欠だと判る本。
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